聞こえてきた言葉が信じられなくて、振り返る。予想よりずっと近くに沖田くんがいて、心臓の動きがぎゅっと激しくなり、急速に体温が下がった。身体から温度という温度がすべて抜け落ちて、足先から冷えていく。
「……え?」
「園村は、真木しか見えてないことは分かってる。でも、俺、園村の優しいところとか、頑張り屋なところとか――すごいいいなって思ってて……俺のこと、見てほしい」
一歩、一歩と踏みしめるように、沖田くんが近づいてくる。彼は、クラスメイトだ。怖い人じゃない。それなのに、今この瞬間は別人の……怪物のように見えた。上履きが床を擦る音も、低い声も、引き締まった腕も、何もかもが怖い。
でも、彼は沖田くんだ。怖い人じゃない。ちゃんと返事をしなきゃ。逃げたら、駄目だ。
「ご、ごめん……わ、私は、だ、誰かと付き合うとか、考えてないから」
震える声を振り絞ると、沖田くんは泣きそうに顔を歪めた。彼は何も悪いことなんてしていないはずなのに、「悪い」と謝る。
「えっと、けじめつけたかったって言うか……困らせるつもりじゃなかったんだ。好きだって伝えなきゃ、後悔するかなって……こんなの、言い訳か」
「こちらこそ……本当に……ごめん」
「いや……」
沖田くんは、そのまま黙ってしまった。このまま沖田くんを教室に置き去りにしてしまっていいのだろうか。でも、私は沖田くんの気持ちに応えることはできない。
そして今、気持ちを受け取らないと伝えた側だ。かける言葉がない。その場から動くことも出来ず、手をかけた扉からも手を離せないでいると、彼は「真木のこと」と、重々しく口を開いた。
「好き……なんだよな。園村は」
「……」
「諦めたいから、教えてほしい。好きだよな、園村……真木のこと」
「好きだよ」
私は、真木くんのことが好きだ。でも、私は彼と釣り合わない。今の彼は生きることに不器用すぎて、奇跡的に彼と釣り合うべき女の子が、彼の周りにいないだけだ。そして、このまま彼が不器用なままであれば、ずっと一緒にいられるんじゃないかと思う瞬間が確かにある。
「告白しねえの? 真木、絶対オッケーするだろ」
「私が真木くんと付き合うのは、心の隙に付け入るようなものなんだよ。それに、私、汚いから」
汚い人間で、それを真木くんに知られたくない。付き合ったら最後、私はもしかしたら彼が不器用なままであることを望んで、そうするように仕向けてしまうかもしれない。
真木くんが誘拐されたのは、私があの日、彼を置き去りにして帰ってしまったからなのに。
「真木くんね、本当はハキハキ喋れるし、頭もすごくいいんだよ。でも、私が彼に酷いことして、真木くんは、今みたいに、失敗したり、すぐ寝るようになったんだ。だから、真木くんと付き合うのは、絶対私以外じゃないと」
「それって、おかしくね?」
沖田くんが、躊躇いがちに首を傾げた。「なんで?」と即座に問いかけると、「だって、選ぶのは真木じゃん」と、すぐに言葉を返された。
「お前らの昔のこと、俺よく分かんないけどさ、園村に酷いことされて、それでも一緒にいるって決めてるの真木だろ?」
「でも、それは真木くんのお世話をするのは、私しかいないから……」
「そうか? でも文化祭で、植木鉢貸してくれたりとか、衣装縫ってくれたりとか、結構面倒見いいやつ多くねえ? 俺もそうだし……和田とか吉沢とか、他の奴等も真木困ってたら全然手伝うし、でも真木って園村のとこ行くじゃん。真木は、自分で選んで園村のとこ行ってるんじゃねえの?」
「でも、それは……ずっと小さい頃から一緒だったから……」
「いくら小さい頃から一緒でも、嫌な奴とは一緒にいれないだろ。俺も小中とか一緒で、一切話さない奴とか普通にいるし」
沖田くんは、「だから」と、あやすみたいな声色で目を合わせてきた。
「園村が、なんか告白しづらいの、勇気でないとか、そういうのならいいんだけどさ、自分のこと汚いとか思ってるんだったら、告白していいと思う。つうか、自分が誰といて幸せか選ぶの真木だし、園村が勝手に真木の幸せ決めつけるのは良くないんじゃね」
「私が、真木くんの幸せを決めつける……?」
「おー。だってさ、園村と一緒にいて幸せかって決めるのは、真木なわけだろ? 真木は園村の所有物でも、園村自身でもないわけじゃん」
私が、真木くんの幸せを決めつけていたのだろうか。だって、今告白したら、私は真木くんをまるで洗脳しているみたいで――でも、そうだ。私はいつから、真木くんに告白したら絶対受け入れてもらえると思っていたのだろう。真木くんに好きだと言われてから? いや、その前にだって、私は真木くんと一緒にいられないと思っていた。
真木くんの気持ちを、勝手に決めつけていた。
「つうか、吉沢とか真木に突っ込んでたしな、夏前」
吉沢さんが、夏前に真木くんに? 私は思わず「いつ?」と聞き返した。
「園村がトイレ行ってる時。園村、すげえ真木の世話すんじゃん。で、吉沢が真木に言ったんだよ。赤ちゃんじゃないんだから自分の世話は自分でしろって、園村が可哀想だからって。そうしたら――」
「そうしたら?」
「めーちゃん……トイレ、終わったよ……」
真木くんが、手についた水滴をぶんぶん振り払いながらやってきた。私は慌ててハンカチを取り出して、彼の手を拭く。「廊下水浸しになっちゃうよ!」と怒れば、彼は「ごめんなさい……」としょんぼりした。
「ってことだから、園村が良ければ、ちゃんと気持ち伝えて欲しい。絶対、ハッピーエンドだと思うから。勿体ないし――俺も、吹っ切れるから、助かる」
そうして沖田くんは、「じゃあな!」と、風のように教室を出て、駆けていった。遠くの方で沖田くんを呼ぶ声と、彼の笑い声が聞こえてくる。反響するその音が遠ざかっていくのを見届けてから、私は真木くんに向き直った。
「どしたの……めーちゃん、すっきりした顔してる……めーちゃんもおトイレ行った?」
「ううん、ただ……、沖田くんに、色々気づかせてもらったっていうか……」
「むぅ……嫉妬の意……」
真木くんは緩やかな動作でリュックを背負い直した。ずるずると肩紐のベルトを緩めて、調整している。私は意を決して、彼の手を取った。
「真木くん」
「なあに」
「……明日の文化祭、お話したいことがあるんだ。聞いてもらってもいい?」
話をするのは、明日だ。やらなきゃいけないことがあるから。それを終わらせて、私は真木くんと話がしたい。彼の返答を、まるで判決を待つような気持ちで待っていると、「いーよー……」と、彼は肩の力を抜いて歩き出した。
「ありがとう、真木くん」
「どういたしましまし……」
「もう、変なふうに言葉覚えちゃ駄目だよ」
「ひゅーん」
「真木くん!」
私は、真木くんと一緒に教室の電気を消して、歩き出す。廊下はまだまだ賑わっていて、明日の文化祭に向け、皆楽しそうにしていた。
◇◇◇
文化祭当日、雨が降ったらどうしよう。そう思う私の心配はよそに、天気は今までにない快晴、そして10月の下旬とは思えないほど温暖な気温に恵まれた。そのためか、お客さんはひっきりなしにやってきて、アリスだけではなくチェシャ猫、ハンプティダンプティにハートの女王、帽子屋の衣装に身を包んだ生徒たちが、ドリンクを作ったり接客に追われていた。
かくいう私も、アリスの衣装を着てドリンク作りをしている。真木くんはチェシャ猫の衣装を着て、「五番テーブルメロンソーダとケーキ……」と、注文を読み上げてくれている。
あれだけ予算削らなきゃ……と困っていた内装は、椅子にカバーをかけたソファ型となっていて、お店を囲うようにトランプ兵の木製スタンドが並んでいる。園芸部に借りた植木鉢や花のポットも可愛い雰囲気を作っていて、このままの調子でいけば売上に問題はない。
本当に、出来上がって良かった。一時はどうなることかと思ったけれど、お客さんも並んでくれて、アリス喫茶は盛況だ。並んでいるお客さんたちも、劇の合間に来ているのか衣装を着た生徒も見られるし、中にはおばけ姿の生徒もいる。安心して周囲を見渡していると、肩を叩かれた。視線を向ければ和田さんと吉沢さんで、和田さんはハンプティダンプティの格好を、吉沢さんは帽子屋の衣装を着て立っていた。
「園村さん、ずっといない? いつ休んだ?」
「え? えっと……トイレには行ってるよ」
「駄目じゃん! ご飯食べてきなよ! 店のもの食べるわけいかないしさ、なんか当番のたびにいるなって思ってたんだけど」
吉沢さんの問いかけに答えると、和田さんが絶句した。そしてものすごい勢いでぶんぶん首を横に振っている。「でも忙しいし……」と、周りを見ると、吉沢さんが「園村さんが食べてないってことはさ、真木も食べてないってことなんじゃないの?」と、彼を見た。
あ、そういえば。確かに一度休憩時間になったとき、真木くんに「御飯食べない?」と聞かれて、「待ってて!」と答えそのままにしてしまった気がする。慌てて真木くんをよく見ると「餓死する……」と恨めしげな目を向けられた。
「ほら、うちら交代するからご飯食べてきな!」
「でも」
「店で倒れられるほうが邪魔だって、ほら、どいたどいた」
和田さんに続いて、吉沢さんが私からマドラーを取ってしまった。そのまま押し出されるようにして、私は二人にお礼を行ってお店を後にする。まず、お昼を取らないと……。たしか文化祭では、フランクフルトにクレープ、焼きそばにたこ焼き、お好み焼きと、比較的手軽に食べられるものが売られていたはずだ。確かサッカー部がおにぎりを出してる、なんて聞いたこともある。
「真木くん、何食べたい?」
「食べられたら何でもいい……でも、混んでてごわごわしてるし、めーちゃん疲れてるから、俺買ってくる……」
「え……だ、大丈夫?」
「うん。一人で出来る……たこ焼き買ってくるね……めーちゃんは……そうだ、美術室で、展示でも見てて……」
真木くんは、校舎を指差した。たしか美術室は、だいちゃん先生の展示がある。
「皆ごはんたべてて……展示物とかお化け屋敷……今の時間……いないだろうし……。いってくる……」
ふらふらと、真木くんは人混みに紛れて行ってしまった。不安に思うけれど、学校の敷地内から出なければ大丈夫……と思いたい。それに、今から追いかけても追いつける気がしないほどの人混みだ。それに、私はだいちゃん先生と話したいこともある。私は真木くんの無事をやや祈る気持ちで、美術室へと向かったのだった。
天津ヶ丘高校の美術部員は、毎年人数が少ないらしい。今年も部員数は一年生と二年生、三年生がそれぞれ一人ずつの計三人しかいない。だから四月のうちから絵を描き溜めて、文化祭が盛り上がるようにするそうだ。だから美術室は人こそいないものの、たくさんの絵が美術室の壁一面に展示されていた。大きなクジラや、果物の絵。幻想的な風景画から、肖像画。油や水彩、アクリル絵の具と色んな画材を使って、額縁も立体的なものからシンプルなアルミフレームが並ぶ中、やっぱり一番目立っていたのは、だいちゃん先生の絵だった。
パネルに描かれた先生のお姉さんは、絵の中で優しく微笑んでいる。柔らかな極彩色の花畑の中で、光を燦々と受けながら、こちらに向かって微笑んでいた。
「お、園村、見に来てくれたのか。よく描けてるだろう?」
ガチャリ、とドアノブの音がしたかと思えば、先生が美術準備室から出てきた。その笑顔は学校でよく見る溌溂として、太陽みたいな笑顔だけど、どこかうら寂しい。
「先生……」
「今日の明け方まで描いてたんだよ。コンクールは四日後だけど、どうしても文化祭に出してやりたくてな」
ははは! と笑いを交えて先生は私の隣に並んだ。優しい声が、今朝、確信してしまった結論と剥離して、きゅっと胸が締め付けられた。でも、私はここできちんと先生に問いかけなければいけない。真実を、知ってしまった以上は。
「だいちゃん先生のお姉さんって……もしかして、四つ切高校出身だったり……しますか?」
問いかけると、先生は隠す素振りもなく「そうだぞ」と肯定した。「俺がOBで、姉貴がOGになるな」と、教卓に立ち、黒板消しで黒板を綺麗にしていく。白っぽくなっていた緑面は、先生が拭く度にきれいになっていった。
「俺のいた頃すげえ荒れてたけど、こんな綺麗になるなんてなぁ……びっくりするわ。バルーンリリースなんて小洒落た行事も無かったし、文化祭もクソだったしな。ちょうど沖田の兄ちゃんの代だったか、始まったの」
「沖田くんの、お兄さんの代……?」