「天津ヶ丘は新しく変わったんだから、その名前に恥じないようにちゃんとしなさいよ。もう昔みたいになるんじゃないよ」
「あの、昔の天津ヶ丘高校って、どういう状態だったんですか?」
「あんたたち何も知らないのかい」
私の質問に、お婆さんは目を丸くした。声も大きかったことで、辺りを歩いていた親子連れや、自転車に乗って走っている大学生くらいの女の人がこちらを振り返る。おばあさんは気に留める素振りもなく、私たちをみやった。
「いいかい、天津ヶ丘はねぇ、昔はとんでもなく荒れてたんだよ。ここらに住んでる連中みんな通ってたけどねえ、気性が荒くないのは別の高校受験しろって言ってねぇ。まぁ、私の娘も息子も結局受験落ちて天津ヶ丘に行くことになったが……本当にとんでもないところだったんだよ。窓が割れるのもしょっちゅうで、なにか悪いことが起きればみんな天津ヶ丘のせいになってねぇ……」
もしかして、テレビやドラマで言う、不良高校……みたいな感じだったのだろうか。窓が割れるなんて相当なことだと思うし、今では想像がつかない。天津ヶ丘高校は県内で二番目の偏差値で、試験の難易度は一部大学レベルのものも出てきたり、面接のみの試験だったら内申点がすべて五じゃなきゃ入れない。赤点を取ると怒られるのではなく、精神的に重篤な何かが起きたのかと面談するくらいだ。実際真木くんは面談のあと、スクールカウンセラーの人との一対一でのカウンセリングを受けたし、その後真木くんのお母さんと担任の先生とで三者面談を行った。以降も真木くんが赤点ギリギリを取ることで、もう話し合いは設けられていないみたいだけど……。
「あんたたちが、未来の天津ヶ丘が立て直されてきたってことの証明なんだから、ちゃんとやるんだよ。勉強も」
「はい」
お婆さんは、「良い返事だね」と頷く。梨塚さんが言っていた天津ヶ丘の過去についても、きっとこのことなのだろう。しばらく一緒に歩いていると、やがてお婆さんのアパートに到着した。
「悪かったね、ここでいいよ」
「でも……」
「もうじき、暗くなるだろう? この時間は泥棒が彷徨くんだよ。だからさっさと帰りな」
お婆さんが「何かあってからじゃ遅いからね」と、私と真木くんから袋を奪い取る。そうして、お婆さんは「今日はありがとうね」とそっけない調子でまたこちらに視線を戻した。
「いえ、こちらこそ沖田くんのおうち、見つかってよかったです。ありがとうございました」
「や、気にしないでいいよ。もともと、町内会で話題になってたんだし」
お婆さんはばつが悪そうだ。「じゃあね」と、視線を逸らし、私達から荷物を受け取ると、スッと部屋へと入っていった。けれど扉の隙間から一瞬だけ見えた部屋にあった遺影を見て、私は大きく目を見開く。やがて扉はぱたりと閉じられた。
「かえろ、めーちゃん……俺もお腹すいた……」
ふぁ、と真木くんは大きな欠伸をして、今度は私の手を引いて歩いていく。あの遺影には、確かに見覚えがある。私は振り返ってお婆さんの家を見た。そこには『大家』と木でできた表札がかけられている。
「帰るよめーちゃん。ほら、いいこだから」
表札から視線を外すことが出来ない私を、真木くんはぐいぐい引っ張った。そうだ、彼が警察に疑われていることを、伝えなきゃ。黙っているべきことでもないと思うし、このままだと沖田くんのお兄さんみたいに真木くんが警察に捕まってしまう。沖田くんのお兄さんはずっと否認し続けていたらしいけど、真木くんは面倒臭がって「うーん」みたいな返事をしてしまう可能性が高い。
「ねぇ真木くん。警察の人、真木くんを疑っているみたいだったよ」
「へー」
「へーじゃないよ! 犯人ですかって聞かれたら、ちゃんと違いますって答えなきゃ駄目だよ? 面倒くさくても、うんって言っちゃ絶対駄目だからね」
「むう……警察に捕まるの、やだなぁ……」
「あっちも多分、こじつけみたいなのもあるだろうし……全然分かんないって言ってたから、たぶん大丈夫だろうけど……でも、ちゃんと沖田くんのお兄さんみたいに、ずっと違いますって言い続けないと――」
ハッとした。刑事さん達は沖田くんのお兄さんのゴミ袋から、凶器の包丁が見つかったと言っていた。偶然かもしれないけど、あのお婆さんも、ゴミを捨てていた。あのお婆さんの娘さんも息子さんも、四つ切高校の出身だ。
そして多分、あのお婆さんと関わりがあるのは――。
「真木くん、大丈夫だよ」
私は真木くんの手をしっかりと握り返す。不安な気持ちはかき消えていて、彼を守らなければという強い意志が、心の隙間に満たされていく。
「真木くんは、私が守ってあげるから」
「危ないよ」
そう言って、一歩踏み出そうとすると、真木くんにぐいっと後ろへ引っ張られた。振り返ると目の前には遮断器があって、カンカンと甲高い音で電車が近づいてくる警告をしている。
「めーちゃんぼーっとしすぎ。轢かれて潰されちゃうよ」
「ご、ごめん真木くん、ありがとう」
「いーえ」
真木くんは疲れたのか、私の肩に額をのせた。子供みたいに暖かくて、彼の猫っ毛はふわふわしているのに、気がつけば掴まれている腕は少しだけがっしりとしてきた気がする。背も、高校一年生の頃は真木くんのほうが気持ち高いかな……? くらいだったのに、今は五センチくらいの差があるような。
どうして今まで、気づかなかったんだろう。こんなに一緒にいるのに。
私はどこか不思議な気持ちで、夕焼け空の下、遮断器が上がるのを待っていたのだった。
童話喫茶――もとい不思議の国のアリス喫茶は、雨天だと厳しい。天気予報を見る度に晴れることを祈っていたけれど、天津ヶ丘高校の文化祭前日、明日の降水確率は0%、そして今日も見事な晴天に恵まれた。
「机と椅子はこの図の通り設置して! あ、あとカウンターの設置は――!」
私は中庭で、指示表を手に中庭の中央を指差した。文化祭前日である今日は、授業は無く、一時間目から六時間目まで、ホームルーム扱い。文化祭の準備に充てられている。
だいちゃん先生も大工仕事を手伝ってくれて、中庭から見える校舎や校庭では、ダンボールやペンキ、看板や金槌などを持った生徒が慌ただしく駆けていた。外にはいくつもテントが設置されているし、壁には部活動や同好会のポスター、ほかには隣のクラスがやる劇の宣伝ポスターが貼られていて、いつも通っている学校のはずなのに、なんだかいつもとは違う場所に来た気持ちになる。
けれど、文化祭が始まるなぁなんて呑気に思うことは出来ない。椅子や机の設置が終わったら飾り付けだし、ドリンクの在庫を確認もあるし、やることは尽きない。
「園村さん、次何やればいい?」
「演劇部から届いた衣装の確認してもらっても良い?」
金槌を持って腕まくりをした和田さんと吉沢さんに尋ねられ、私は机に置いていたダンボールを指した。一昨日、演劇部の人たちに縫ってもらった衣装が無事届いた。一応さっと確認したら、まるでお店とか、本物の舞台で役者さんが着るような衣装が出来上がっていて、その時周りにいたクラスメイト達も感動していた。文化祭が終わったら改めてお礼を言わなきゃ……と思っている間にも、沖田くんが「園村ー!」と、声を上げた。
「なにー?」
「カウンターの机って5つだっけ?」
「6つだよ、あ、私取りに行くから、指示お願いしていい? 私ちょっと校舎で確認しなきゃいけないことがあるから!」
「ありがと、悪い!」
指示表を受け取った沖田くんは、「行くぞー!」と男子を引き連れながら駆けていき、私は逆走するみたいに校舎へ向かった。調理の最終確認をする為エプロン姿だったり、演劇の衣装を着ているらしい生徒とすれ違いながら廊下を抜けて辿り着いたのは、図書室だ。
図書室の机と椅子は、自由に借りられることになっている。でも、他のクラスが粗方借りてしまっていて、まるで空洞みたいになっていた。本棚だけが無造作に並んでいる書庫をいくつも通り過ぎて、私は卒業生のアルバムが並ぶ本棚の前に立つ。視線の隅に映るカーテンは、太陽光から本を守りながら、風を受けて靡いていた。
「えっと……私たちの代が63期だから……」
私は目的の卒業アルバムを探して、引き抜いた。大判サイズのそれを手にとった瞬間、ぶわりと埃が舞う。少し咳き込んで顔を上げると、引き抜いた本の隙間、棚の向こうに真木くんの姿があった。
「真木くん?」
「うあ……おさぼりばれちゃった……」
真木くんは目を丸くして、目に見えて「しまった!」という顔をした。アルバムを片手に彼の元へ向かえば、彼は「怒らないで……」と上目使いで見てくる。
「いつからここにいたの? 文化祭準備さぼっちゃ駄目だよ、それに真木くんこの間もふらふらしてロッカー閉じ込められちゃったりしてたんだから、休憩はいいけどちゃんと人の目につく場所にいて?」
「はあい……でも、めーちゃんはなんで図書室にきたの? それ、アルバムだよねぇ? めーちゃんもおさぼり?」
「おさぼりじゃないよ」
ただ……文化祭に関係は無いけど……。真木くんは首を傾げながら、私からアルバムを取った。「昔のだぁ……」と机に乗せて、ぺらぺらめくっている。
「めーちゃんさぁ……」
「うん?」
「文化祭、たのしみ?」
「うん。楽しみだよ。ほっとしたってのが大きいかもしれないけど……色々予算とか、あわあわすることも多かったし」
「ふぅん」
彼は唇を尖らせ、気怠そうにアルバムを眺めている。ぷくっと膨らんだ頬をつつくと、「破裂しちゃう」と物騒なツッコミが返ってきた。
「破裂しちゃうの?」
「うん。俺のめーちゃん大好きって気持ちも、そのうち破裂しちゃうから……受け止めてほしい……」
「私も真木くんのこと好きだよ」
「そーいうんじゃないのにぃ……」
非難混じりの声に、私は曖昧に笑って誤魔化す。私は、きちんと真木くんを守りたい。彼が自立するまで、昔のトラウマが癒えるまで。もう二度と危険な目に遭わせたくない。だから、確かめなくちゃいけない。
私はふわふわの猫っ毛がはねる頭を撫でながら、開かれたアルバムのあるページを見つめていた。
◇◇◇
文化祭の内装の準備は、最終下校時刻の一時間前――六時丁度に終わった。とはいえ、校舎にはまだまだ大勢の生徒がいて、下校時刻のタイムリミットに焦りながらも作業を進めている。もう外はだいぶ暗いけれど、廊下の照明は煌々としていて、壁もカラフルに装飾されているから、夜という感じがしない。動き回って汗をかいているからか、窓から吹き抜ける冷風が涼しくて心地いいくらいだ。
「えっと、当日の動きも大丈夫だし……当番は……」
机も椅子も無くなって、がらんどうになった教室のなかで、私はトイレに向かった真木くんを待っていた。ついでに明日の確認をしつつ、教室の戸締まりをしようとすると、カタン、と扉に何かがぶつかった音がした。振り返れば沖田くんがいて、「おう」と気不味そうに会釈をされた。
「電気ついてたから、誰かいるかと思ってたんだけど……園村がいたんだな」
「うん。真木くんがお手洗いに行きたいって言ってたから、待ってて……」
「そっか」
沖田くんは、暗い顔をしながら教室の真ん中まで歩いてきた。どこか表情も固いし、雰囲気もいつもと異なって見える。トラブルでもあったのか問いかけようとする前に、彼は口を開いた。
「園村は……文化祭委員、やりたくなかったかもしんないけど……俺、園村と文化祭委員やれて良かった。楽しかった」
「あ……えっと、こちらこそ……私も、文化祭委員、やれてよかったよ。和田さんとか、吉沢さんとか話したことない人とも、話できたし……」
なんとなく、気不味い。私は真木くんのリュックをとって、教室を後にしようと、一歩踏み出す。「さよなら」と扉に手をかけた――その時だった。
「俺、園村が好きだ」