「ああ。始めは文化祭始まる前にやってたんだよ。色々偏差値あげて整わせても、やっぱり近所からの印象は少し悪くてな、だから、カラフルな風船がいっぱい飛んでる学園祭にしたい――って、文化祭委員が企画したらしい。ただ、最初は批判も多かったけどな、危ないって」

 バルーンリリースには、純度の高いガスを使わなきゃいけない。それは火がつきやすくて、爆発しやすい。それもあるけれど、ガスを誤って吸ってしまうと呼吸困難に陥るらしい。昨日の夜、調べて分かった。ガスは無臭で、漏れていても気づきにくいそうだ。味も色もなく、吸っていても気づかない。眠るように意識を失い――死に至る。

 バルーンリリースには風船がたくさん必要だし、膨らましている間に事故が起きない保証はない。それに、純度の高いガスであればあるほど、手に入れることは難しい。簡単に手に入れるなんて出来ないのだ。

「でも、生徒の力ってすごいよな。批判されたイベントが、今は文化祭の目玉だ。バルーンリリースを一緒に見た二人は結ばれるなんてジンクスまであるんだろ? すごいよなぁ」

 先生は、窓の外へ視線を移す。その笑顔は優しい先生そのもので、とても四人の人たちを殺した殺人鬼には見えなかった。

「どうして――先生は、人を殺したんですか? 大家(たいか)先生」

 今まで、こんな質問を人にしたことはない。多分、今日が最初で、最後だろう。昨日まで生徒が授業を受ける為にその役割を担っていた机と椅子は、今は文化祭で皆を愉しませる為に置かれている。だから、私たちを取り囲む机と椅子はところどころ欠落があって、より一層異質な空気を醸し出していた。

「なんだ、突然。面白いことを言うな園村。今流行りのTPRPGってやつか?」

「……青薬荘ってアパートに住んでいる、大家さんってお婆さん、先生のお母さんですよね? 私、見たんです。先生の描いている絵と全く同じ人の遺影が、お婆さんの部屋にありました」

 今朝、私は先生の描いていたパネルを確認した。そして、あの緻密に描かれていた絵の女の人は、やっぱりお婆さんの部屋で一瞬だけ見えた遺影と同じ顔だった。それから、図書室にあった歴代の卒業生が載っているアルバムを見たけれど、そこには連続殺人事件の被害者の人たちと名字が同じ生徒たちの他に――先生の、お姉さんらしき人が写っていた。

「そのお婆さんと俺が親子だからって、何の関係がある?」

 告解をまるで求めていない静かな瞳で、大家先生は首を傾げた。たいかという読みなのに、ダイヤと読んだ生徒がいたことから、先生はだいちゃんと呼ばれることとなった。流石にだいちゃんと呼ぶのが気まずい生徒はだいちゃん先生と呼ぶようになったけれど、ニックネームの元になった宝石と同じくらい、眩しさと強さを持った先生は、もうどこにもいない。

「お婆さんの家の前――青薬荘に向けて、町内会長の梨塚さんが防犯カメラを設置していたんです。お婆さんが、ゴミを捨てる決まりを守らないからと。今朝、その映像をお願いして見せてもらいました。そうしたら、沖田くんのお兄さんが捕まる前、なしづかアパートに向かって歩いていく先生の姿が見えました。沖田くんのお兄さんが捕まったきっかけとなった証拠が入っていたゴミ袋と、監視カメラを照らし合わせれば、先生がそれを捨てたと分かるはずです」

「違法な手段で手に入れられた証拠は、証拠扱いにならないんだぞ?」

「だから、私は自首してほしいとお願いをしに来ました。先生は、ずっとお姉さんの復讐をされていたんですよね……?」

 梨塚さんに、防犯カメラの映像を借りたいとお願いした時、私はそこで、天津ヶ丘高校――昔の四つ切高校が荒れ果てていた時代に起きた事件について聞いたのだ。それは、女子高生がいじめに耐えかね、自殺したというもの。真面目で優しい生徒は、荒れたクラスメイトをまとめようとした。文化祭をきっかけになんとかクラスをいい方向へ持っていこうとした結果――いじめられ、最終的に校内で自殺をした。

 バルーンリリースは、はじめそんな彼女を追悼する目的で行われたらしい。しかしその意図は次第に風化し、今ではただの文化祭のイベントのひとつとなり、さらに学校名や校舎も変わり、学校から彼女の死の痕跡は、跡形もなく消えた。

 そしてその彼女の弟が、大家先生だったのだ。

「大家先生のお母さんは、多分、先生が何をしているか、全て分かっています。ただ、貴方の行動を真っ向から止めることは出来なくて、生徒の家族を犯人に仕立て上げることも嫌で……刃物を捨てたり、自分が目立つ行動を取ろうとしていたんだと思います」

「……生徒の家族じゃねえよ。沖田は、姉さんを殺した馬鹿な奴らの血を引いてる。それも、主犯のな」

 先生が、血を吐くように私を睨んだ。けれど、すぐに悲しげな顔で、視線を落とした。

「もっと、沖田が馬鹿みてえに、呑気に暮らしてたら、復讐し甲斐もあったんだがな……」

「先生……」

「上の兄は、なんとか家出ようと必死に働いて、工場と解体業者かけもちで、財布落とした男見て、盗むか盗まないか悩むくらい追い詰められて、高校生と幼稚園の兄弟養おうと必死でさぁ。クソみたいに苦しんで……」

 先生は、「本当、馬鹿みてえだな」と、黒板消しを手から離した。すぐにサッシに着地したそれは、僅かな粉を舞わせている。

「美術の教師になりたいって夢は、ずっと姉さんの夢だったんだ」

「お姉さんの……?」

「ああ、優しくて、真面目で、絵描くの、すげえ好きでさ。俺が描いてっていったもの、何でも描ける人だった。小さい頃は画用紙に好きな漫画とか、アニメとかのキャラ描いてもらって、幼稚園とか小学校で、皆に自慢してた。でも、俺中学受験失敗してさ、親に、ボロカスに言われて……ガキみたいにグレて、遊び歩いてたりしてたんだよ」

 大家先生が、教卓を降りた。先生はゆっくりとこちらに近づいたかと思えば、飾られたお姉さんの絵の前に立った。

「俺は荒れて学校なんて行ってなかったけど、姉さんはいじめられて――死んだ。美術部で絵を描いてたはずなのに、一枚も返ってこない。燃やされてたんだろうな。それで学校が名前変わったって聞いて、姉さんのこと消そうとしてんのかなって。校舎も変わってさ、姉さんが死んだことすら、皆に忘れられていく。許せなかった。でも、死ぬなんて簡単だろ。姉さんにとって死ぬことは救いだった。俺にとっては地獄だったけどな。だから。だから、姉さんをいじめてた奴らの――家族を殺したんだ」

 その言葉に、最後の疑問が溶けていくようだった。先生のお姉さんの代と、今までの被害者とは致命的に年代が合わない。きっとお姉さんのクラスメイトを殺していたのなら、警察の人だってすぐに犯人に辿り着き、捕まえていただろう。

「あいつらにしてやったのは、全部姉さんがされてたことだった。だからその手順で曾祖父、祖父、父親、それで弟って順番に殺していって、そうしたら若返り殺人なんてバカっぽい名前つけられてさ、どう考えてもいじめられた人間の状態なはずなのに。誰も、姉貴について口にしない。同級生なら、なんとなく分かるはずなのに、結局見て見ぬ振りだった。だから――今もこうして、俺はお前の前にいるんだろうな」

 先生は、悲しげに笑った。今まで見てきた誰よりも、穏やかな声色をしながら。

「ずっと、このままでいいのかって思ってたんだ」

「え……?」

「全部終わらせるまで、捕まるわけにはいかないと思ってた。でもいざ、警察が俺を疑わないと思うと、姉貴がいないのに、俺はこの先も捕まらずに生きてくのかと思ったんだ」

「まさか、死のうとして……」

「教え子の前で自殺なんてしねえって。トラウマになるだろ。まぁ、担任教師が連続殺人犯っていうのも、十分トラウマになるだろうけどな」

 大家先生はおどけてみせるけれど、まるで昨日とは別人に見えた。そして、ずっとテレビで恐れていた殺人鬼だということも、今まさに先生が認めているというのに、信じられない。

「姉さん、文化祭……絵飾りたいって楽しみにしてたんだ。その絵、隠されたか捨てられたらしくて、どこ探しても無くてさ。さすがに遺影は置けないから――ここに、置いてやりたくてな。気休めかもしれないけど……」

「先生……」

「自首、するよ。生徒であるお前に見つけられたってのも、もしかしたら姉さんがそうさせたのかもしれないし。今日お前の親来てるんだろ? 文化祭終わったら……自首する。それでもいいか?」

「はい……」

「悪いな、園村。こんな先生で。お前は過去に囚われないで、ちゃんと前見て生きろよ。自分のこと慕ってくれるやつ、見て見ぬ振りなんかせずに」

 大家先生が、絵から目を離して、ようやく私を見た。きっと、先生は逃げることはしない。お姉さんへの裏切りになってしまうから。そしてもう、二度と先生とこうして会うことはないだろう。言葉を交わすのも、これで最後になる。私は、「今までありがとうございました」と頭を下げて、夕焼けに染まる美術室を後にしたのだった。