まったく悪びれずに、柊夜さんは口端を引き上げて悪鬼のような笑みを作る。
「しつこいのは俺の性分だ。なにしろ、夜叉だからな」
「そうですね。家事も育児もこなしてくれる完璧な旦那様だと思ったのは私の錯覚だった気がします」
「不満があるなら寝室でゆっくり聞こう」
 そう言って柊夜さんは軽々と私の体を横抱きにする。
 これは『愛している』と言うまで離してもらえない流れであると察知した。
 ところが私がなにかを言おうとすると、すべて唇で塞がれるという始末。
 私の旦那様はまったく意地の悪い夜叉なのであった。



 育児休暇を終え、職場に復帰する日がやってきた。
 どきどきしながら、初めて保育園に悠を預ける。今日のところは荷物が多いので柊夜さんに車で送ってもらったけれど、明日からは自転車で登園する予定だ。
 柊夜さんが『おにやまゆう』と書かれたロッカーに荷物を置いている姿に、なぜかほっこりする。ロッカーが低いので、高身長の柊夜さんは身をかがめて、着替えが入った袋などを収めていた。ほんの小さなことに、パパだなぁと感じて嬉しくなる。
 私は最年少クラスである、ちゅうりっぷ組の担任の先生へ挨拶に行った。
 もちろん、抱っこしている悠を引き渡すためである。
 歩かせようとしたら、なにかを察知したらしい悠はスーツの襟をしっかりと握りしめて離さないのだ。あなたはセミか。
「おはようございます、鬼山悠です。先生、よろしくお願いします」
「はーい。よろしくお願いしますね。悠くん、おいで。みんなと楽しく遊ぼう」
 さすが先生は保育のプロなので、さっと素早く私の腕から悠を受け取った。
 見知らぬ誰かに抱っこされ、ママは向かいにいるという状況に、悠は唖然として目を見開く。『ぼくを抱っこするのはママなのにこれはどういうこと⁉』と、驚いているんだよね。うん、わかるよ……。
 顔をゆがめた悠は、「ふぇ……」と泣いて、私へ懇願の眼差しを送る。
「じゃあね、悠。仕事が終わったら迎えに来るからね」
 バイバイと手を振ったのが、いけなかった。
 ママと別れると完全に理解した悠は、「ふぎゃあああぁ……」とアクセル全開で泣きわめく。先生は慣れているため、困るどころか笑顔を絶やさない。
「お母さん、行ってくださって大丈夫ですよ~」
「は、はいっ! それでは……ヤシャネコ、よろしくね」
 私は足元にいるヤシャネコに小声で頼んだ。
 先生にはあやかしのヤシャネコは見えていないので、もちろん目を向けない。保育室にいるほかの子たちも、ヤシャネコに着目しなかった。
「まかせてにゃん! 悠、寂しくないにゃんよ。おいらがついてるにゃ~ん」
 ヤシャネコに話しかけられた悠は、ふとそちらを見た。頰を濡らしながら、ヤシャネコを撫でようと手を伸ばす。
「なーな」
「どうしたの、悠くん? にゃんにゃんがいるのかな?」
 忍び足で保育室を出ようとした私は、ぎくりとした。
『なーな』とは猫を表していることを、先生に気づかれてしまった。
 おそるおそる振り向くと、咄嗟におもちゃの箱から猫のぬいぐるみを取りだしたヤシャネコが、ぽいとフロアマットに放っている。
「あら。にゃんにゃんがころんじゃったね。戻してあげようね」
 そう言った先生は猫のぬいぐるみを拾い上げ、悠の手に持たせている。
 どうにか先生をごまかせたようだ。
 私はヤシャネコに向けて親指を立てて見せた。それを目にしたヤシャネコも飛び跳ねて手を上げている。グッジョブだよ、ヤシャネコ!
 やれやれ……保育園に預けるのも、ひと苦労である。
 玄関でパンプスを履いた私は溜息をついた。
「ヤシャネコはみんなには見えないんだよ、って悠に教えておかないといけないなぁ。もっとも今は説明してもわからないだろうけど……」
 この悩みを先生やほかの保護者に相談できないのがつらいところである。
 すでに玄関で待ち構えていた柊夜さんは身をかがめると、すっと私の足の甲に指を滑らせた。上司からのセクハラかな……って、私たち結婚してましたね。
「今は仕方ないだろう。人は見えないものは信じないものだ。悠が妙な行動を取っても、ヤシャネコがうまくやってくれるからどうにでもなる」
 相談できる唯一の人物がいた。
 ただし彼は、すべての原因を作りだした鬼神である。頼りになるのか、ちょっと疑問だ。
「柊夜さんが子どもの頃は、どうだったんですか?」
「俺は赤子のときに、おばあさまに預けられたからな。目は赤いし、あやかしとしゃべっているものだから、小学生の頃には周りから奇妙な子どもだと思われていた。だから周囲との交流を断っていた。そうすると、ゆがんだ大人ができあがる。この通りだ」
「よくない例じゃないですか……」
 多聞天である柊夜さんのおばあさまは郊外の屋敷に住んでいる。柊夜さんは幼い頃に両親と離れて、おばあさまに育てられたのだ。
 悠には両親がいないという寂しい思いをさせないため、私が育てるとおばあさまに宣言したのだけれど、これから大きくなって多感になる子のことを思うと、今からどのように対応すればいいのか悩みどころだ。