真木くんは、拗ねるように私を見た。「後で――」と誤魔化そうとしていると、不意のバルーンリリースに目を奪われている人混みの中、空に釘付けになっている大家先生を見た。先生の周りには、東条さんや乃木さんがいる。やがて先生は、自分を見ている私に気づいた。先生は最後に優しい笑みを浮かべて、私やバルーン、文化祭を楽しんでいる皆に背を向けて去っていく。

「あの人、死刑になるんでしょ」

 ぼそり、と隣にいた真木くんが呟いた。

「え?」

「あの人なんでしょ、犯人。乃木さんとか、東条さん、いるし」

 真木くんはどうやら、乃木さんと東条さんが猟奇殺人専門の刑事さんと勘違いをしているらしい。どう答えようか迷っている間に、「もう、大人だしね」と続ける。

「お腹すいた。めーちゃんとバルーンのやつ見れたし、もうたこやき食べておうち帰る」

「だ、駄目だよ真木くん! ちゃんとお昼食べて、喫茶店戻らないと」

「えぇ……めんどう……」

 真木くんがふわぁと大きな欠伸をした。私は慌てて「起きて」と、真木くんの肩を叩く。やがてバルーンは粗方飛んでいってしまったのか、生徒たちは視線を下ろし、各々文化祭を楽しみ始めた。もう見向きもされなくなってしまった空を、私はもう一度見つめる。

 大家先生は、決して許されないことをした。四人も人を殺したのだ。許されて良いはずがないし、一生償っても、償いきれないことだ。死刑になって、当然だと思う。もし、真木くんが殺されていたらと思うだけで、怖くて仕方なくなる。

 でも、それでももっと、いじめが起きていなかったら、ふつうに先生は皆に慕われるいい先生だったんじゃないかと、そんな風に思ってしまう。そして、もし自分が大切な人を殺されてしまったら、絶対復讐しないなんて、言い切れない。でも、復讐によって真木くんが殺されるかもしれない。だから、簡単に否定出来なくて、悪であるはずの殺人を真っ向から否定できないことに、やるせなさを覚える。

 私は先生のお姉さんを想いながら、真木くんと文化祭を歩いていったのだった。

◇◇◇

 文化祭が成功し家に帰ると、晩餐川連続猟奇殺人事件の犯人が正式に捕まったことで、ニュースは持ちきりだった。沖田くんのお兄さんが捕まったときは、確定的な証拠が出なかったけれど、犯人の自白があるからと先生の名前は出されていて、クラスのトークグループでは大家先生が捕まったことで、これからどうなってしまうのかと混乱が起きていた。

 でも、他ならぬ沖田くんの、『今は憶測で何か言う時じゃないだろ。変にマスコミみたいに騒ぎ立てんのやめようぜ』という言葉により、落ち着きを取り戻している。

 私は、ふとスマホから視線を離し、窓へと近づいた。カーテンを開き、窓を開けて、そっと真木くんの部屋に声をかける。

「真木くん、もう、寝た?」

 近所に迷惑になるからそっと声を潜ませるけれど、真木くんの部屋の窓はいつも開いているから聞こえているはずだ。やがて彼の部屋のカーテンがシャッと音を立てて開かれ、窓も開かれる。

「起きてる……おめめばちばち……」

 真木くんは両手で目をかっと開いた。その姿がなんだか子供の悪戯みたいで、自然と笑みが溢れる。彼は満足げに笑った後、「なあに」と笑った。

「突然、だけどね、真木くん」

「うん」

「なんか、大家先生が捕まったりして、こんな時に言う話じゃないと思うんだけど……」

「うん」

「私、真木くんのこと、好きだよ」

 今日、初めて理解したんだと思う。身近で、いつも当たり前にいるはずだった存在が消えることが、本当にあるということを。私は真木くんが、彼が自分から離れていく以外であったなら、そばにいて当たり前の存在だと思っていたのだ。そんなことは、ありえないことなのに。真木くんが明日、突然病気で死んでしまうかもしれない。突然、殺されてしまうかもしれない。私が死んでしまうかもしれない。二人とも、いなくなることだってある。

 それなのに、私はただ真木くんが自分から離れていくことだけを考えていた。そんなことありえないのに。過去も未来も大切だけど、今だって、同じように大切にしなきゃいけないのに。

「私、真木くんと一緒にいたい。ずっと、ずっと」

「いいの? 芽依菜は、それで」

「いいよ。もう何でもいい。私じゃ真木くんを幸せにしてあげられないとか、真木くんを置いていった私なんかが、とか、そういうの考えるのはやめる。ちゃんと私が真木くんを幸せに出来るように頑張るから、どうやったら私が真木くんを幸せに出来るか考えるようにして、そういうので悩むようにする」

 試すような真木くんの言葉に深く頷く。私じゃ真木くんが幸せになれないじゃない。私が真木くんを幸せにする。考えるのはそれだけでいい。悩んで自己嫌悪して、傷付かないように真木くんの言葉を信じないのはもうやめだ。傷付いてもいい。閉じた世界でも、私は二人で幸せになりたい。

 もう一度、私は真木くんに気持ちを伝えようと、顔を上げた。けれどそれより速く真木くんはベランダを飛び越えてきて、私の隣に立った。

「俺は、芽依菜の隣が一番幸せだから。芽依菜が笑ってくれたら、なんにもいらない。俺も、好き」

 ぎゅっと、抱きしめられる。その体温も抱きしめ方も、子供の時のそれとはまったくかけ離れていて、真木くんはいつの間にか、どんどん成長していたんだと実感した。がっしりした手つきも、抱きしめる強い力にも全部安心して、私はぶかぶかのパーカーが弛む背中に腕を回したのだった。
 大家先生が逮捕され、文化祭が終わってから一ヶ月が経過した。初めの三日間こそ、学校にマスコミが殺到して大変なことになっていたけれど、次第にマスコミの人たちは新しく起きた爆破事件に関心が向き始め、この間までの喧騒が幻だったかのように、学校に平和が訪れている。

 生徒たちも、始めこそ緊迫した空気が漂っていたけど、文化祭の片付けが済んでいくのと同じくして代理の担任の先生が立てられ、事件について話をする人は減っていった。

「はーあ、ごはんごはん……」

 食堂の座席につくと、真木くんはシチューの置かれたトレーを置いてぐったりと突っ伏した。私は彼の隣に煮魚定食を置いて席につくと、手を合わせる。

「いただきます」

「いただーき、ます……」

 真木くんもおぼつかない手つきで手を合わせてから、シチューを食べはじめた。学食の奥、一際人だかりがある方向には、沖田くんがバスケ部の面々を引き連れながら、楽しそうに食事をしている。その黄色とも白とも言えない、ミルクティーカラーの金髪は光を受けキラキラ輝き、人目を惹いていた。

 沖田くんは、文化祭明け、髪の毛を金髪に染めてきた。本人曰く、元々やってみたかったらしい。お兄さんを見て、いいなと思っていたとも言っていた。幸い校則に染髪の規定はなく、違反していないけれど、どちらかといえばダークカラーの髪色が多い天津ヶ丘生の中では、金髪はよく目立った。しばらくの間はわざわざ見に来たりする生徒もいたけど、今はだいぶ落ち着いている。そして、金髪の沖田くんは女子生徒の人気がドッと出たようだ。ファンクラブも出来て、バスケ部は入部希望のマネージャーが殺到しているらしい。

 そして沖田くんの反対方向では、吉沢さんと和田さんが一緒にラーメンを食べていた。吉沢さんはネギを和田さんの丼にせっせと移し、和田さんは刻み海苔を吉沢さんの丼に移しているように見える。ちょこちょこ雑談を交えながらお互いのラーメンを自分好みに変えていく二人とは、文化祭が終わっても話をするようになった。てっきり文化祭が終わったら話せなくなってしまうのかと、おそるおそる声をかけたら、体育の着替えを一緒に行ったり、授業の合間に話をしたり、交流が増えた。

 始めこそ、くじ引きで外れてしまった……と思った文化祭だけれど、文化祭をきっかけに話をしたことのない子と話せるようになったし、友達も出来た。

「あ、そういえば真木くん」

「なあに」

「夏に、真木くん吉沢さんになんて言ったの? 何か、私のことで質問されたって聞いたけど……」