そして、誘拐が起きた日に芽依菜はクラスの友人から、真木とずっと一緒にいることを指摘され先に帰ってしまったこと。クラスの友人は、自分が嫌がる真木を引き留め続けたせいだと、泣きながら自分の家に電話をしてきた時、園村の憎悪はより強固なものとなっていった。
その反面、真木だけを責めることは出来なかったのだ。真木のIQの高さについて、その両親から聞いていた園村は、当初からそんなものはまやかしの数値だと半信半疑であった。だから芽依菜が誘拐された時、すぐに現場を調べワゴン車の足取りを推察した真木の意見を却下し、虱潰しに捜索をするよう命じたのだ。誘拐の捜査は初動が肝心で、真木は幼い子供。捜査の邪魔をするなと苛立ちすら覚えていた。
しかし、芽依菜が自らの手で脱出したその場所は、真木が推察し園村に伝えてきたルートだった。あの時真木が芽依菜に追いついていれば誘拐事件が起きなかったのと同じように、自分が真木の意見に耳を傾けていれば、芽依菜の負った傷がもっと浅いものであったかもしれない。答えのない正解を探しながら園村が仕事に打ち込んでいると、奇跡が起きたのだ。
それまで閉じこもっていた芽依菜が、まるで事件が無かったかのように穏やかになり、閉じこもっていた芽依菜が、部屋から出るようになったのだ。それはあまりに劇的で、お伽噺のような変化だった。ハッピーエンドを迎え、エンドロールが流れて締めくくられていく喜劇のワンシーンとしか、表現できない変化だった。
しかし、園村が娘である芽依菜の本当の変化に気づくことに、そう時間はかからなかった。
「あ、今日真木くんが遊びに来る日だ! 大変! 窓を少し開けておかなくちゃ」
そう言って、窓を僅かに開ける娘を見て、「どうして?」と、その日たまたま非番で家にいた園村は問いかけた。すると、芽依菜は当然のようにこう返したのだ。
「真木くん、この間誘拐されたでしょう? だから、車で連れ去られてる時のこと、思い出さないようにって。真木くん、泣いちゃうから」
その言葉が、十分すぎる答えだった。芽依菜は真木が誘拐されたと思いこむことで、今までの日常を取り戻していたのだ。そうして園村家へと訪れた真木は、髪を肩にかかるくらいまで伸ばし、気怠げでありながらどこか怯えた顔で、芽依菜の手を掴んでいた。自分が誘拐され、外に出ることを恐れながらも、芽依菜に守ってもらうことを望む真木朔人を演じながら。
IQが高く、才能に恵まれただけの人間が、人に洗脳紛いのことなんて出来るはずがない。そう思う園村の前で行われた芽依菜と真木のやり取りは、園村の考え方を否定し、上から押さえつけるように納得させるものだった。
芽依菜は、誘拐されたことで日常生活すら困難になってしまった真木を守ることで、社会生活を得ている。万物において失敗し、自分の身を危険に晒す真木を見ながら、自分は守られなかった側の人間ではなく、守る側の人間だと、真木によって教えこまれていく。一度、園村はそれを止めたことがあった。しかし、真木は誘拐されてないと伝えた瞬間、芽依菜は狂ったように叫びだし、事件の再演をされているかのように部屋を飛び出し、そのままベランダから飛び降りたのだ。そんな芽依菜を救ったのも、また真木であった。彼はすぐさま芽依菜を抱きかかえて飛び降り、彼女を守った。自分の腕を折りながら。そして、気を失った芽依菜を抱きながら、芽依菜の母親である園村に、無情に宣告したのだ。
ーー今はその時じゃないから、邪魔しないでください。娘さんを、殺したくなければ。真木にそう告げられて以降、園村は芽依菜の思い込みを否定することも、しようと思うことも無くなった。
さらに学校側にも誘拐の件は触れないでほしいと口止めをしている。あまりに特殊な状況から、病院に本人を伴い通うことも出来ず、真木の物忘れを良くするために、カウンセリングの同行をしている体で、芽依菜は病院に通っている。医者もカウンセラーも、誘拐事件について触れることは一切ない。
そして今日、匿名の通報が入り、園村は乃木と東条とともに天津ヶ丘高校へ訪れると、職員玄関に現れたのは教職員ではなく、真木だった。真木は訝しむ乃木と東条の言葉を全て無視して、「黙っていてください」とだけ伝えて、美術室の隣、美術準備室へと入り、声を潜めて美術室の中を窺うよう指示したのだ。
反抗しようとする乃木と東条を宥めながら、そっと美術室を覗いた園村が目にしたのは、芽依菜が大家と対峙し、連続猟奇犯人犯として看破しているまさにその瞬間だった。
だからこそ、芽依菜の精神を暴力的に安定させた真木が、芽依菜をみすみす殺人鬼の前に立たせることが、園村には信じられなかった。真木が学校で、芽依菜の手洗い、着替え以外絶対離れないようにしていることは、芽依菜の雑談からも痛いほどに知っている。警察が手を焼き、捜査本部を何度も拡大させてもなお捕まえることが出来ず、あまつさえ誤認逮捕すらしかけた犯人を芽依菜がたまたま見つけ、そして対峙したことが、偶然だとは全く思えなかったのだ。
「真木くん、あなたもしかして、大家先生が人を殺していたこと、最初から知っていたんじゃないの」
夕焼けで染まる美術室で、園村は娘の幼馴染に問いかける。仮にも大人を相手にしているのに、真木は視線一つ動かさない。
「何故そう思うんですか」
「事件について知って、それを推理した貴方は、芽依菜に事件を解決させようとした。大家が復讐をしている間に芽依菜に推理させたら、大家に邪魔だと思われ消されてしまう。だから大家の復讐が終わるのを待ってから、芽依菜が事件を積極的に調べるよう仕向けて、推理のヒントを与え続けた。違う?」
確信めいた言葉にも、真木は表情一つ変えない。それどころかいつも間延びした彼の口調とは到底思えない速度で、淡々と切り替えした。
「推理のヒントを与えても、芽依菜が推理するとは限りません。ただでさえ、芽依菜は意欲的に動くことができなくなっている。ヒントを与えたところで、気づかない、無視する可能性もある中で犯人と接触させ引き合わせることはかなりリスキーではありませんか」
「文化祭委員をさせて、友達を増やして、ストレス耐性を少しずつ与えて課題をクリアさせて、芽依菜の精神的成長を加減しながら促した、というのはどう?」
「芽依菜が文化祭委員に選ばれたのは、くじ引きですよ」
「でも、貴方にはそれが出来るはずだわ」
園村は、自分の勘に自信があった。絶対に証拠が出ないことも分かっており、更にはそれを真木が予測済みということも分かっての発言だった。真木は変わらず淡々とした口調だが、園村に視線を合わせた。
「俺は、芽依菜にはもう絶対に危険な目に遭ってほしくないんですよ」
「でも、大家の姉は暴行グループに拉致されていた。担任教師なら、芽依菜が誘拐に遭ったことを知っている。姉が受けた仕打ちを実際に受けた芽依菜に対しては、配慮をして接する。それこそ――自分の復讐を邪魔しない限り。そう、貴方は判断した」
「俺はあの日、芽依菜の手を掴めなかった。警察は、芽依菜を救ってくれなかった。それは一生変わりません」
真木の視線が、唯一ぶれた瞬間だった。
「このまま、貴方は一生を償いによって失い続けても、いいの?」
「償いじゃありません。俺は、芽依菜のことが好きなので。芽依菜が笑ってくれたら、それでいいんです」
「そうしたら貴方は永遠に」
本当の意味で、芽依菜の隣に立てる日は来ない。園村がそう続ける前に、真木は口を開いた。
「その為なら、俺は一生芽依菜に男として見られなくても、面倒くさがりでぼーっとしてて、頼りがいなんて無い欠点だらけの真木朔人でいいです。完璧な真木朔人も、結局芽依菜を守れなかった時点で完璧ではないので」
「でも」
「それでは、失礼いたします。それと、先日乃木と東条という警察官が、芽依菜を呼び出しました。必要があったので会わせましたが、誘拐の件について触れてきた以上、今後は一切逢わせる気はないのでよろしくお願い申し上げます」
真木は、興味なさげに持っていたパネルを園村に差し出し、廊下を後にする。園村は真木が持ってきた大家みずきのパネルを眺め、ずっとその場に佇んでいたのだった。