「いやいやいや、待って。めっちゃ怖いんだけど」
「男の子がそんな情けないこと言わない!」
彼女は理不尽な言葉を叫ぶと、おもむろに俺の手を握った。
「え?」
「こうしないと、もらえないから」
短くそう言うと、彼女は握った手に力を込めた。
「ちょっ、まさかの強制?」
未知へのささやかな恐怖が、俺を包み込む。
「痛くないから、じっとしてて」
俺が反抗する間もなく、雪女はその耐性とやらを吸収し始めた。
彼女の白い肌が淡く光ったかと思うと、色が肌色へと変わり始めた。髪の色や目の色まで、人間とは違うあらゆる異質な色が、人間のそれへと変化していく。
一方、俺自身の方は特に何かを感じるでもなく、なんの変化も起きていなかった。
わけもわからず、俺は呆然として突っ立っていたが、すぐに手は離された。
「はい、おしまい」
「え、もう?」
ものの三分もしないうちに終わった。多分、カップラーメンができるより早い。
彼女の方を見ると、その容貌や風体が明らかに変わっていた。透き通るような艶のある長い黒髪に、大きな黒い瞳。健康そうで血色の良い肌色と、それに映える純白のワンピースが印象的な少女へと、変貌していた。
「うそ、だろ……?」
俺は驚きで、それだけ言うのがやっとだった。
「へへーん。ほんとーでしたー」
してやったりといったような、得意げな笑みを彼女は浮かべた。
「どう? どう?」
そのままくるくるとその場で回りながら、感想を俺に求めてくる。
「どうって言われても……」
俺は、変身したことに対する返答よりも、目の前で起きている夢のような現実の出来事に困惑していた。
どこのファンタジー映画だ、と思ったが、ここまでされるともはや逃げ場はなく、観念するしかなかった。
「えっと、契約、だったか?」
「先に見た目についての感想がほしかったんだけどなー。でも、そう。ね? お願いっ!」
少し上目づかいに頼み込む雪女の少女。なんでそんなところは妙に女の子っぽいんだと思いながらも、俺の心は決まった。
が、ここで少し焦らしてみようかという悪戯心も、同時に芽生えてしまった。
「んー、どうしよっかなー」
俺は少しわざとらしく、悩むふりをした。
「えー! お願いー」
そんな俺の思惑を気にする様子もなく、彼女は懇願するように言った。
「んーじゃあさ、いくつか質問いい?」
「うんいいよ! どうぞどうぞ」
なんでも聞いて! と彼女は胸をそらした。せっかくなので、契約とはなんの関係もない、雪女あれこれについて俺は聞くことにした。
「まず、雪女って夏の間どこにいるの?」
「えーとね、涼しい森の中とか、洞窟の中とか、そういうとこにいるよ」
「へぇー」
冬眠ならぬ夏眠だな、と思った。
「んじゃ二つ目。雪女じゃなくて雪男っているの?」
「んー、どうなんだろ? ごめん、私も見たことないからわからないけど、いるんじゃないかな?」
「曖昧だな」
ほんとに雪女なんだろうか、という疑念が一瞬よぎったが、昔話でもあまり聞かないので個体数が少ないだけかもしれない、と思い直した。
「よし、三つ目。雪女って他に何人くらいいるの?」
「んー、実は私会ったことなくて……って、契約に関係ある? この質問」
彼女は今気づいたみたいに、顔をしかめて聞いてきた。
「やっと気づいたのかよ」
俺は笑いをこらえるように言った。
「ちょっと! 私だってこう見えて一生懸命やってるのにっ!」
「まあまあ」
騒ぐ彼女をなんとかなだめながら、俺はこらきれずに笑った。なんだか久しぶりに、笑った気がした。
「まっ、どうせ散る命だ。病気ごときに奪われるくらいなら、かわいい雪の妖怪にささげた方がマシだな」
笑いをなんとか静めて、俺は数分前に既に決心していたことを口にした。
「なんかその言い方、すごくむかつくんだけどな」
「まあまあ、いいじゃないか」
ふくれっ面をした彼女をたしなめつつ、俺は右手を差し出した。
「短い間だけど、よろしくな」
「うん、よろしく! あと、佳生の病気は私が治すから心配しないでね」
「まぁ期待しないでおくよ」
またぷりぷり怒り出した彼女を尻目に、俺は、静かに流れゆく雲を、落ち着いた心持ちで眺めていた。
「わぁ! すごい!」
人間になった雪女は、一面に広がるひまわり畑に歓声をあげた。
今俺たちはこっそりと病院を抜け出し、そのまま裏手にある小道を通ってひまわり畑へと来ていた。そこには、黄色い絨毯が敷かれたように、あたり一面に見事なひまわりが咲き乱れていた。
「すごいだろ? 病院に来るときに一度見てさ、すごく感動したんだ」
体調不良で、検査を受けるために病院を訪れた日のことを思い出す。あの時はまさか自分が不治の病にかかっているなど想像もしていなかった。
「もうすごいとしか言いようがないよこれは! すっごく綺麗……っ!」
彼女は喜色満面の笑顔でそう答えた。まさにひまわりのような笑顔だな、と思った。
「そっか」
俺も笑みを浮かべて相槌を返す。過去のことを思い出して一瞬沈みかけていた気持ちが、彼女の明るい笑顔のおかげでいくらか楽になった気がした。
そのまま俺たちは、ゆっくりとした足取りでひまわり畑の周りを歩いていく。昼頃の定期検査を終え、次に看護師さんが来るまでまだかなり時間があった。
「そういえばさ、ひまわりは見たことなかったの?」
ふと思いついて、俺は聞いた。今まで夏の間は森や洞窟の中で過ごしてきたなら、ひまわりそのものを見るのが初めてなんじゃないか、と思ったのだ。
「ううん、大きいのは遠くからちょっとだけ見たことあるよ。でもこんな近くで、それもあたり一面に咲いた大きなひまわりは初めて!」
彼女は、まるで無邪気な子どものようにはしゃぎながらそう答えた。なんだかそれだけで、彼女が夏に対して抱いている憧れの大きさを窺い知ることができた。
そんな彼女の様子を見ていて、俺はあることに気がついた。
「あれ? そういや、なんでおまえがいるのに気温が下がらないんだ?」
今、俺は全身汗だくになっていた。病衣がピタリと肌に張り付く感触が気持ち悪い。昨日気温が十度とか言ったやつはいったい誰なんだ、と恨めしく思うくらいに、とにかく暑かった。
「あれ? 言わなかったっけ? 私がこの姿の時は気温下がったりしないんだよ?」
嬉しそうに笑いながら、彼女はそう言った。
「なにー! 俺の動くエアコンがーー!」
衝撃だった。全くもって聞いていない。
「え、ひどっ! 私のことそんな風に思ってたの⁉」
彼女は眉間いっぱいにしわを寄せて、ずいっと顔を近づけてきた。
「え? 他に何が?」
もちろん冗談だが、ここはリクエストにお応えしてとぼけたように答えた。
「佳生くん? 氷像になるのと氷漬けになるの、どっちがいい?」
底冷えするような声で、彼女はそう言い放った。
「大して変わんなくね⁉ つーか、おまえが言うとシャレにならないからやめろ」
満面の笑みで笑えない冗談を言う彼女に、俺はなんとか取り繕うことしかできなかった。
そんなやりとりを続けながら、俺たちは緩やかな坂道を下っていった。このまま先に行くと小さな空き地があって、休みの日にはいろいろなイベントをしている。といっても、俺は病衣のままだし、次の問診の時間までには戻らないといけないので、そこまで行くつもりはなかった。
時間的にもそろそろ折り返した方がいいかなと思ったところで、あの憎らしい発作が突如襲ってきた。
「うっ……」
痛みと熱さのあまり、思わずうずくまる。昨日のやつほどじゃないが、この痛みと熱さは何回経験しても慣れない。
「佳生っ!」
彼女はすぐに駆け寄ってきて、俺の背中と太ももに手をあてた。すると、俺の全身を駆けずり回っていた痛みと熱さが、うそのように引いていった。
「はぁ、はぁ……。ごめん、ありがと」
お礼を言いつつ、俺は額に浮き出た汗を拭った。
「気にしないで。これも契約のうちなんだから」
心配そうな表情をしながらも、彼女は明るくそう言った。
「さすがは俺の動く鎮静剤機だ」
「……殴ってもいいかな?」
「代わりに耐性でも持っていってくれ」
服の乱れを整えながら、俺はなんとか立ち上がった。軽く胸を押さえてみたが、苦しくはなかった。発作の症状は、完全に治まっていた。
「大丈夫?」
「うん、大丈夫。それより、そろそろ戻ろうか?」
「え! もうそんな時間⁉」
俺の体調を慮る表情から一転、彼女は心から残念そうにうなだれた。綺麗な黒髪が、肩口からさらりと落ちる。
「帰る時間も考えると、そろそろ行かないとなんだよ」
彼女を安心させる意味でも、俺は笑いながらそう言った。
「えー、もうちょっとだけ歩かない?」
「帰りも歩きだから、それで勘弁してくれ」
俺は、まだしぶる彼女をなだめながら、去年とは違う、これからのひと夏へと思いをはせていた。
契約を交わして以来、俺たちはほぼ毎日、一緒に裏庭で話したり病院の周りを散歩したりしていた。本当はあちこち行ければいいのだが、今年の春になってからというもの、俺の病状が思わしくないようで、度重なる検査や問診でなかなか遠出できないでいた。
「あーあ、せっかく暑い中走り回れるようになったのになあ」
彼女は大きく伸びをしてから、暇そうにベンチにもたれかかった。
「仕方ないだろ。ほんとはベッドだってそんな離れちゃいけないんだし」
俺は、買ってきたペットボトルのお茶を飲みながらそう言った。
俺も本当は彼女にいろんな夏の楽しみを教えてあげたい。しかし、なにぶん病院とは退屈なわりに監視は厳しく、どうにも行動に移せないでいた。
一度、俺に気にせず遠くへ遊びに行ってきたらどうだと勧めたことがあった。でも彼女が言うには、熱への耐性は六~七時間ほどしかもたないらしい。さらに土地に不慣れなことも相まって、俺がいなければ無理とのことだった。
「お互い不自由な身の上だよね」
苦笑いを浮かべながら彼女は言った。
全くだ、と思った。暇なのにやりたいことができないとはどんな拷問だ。
「そういえば、真夏にいったい何をやってみたいんだ?」
俺は何気なく聞いてみた。真夏の空の下で生きてみたいとは聞いたが、具体的にこれがしたいとはまだ一度も聞いていない気がする。
「あれ? まだ言ってないっけ?」
「おまえ、そういうの多いな」
ひまわり畑でのことといい、伝え忘れ多すぎだろと思った。おまえは物忘れの激しいおばあか、とツッコみたくなったが、言わないでおいた。どうせ、またなんか物騒な言葉が飛び出してくるに決まっている。
「うーんとね、海水浴とか!」
少し考え込んでいた彼女が、思いついたように言った。
「あーいいね! あの青々とした海で俺も久々に泳ぎたいわー」
最後に行ったのは中学生の時だったかな、と思い出にしばし浸る。
「あとは山でキャンプ」
「確かに、冬にしたらおまえに会いそうだしな」
「凍らされたい?」
「……続きをどうぞ」
失言してしまった。
どうも俺はこいつを怒らせる天才らしい、と思った。初めて会ってからまだ一週間も経っていないが、もう何度もこの言葉を聞いた気がする。
「キャンプをしたら、夜にはやっぱり肝試しだよね!」
「絶対狙って言ってるだろ? そうだろ⁉」
「ほんとにしてみたいことなんだけどなー」
彼女は含みをもった笑みを浮かべてそう言った。
この女は思ったよりも意地が悪いのかもしれない、と思った。
病院の中に戻ると、エントランスに小さな笹が設置されようとしていた。そばにあるテーブルには、来院者用の短冊が置かれている。
そういえば、去年もちょうど今ごろに、看護師さんが病室にカラフルな短冊を持ってきたっけな、とそれほど昔でもない出来事を思い出す。
以前は、どんな願い事を書こうかわくわくして考えたものだったが、高校生になった今ではさすがにそんな気持ちにはならない。病室に持ってこられた時も、五秒で考えて五秒で書いて提出、した気がする。
「もう七夕の季節かー」
俺が何の気なしにつぶやくと、暇だから病室まで付いていくと言って隣で歩いていた人間姿の彼女が小首を傾げた。
「七夕ってなんだっけ? どこかのお姫様と王子様が駆け落ちするお話?」
いったい何の話だ、と俺は思った。
七夕といえば、雪女の物語と同じくらい有名な物語だ。といっても、詳しいルーツは去年病院の説明文を読むまで知らなかったし、雪女の物語に至っては子どものころに聞きかじったくらいなので、俺もあまり人のことを言えたたちではない。
「違う違う。織姫っていうお姫様と、彦星っていう牛飼いの物語だよ」
勘違いしたままいられてもあれなので、簡潔に三十文字前後で七夕物語について説明した。さすがに織姫と彦星の名前を聞けば思い出すだろうと思って言ったのだが、予想に反して彼女はさらに首を傾げた。
「織姫? 彦星?」
「そこからかよ」
どうやら、本当に知らないらしかった。
彼女は興味津々といった様子で、「ねぇねぇ! どんなお話なの?」と聞いてくる。
こうなった時の彼女はまず自分から引かない。まだ出会って間もないが、幾度となく彼女が興味を持ったものを、関心が尽きるまで説明させられた。
俺は軽くため息をつきながら、ほとんどうろ覚えの物語を頭の中から引っ張り出し始めた。
俺は七夕の物語が嫌いだ。
小さいころはそうでもなかった。七夕の歌を歌ったり、純粋に願い事を考えたりするだけでもわくわくした。中学生の時も、友達とふざけた願い事を書いたりして楽しかった。
でも、あの日を境に、変わった。
所詮は上辺だけの世界で、ただの不毛な理想となった。
ある時、綺麗な織物を織る織姫と、働き者の牛飼いである彦星が恋に落ちる。二人は恋にうつつを抜かして仕事を怠けるようになったため、それに怒った織姫の父親の神様が天の川を挟んで二人を会えないようにした。しかし、二人は嘆き悲しみ、仕事をよりしなくなったため、真面目に働くことを条件に一年に一度会えるようにした。
実に単純明快で、取り留めのないお話。
真面目に働き続けることの大切さ。
やるべきことを放り出すことへの警告。
恋や愛に対する戒め。
だけど、今の俺には、その前提にあることすらも、できない。
将来働くことも。やるべきことを持つことも。恋愛をすることも。
去年の七夕の日は、入院して初めての検査の結果が出た日だった。
俺の行く末が決まった日。
不治の病である痛熱病だと診断され、余命は長くて二年だと言われた日から、一年が経とうとしていた。
あの日以来、俺の生活は一変した。
休学を余儀なくされ、家に帰ることもできなくなった。
家族を心配させまいと前向きな発言を繰り返し、必死に笑顔を作っていた。
――大丈夫。
――治らないと決まったわけじゃない。
――まだ可能性はある。
そう、自分に言い聞かせてきた。
本当は、泣きたかった。叫びたかった。
いろんな検査をした。いろんな薬を試した。脊髄だか延髄だかの液を取るみたいなこともした。
とにかく、必死に生きようともがいてみた。
でも、ダメだった。
どんな薬を飲んでも、どんな療法を試しても、一向に改善の兆しはなかった。それどころか、発作の回数は増え、ひどい時は気絶することもあった。
半年後には、俺はもう何に対しても無気力になっていた。
興味があった職業への夢を、捨てた。
俺がやるべきことは、ただ寝ることだけになった。
高校で夢見てた甘酸っぱい恋愛への憧れは、掻き消えた。
全て、放棄した。放棄せざるを得なくなった。
俺は、なるべく傷つかないよう、静かに死のうと思った。
この余命は、神だか悪魔だかがくれた死への準備期間だと思うことにした。
裏庭は、そんな気持ちを落ち着け、整理するために行く場所だった。
そんな、死への支度をするための場所で、彼女と出会った。
夏に生きることへの希望を膨らませ、青い瞳を爛々と輝かせていた。
俺とは対極にある、生への希望を、彼女は抱いていた。
最初は正直、少し鬱陶しく感じた。無理に夏に生きようとせず、冬に生きられるなら冬に生きてればいいじゃないか、と思った。
でも、死が目前に迫った俺にとって、彼女のもつ夏への希望は羨ましく、まぶしかった。せめて最後くらいは俺もそれに触れていたい。そう思った。
だから、俺は契約を結ぶことに決めた。もちろん、彼女のもつ不思議な能力や病気を治すという話が気にならないわけじゃない。でも、それよりも、俺は生への未練を絶ち切るために、彼女の生を手伝いたくなった。
ただ、それだけだった。
俺が、七夕物語の内容をかいつまんで説明し終えると、彼女は大げさに拍手をしていた。
「へぇー! すごく切ない物語だったんだねー」
「そういうこと。なんだ、さっきの駆け落ちの物語って」
俺は病室のベッドに腰掛け、さっき思ったツッコミをする。
彼女は頭を掻きながら、えへへへ……と苦笑いしていた。
「でも、なんでそれが短冊に願い事を書くってことになるの?」
本日二桁に届きそうな「なんで?」がまた飛び出してきた。七夕物語の説明の合間にも、「なんで会えるのが一年に一度なんだろ?」とか「なんで物語の名前は『七夕物語』って言うんだろ?」とかやたら質問が多かった。中には「織物をしているお姫様で織姫はわかるけど、なんで牛飼いをしている男の人が彦星なんだろ?」とかいう、そんなの知るか的な質問もあった。
少し疲れ気味の口調で、俺は彼女の質問に答える。
「確か、織姫のように綺麗な織物を織れますようにって書く習慣が変わってそうなったとか書いてあった気がする」
「へぇーそうなんだ!」
これで全て納得したのか、彼女は満足そうな表情を浮かべていた。
「でも佳生すごいね。なんでそんなに覚えてるの?」
……訂正。どうやら、まだ終わってなかったらしい。
「いや、たまたまだよ。それに本とか読むのはわりと好きだから」
「へぇ! なんか意外!」
「どういう意味だよ」
「いや~なんでもないよ~。とにかくありがとね!」
どうやら彼女は本当に満足したらしく、はにかみながらそうお礼を言った。最後はなんか納得がいかないが、これ以上質問が続いても面倒なので追求はやめておいた。
とにかく長かった説明をし終え、俺はひとつ大きく伸びをする。
サイドボードの時計を見ると、もうそろそろ四時になろうとしていた。
今、俺たちは病室まで戻ってきており、もう三十分もすれば問診をしに看護師さんが来る。その時くらいまでには帰ってほしいのだが、質問は終わっても彼女の興味そのものは尽きていないらしく、あれやこれやと話はまだ続いていた。
「夜空にある天の川かー。一度でいいから見てみたいな」
「見せたいのはやまやまなんだけど、夜は来院者も少ないし抜け出るのもなかなか厳しいからなー」
実際、時期的にはもう天の川を見るのに適した季節になっている。なんでも、天の川は一年中見れるが、夏から秋にかけて一番綺麗に見えるのだとか、前にテレビで言っていた気がする。さすが七夕に使われる川だな、と風情もなくそう思った。
「あ」
突然、彼女がいいこと思いついちゃったみたいな顔をして、短くそう叫んだ。なんだかいい予感がしないのだが、ノータッチというわけにもいかない。
「なんだ?」
俺はぶっきらぼうにそう聞いた。
「今日の夜さ、裏庭で見ようよ」
だはーっと俺は大きく息を吐いた。ついさっき、難しいと言ったばかりじゃないか。
「だから、夜は……」
「消灯時間後なら行けそうじゃない? 見回りの看護師さんしかいないし」
わくわくするよね! と彼女は頬を紅潮させて言った。
またこれは言っても聞かないタイプのやつだ、と思った。しかし、さすがにやめさせないと後々厄介なことになる。なんとか彼女をなだめようと、口を開いた時、
「佳生?」
聞き慣れた声がした。声のした方を見ると、母親が心底驚いたような、戸惑っているような顔をして、俺と彼女を交互に見ていた。
しまったな、と思った。話を聞かれていた可能性もさることながら、彼女のことをどう説明したらいいかわからなかった。
よし、とりあえず帰らせよう。
そう思って、彼女に声をかけようとした時だった。不意にガタッと彼女がイスを引いて立ち上がり、母親の方へと向き直った。
「初めまして。私は佳生くんのクラスメイトで、今日はお見舞いに来たんです」
さわやかな笑顔を浮かべ、いつもとは違う声のトーンで彼女はそう言った。かと思うと、くるりと俺の方を振り返り、「それじゃあまた」と手をひらひらさせた。語尾に、ほとんど聞こえないような声で、「夜、裏庭でね」と付け加えて。
俺が何か言う間もなく、彼女はさっさと病室を出ていってしまった。その様子はどこか慣れているような感じがした。
後に残された俺と母親はしばらく呆けていたが、問診をしに看護師さんが病室に入ってきて我に返った。
いつも通り退屈な問診を終え、俺と母親の間にはしばし沈黙が流れていた。俺が何に対しても無気力になってからはいつもこんな感じで、会話らしい会話もしたことがない。今日もこのまま終わるだろうと思っていたが、母親がためらいがちに口を開いた。
「あの子、佳生の彼女?」
「は⁉」
俺は驚いて反射的に声をあげた。
入院して学校にほとんど行ってないのになぜその結論に至るのだろう、と思った。勘違いもいいところだと反論しようとしたが、その前に母親が続けて言った。
「冗談よ」
「なんだよ」
クスクスと母親が笑う。その顔にはいつものような戸惑いの色はなかった。なんか、久しぶりにこんな顔を見たな、と思った。
「それで? あの子、名前はなんて言うの?」
「あー……、聞き忘れた」
今度は、母親が驚く番だった。「名前も聞けないくらい人見知りだったかしら」とか、なんかすごく失礼なことを言っている母親をそっちのけで、俺はなんとなく彼女の名前について考えていた。
「わぁ、すごく綺麗」
彼女は、夜空に輝いている星々を見てそうつぶやいた。その声には、ひまわり畑の時と同じように感嘆の色が混じっている。
俺たちがいるのは、いつもの裏庭。消灯時間のあと、俺はこっそりと病室を抜け出し、見回りの看護師さんたちに見つからないよう時には遠回りをしながらも、なんとか辿り着いた。気分は映画に出てくるスパイで、久しぶりにドキドキしていた。
「あー疲れた」
俺は達成感を感じつつ、小さく伸びをした。
「お疲れさま。それと、来てくれてありがとね」
小さく微笑みながら、彼女はそう言った。なんだか彼女らしくない、と思った。
「もしかしたら、来てくれないんじゃないかなって思ったから」
「なんで?」
「んー、なんとなく」
彼女は夜空に目を戻してからそう言った。田舎町の病院ということもあって、星たちは雑多な光に遮られることなく、はっきりと頭上に広がっている。
「あっ! もしかしてあれが天の川?」
彼女は星空の一部を指差した。その先には、大小さまざまな星々が列を成して煌びやかに光っていた。
「そうそう、あれだよ」
俺もその星々の列――天の川へと視線を移して言った。
天の川は、息を吞むほどの美しさだった。整然と並んだ星々は不規則なリズムで煌々と瞬いており、夏の夜空を一種の芸術作品に仕立て上げていた。小さいころから天の川自体は何度も見てきたが、今目の前に広がっているそれは全くの別物のように感じた。
天の川に視線を向けながら、俺たちはそれほど大きくない裏庭を歩いた。
そこでふと、俺は先ほどから思っていたことを口にした。
「あのさ、もしかしておまえって……」
「名前がないの」
俺の語尾にかぶせるように、彼女はそう答えた。
「さっき病室を出た後、気になって様子を見に戻ったら……聞こえちゃって」
彼女は夜空から目をそらさずに続ける。しかし、その視線の先には天の川はない。
「そっか……」
俺は、それだけしか答えられなかった。
名前がない。
それは、すごく不安で、寂しい感じがした。
前から、なんとなく察してはいた。でも、いざ本人の口からそう告げられると、なんて返したらいいかわからなかった。
しばらくの沈黙。五分とも、十分ともつかないような時間の中で、俺たちはただただ夜空を眺めていた。その沈黙を破ったのは、彼女だった。
「でも、いいの。人から呼ばれる機会なんてないしさ。名前なんて、多分あっても意味ないから」
視線を夜空から俺の方へと移し、笑いながらそう言った。その笑顔は、泣いているように見えた。
なぜか、心の中がざわざわした。
どこかで見たような笑顔。
……そうだ。あの時だ。
俺が、両親を悲しませまいとして、こっそり鏡を見て作っていた笑顔に、そっくりだった。
「夏生、とかどうだ?」
俺は、咄嗟に答えていた。自分の言った言葉に、自分でも驚いた。
彼女はと言うと、「え?」と小さく声をあげ、戸惑っていた。それでも、俺は続けた。
「夏に生きることを夢見ている少女で、夏生。俺の名前から一文字取ったっていうのもあるけど、意味はこんな感じ。我ながら傑作だと思ってるんだけど」
どうかな? と彼女に返答を求めてみる。なかなか出過ぎたことをしたと思ったけど、もう後には引けなかった。俺はじっと彼女の目を見て、待った。
「佳生が、つけてくれるの?」
その声は、少し震えていた。
「俺はおまえのこと、これからも呼ばないといけないしな。名無しは呼び方に困るし、頼むからつけさせてくれ」
もっと気の利いたセリフもあったのかもしれないが、これ以上は照れくさくて無理だった。
「ふふっ、わかった。その名前、ありがたくもらうね」
夏生は、微笑みながらそう答えた。
七夕も過ぎ、俺の高校では夏休みになっていた。
「霜谷、久しぶり」
同じ高校に通う幼馴染、岡本佳はそう言って、ベッドの脇に置いてあるイスに腰掛けた。彼は、学期末になると、必要なプリントだとか顔も知らないクラスメイトが書いてくれた色紙だとかを持ってきてくれる。俺は親とはほとんど話らしい話をしないので、夏生と会う前は唯一といっていいほどの話し相手だった。
「おー、岡本か。久しぶり」
俺と岡本は名前が似ている。そのため、紛らわしいとの理由からお互いのことを名字で呼んでいた。
「そういえば、作詞の方はどうだ?」
俺は岡本から渡された色紙を眺めながら、それとなく聞いてみた。
岡本は作詞家を目指していた。音楽にさほど興味のなかった彼が、中学の時に突然、「俺、作詞家を目指そうと思う」と言った時は頭がいかれたのかと思った。しかし今では音楽について勉強し、合間を縫っては自分が作った歌詞を俺にメールで送って感想を求めてきていた。大学もそれに合わせて目指しているようで、そのひたむきさは純粋にまぶしく思えた。
「んー、まぁぼちぼちといった感じ」
岡本はカバンからルーズリーフの束を取り出し、俺に渡してきた。
「とか言いつつ、結構書いてんじゃん」
ざっと見ても五十枚くらいはある。裏にもびっしりと歌詞が書かれており、まるで彼の静かな熱意が込められているようだった。
「ふーん」
俺はパラパラとそれらをめくる。岡本は少し悲しめの、ビターな雰囲気の曲や歌詞を好んでいた。今回もそんな感じだろうと思って読み始めたのだが、
「あれ?」
違和感があった。ほとんど、というか全く悲しい感じがない。それどころか、いつもよりやたらと明るめの、それも恋愛に関するものが多い。……最後のやつなんて、ちょっとだけ痛い。
「なんか、今回は恋愛系ばっかだな」
俺は何も考えずに率直な感想を述べた。そして、あることに思い至った。
「もしかして、彼女でもできたか?」
冗談半分で俺はそう言った。昔から恋愛の「れ」の字もなかった岡本のことだ。まさかそれはないだろうと思って聞いたのだが、予想外の言葉が彼の口から出てきた。
「いや、その……実は、そう」
岡本が恥ずかしそうに笑った。珍しく、その目が泳いでいる。俺は自分の耳を疑った。
「……は? マジ?」
「マジ」
彼は急に真面目な顔になって言った。その目は真剣そのもので、どうやら本当らしかった。
確かに岡本は顔も悪くないし、身長も俺より高い。スポーツは万能というほどではないがそこそこでき、頭も良かった。モテる要素はあるのだが、なにぶん性格が恋愛向きでなかった。というより、恋愛に興味がないという雰囲気を醸し出していたのだ。なので、今回の報告はそれなりに俺たちにとって重大事と言えた。
「告られたのか?」
「いや、俺から告った」
ますます驚いた。どういう風の吹き回しだよ、と思った。
「同じクラスなんだけど、なんか気になって、告った」
岡本は曖昧かつ簡潔に答えると、カバンからプリント一式を取り出し、横にあるサイドボードに無造作に置いた。
変わってないな、と思った。岡本は、自分が不得手な話題になると行動でごまかそうとする癖があった。今もなにやら、置いたばかりのプリントを一枚一枚確認しては並べ替えたりしている。
俺はそんな彼の様子を眺めながら、とりあえず話題を変えるために先ほど出た検査結果を伝えることにした。
「そういや俺の病状だけど、少し良くなってるみたいだ」
「え?」
岡本は手を止めて、こちらを見た。
俺はそんな岡本の表情の移り変わりを楽しみつつ、言葉を続けた。
「といっても、治ったにはほど遠いんだけどな。発作の回数とか、減ったけどあるにはあるし」
「でも、前よりはいいんだろ?」
岡本は前のめりになって聞いてきた。
俺は少し戸惑いながらも、「ああ」とだけ答えた。
実のところ、病状は好転していなかった。正確には、「注射の使用回数が減った」だけだ。それを先生は、「発作の減少」と判断したらしい。
最もだと思った。誰でも、注射の使用回数が減ったのは発作が減ったからだと思うだろう。実際は、夏生といる時の発作は注射を使わずに抑えてもらっているからだった。
そんな微かな動揺を気取られないように注意しながら、俺は前々から考えていたことを岡本に提案した。
「それでさ、外出許可が出たら、今度キャンプでも行かねーかなって」
それは、夏生と約束していたことだった。
結局、契約とやらを結んでから一ヶ月、ほとんど夏らしいことをしていない。裏庭で話すか、たまに病院を抜け出してひまわり畑を散歩するかのどちらかが、今までの俺たちの夏の過ごし方だった。夏生は何も言わないが、このままでは発作を抑えてもらっているぶん申し訳なかった。
岡本はしばらく考え込んでいたが、やがておもむろに頷いた。
「いいな、それ。でも外泊の許可なんて出るか?」
「なかなか難しいだろうけど、なんとかするよ」
「無理はするなよ」
彼はやけに慎重な口ぶりだった。もしかしたら、去年のことを思い出しているのかもしれなかった。
岡本は、俺に初めて発作が起きた時そばにいた。突然うずくまる俺にパニックになりながらも、救急車や俺の親に連絡をし、連日お見舞いにまで来てくれた。俺はこいつに心から感謝しているし、治してからしっかりお礼がしたかった。だから、余命宣告をされた時はどうしようもなく、悔しかった。
そんなことを考えていると、岡本がまたなにやら視線をキョロキョロさせていた。
「今度は何だ?」
訝しみながら聞くと、彼はためらいがちに口を開いた。
「そのキャンプ、彼女も連れて行ったらダメか?」
「は?」
「いやだから、彼女を……」
「待て待て、聞こえてるって。でも、突然どうした?」
同じ言葉を繰り返そうとする岡本を手で制し、その理由を聞いた。当たり前だが、学校に行っていない俺はその彼女とやらとは面識がないし、なにより相当気まずい。彼女の方も、痛熱病を患った休学生などと会っても困るだけだろう。デメリットしか見えてこないこの提案にどんな思惑があるんだと思いつつ、俺は岡本の返事を待った。
岡本は目を右往左往させていたが、やがて意を決したように俺を真っ直ぐ見据えた。
「霜谷にさ、紹介したくて」
「はい?」
「いやだから、霜谷に……」
「そのくだりはいいから続けろ」
なんだかループしそうな問答を押しとどめて、先を促す。
「俺さ、こんなに真剣に人を好きになったこと、今までなかったから。だから、幼馴染の霜谷には彼女のこと、知っててもらいたくて、その……」
「お前は内気の草食系男子か」
顔を真っ赤にしてしどろもどろになりながら話し続ける岡本に、ツッコミを入れた。
やっぱこいつ変わったかも、とさっきの岡本評価を訂正する。
「とにかくっ! 頼む!」
「あぁわかった、わかったよ。しょうがねえな」
俺はもうこれ以上岡本の惚気を聞くのが面倒くさくなったので、了解することにした。岡本は本当に嬉しかったのか、横で何度もお礼を言っている。
でもこれで、俺も夏生のことを言いやすくなったな。
俺はそんなことを考えながら、夏生のことを話そうとした時だった。
「佳生! おはよう!」
病室のドアが勢いよくガラッと開き、ここ最近一番聞いている声の主が入ってきた。
「夏生か。おはよう」
といってももう昼なんだがな、と思いつつ返事をした。
夏生はあの天の川観察の夜以来、ほぼ毎日病室に顔を出していた。なんでも俺が来るのが遅いとかで、自分から来るようになったのだ。
「早速、いい?」
「え、ちょっと待て、今は……」
俺が止めるより早く、夏生は岡本の横をすり抜けてベッドのそばまで来ると、俺の右手を自分の両手で握った。外からの日光でほとんどわからないが、ぼんやりと夏生の身体が青く光りだす。
実はこの時の夏生は、以前言っていた自分の力で人間になっていた。しかし、その持続時間は微々たるもので、なるべく早く俺から耐性をもらわないといけないらしいのだが、なにぶんタイミングが悪かった。おそるおそる横を見ると、呆然とした様子で岡本がこちらを眺めていた。
俺は半分無駄と知りつつも、とりあえず弁解を試みる。
「いや、あのな、岡本。これは……」
「わかってる霜谷。何も言うな」
「いや、絶対わかってないって」
呆然から一転、したり顔でこっちを見てくる岡本に、俺はささやかに抵抗した。だが、この構図を見てから反論しても、もはやなんの効果もないことは明白だった。
夏生ももうちょっと空気読んでくれよ。
隣で懸命に耐性をもらっている彼女に、心の中で抗議する。
唯一の救いとしては、岡本が夏生の身体の光に気づいていないことだった。こればっかりは説明のしようもないので、特に疑う素振りも見せない岡本の様子に、俺はほっと胸をなでおろした。
そうこうしているうちに耐性の吸収が終わったらしく、夏生は手を離した。
「よしっ。これで今日も頑張れそう!」
「それは良かったんだけど、ほら……」
俺は視線だけを夏生から岡本の方へと移した。すると、今初めて岡本の存在に気づいたかのように、夏生は顔を真っ赤にして慌ててお辞儀をした。
「え? あ、ご、ごめんなさい! 私、全然気づかなくて!」
「いや、いいよいいよ。いいもの見せてもらったから」
岡本はこちらの反応を楽しむように俺の方を見た。このままだとなんか癪に障るので、自分の時とは大違いだな、と軽くツッコんでおいた。
夏生はというと、どうすればいいのかわからないらしく、あたふたとしていた。それはどちらかというと、吸収しているところを見られたというより、単に全く知らない人がいきなり目の前にいて戸惑っている、といった感じだった。ふう、と息をひとつ吐き、俺は助け船を出すことにする。
「夏生、こいつは俺の幼馴染の岡本佳」
「よろしく」
岡本はスッと立ち上がると、右手を差し出した。
「あ、えと、雪村夏生、です。こちらこそよろしくお願いします」
わたわたしながらその右手をとる夏生の様子に、俺は思わず吹いてしまった。
「な、何がおかしいの!」
「いんや、べつに」
俺はひらひらと手を振り、夏生の反論を受け流した。
まだ慣れていないのか、夏生の自己紹介は妙におどおどしていた。といっても、ここ最近の看護師さんへの自己紹介でだいぶ上達してはいるのだが。
ちなみに、夏生は自分の名字を「雪村」と名乗っていた。初めてこの名字を聞いたのはこの前、再び俺の母親と会った時だった。夏生が突然、「雪村夏生です」と言ったのには驚いた。後で名字のわけを聞くと、何やら少し考えてから「んー雪女だから?」と軽い調子で答えていて、俺は思わず呆けてしまった。なんで名字の方はそんな軽いんだ、とツッコもうと思ったがやめておいた。どうせまた笑顔で脅迫されるに決まっている。
そんな夏生の自己紹介も終わり、俺はキャンプの話へと話題を戻す。
「でさ、キャンプなんだけど……」
「雪村さんも、だろ? わかってるよ。ったく、俺にだけ恥ずかしい思いさせやがって」
「わりぃな」
拗ねたそぶりを見せる岡本に、俺は片手をあげて謝った。そして、俺たちはなんだかおかしくなって、二人して笑った。
隣でひとり、クエスチョンマークが頭の上に百個くらい浮かんでいるような顔で、夏生が俺たちのことを見ていた。