神世(かみのよ)の主である帝釈天(たいしゃくてん)は、美しい顔をひどく不機嫌そうにゆがめた。
 古代から鬼神たちの頂点として君臨してきた支配者の機嫌を損ねる原因は、目の前に這いつくばっている者たちにある。
「夜叉を処罰してくれ、帝釈天! あいつは神世を乱す諸悪の根源だ」
 銀髪を振り乱した餓鬼の頭領は、凶暴な牙を剥きだしにする。
 永劫の牢獄から出された薜茘多(へいれいた)の後ろには、ともに牢獄に幽閉されていた三十六番目の餓鬼、殺身(さつしん)が土下座していた。
 八部鬼衆のひとりである薜茘多と違い、位の低い殺身は帝釈天の顔を拝むことも、まして意見を申し立てることも叶わない。
 煌めく長い金髪を細い指先で摘まみ、さらさらとこぼした帝釈天は、侮蔑を込めて彼らを見下ろす。
「そなたたちの力が及ばぬから、我の手を借りようというのか?」
「……そんなつもりでは……」
「我は、そなたたちに機会を与えた。敗れたのは己の責任ではないか。餓鬼の頭領ともあろう者が、まったく不甲斐ないことよ」
 溜息をついて羅紗張りの長椅子にもたれる。
 ぎりっと薜茘多は歯噛みしたが、言い返す言葉は見当たらないようだった。この豪快な男は頼もしい鬼神ではあるのだが、混血の夜叉には一歩及ばないのだとわかった。
 守るものがあるか、そうでないかが明暗を分けたのかもしれない。
 帝釈天は夜叉の子を宿した人間の女の顔を脳裏に思い浮かべた。
 なんの力も持たない、ただの女――。
 それにもかかわらず神世の主に盾突いた。あの女のように。
 彼女たちを無力な虫けらだと思い込んでいたことが、間違いだったと帝釈天は気づかされる。
 彼女らは驚異的な能力を持っているではないか。
 それは、子を宿せるという力である。
 鬼神と人間が交わるのは忌むべきことであるが、人間の女たちは無知ゆえに鬼神を誘惑し、簡単に子を孕む。このままでは、神世は人間に侵食されてしまう。もしかしたら、混血ゆえにとてつもない能力を持つ子孫が誕生するかもしれない。人間の世界で産まれた彼らが、夜叉側の鬼衆協会につくのは疑いようがないだろう。
 そうなれば帝釈天の支配する神世が揺らぐ。
 人間の見た目に照らせば、わずか十歳ほどの華奢な体躯をした帝釈天は翡翠色の双眸を細め、つぶやきをこぼした。
「なにかよい方法はないものかのう」
 根絶やしにするのは愚策である。
 鬼衆協会を黙認しているのは、現在の危うい均衡がいずれ平定することを考慮してのものだ。人間に与したのは間違いであったと、夜叉側についた鬼神たちが改心することを、帝釈天は期待している。
 それは同族への恩情ではない。
 そうあって然るべきだからだ。永劫の時を渡ってきた神世の主が、配下に裏切られたなどという痕跡を残してはならない。
 思案して細い足を組むと、純白の着物の裾がさらりと捲れる。冷徹な支配者は優美さのなかで凶悪な陰謀を巡らせた。
 やはり人間の女のみを消すべきだろうか。
 あのときのように。
 遠くを見やる帝釈天に向かって、薜茘多はまだ食い下がる。
「頼む、もう一度機会をくれ! 今度こそ、俺が夜叉を倒す!」
「何度やろうと同じことよ。我はそなたの不名誉をこれ以上塗らせまいとしているのだ。下がれ」
 冷淡に辞去を命じると、悔しげに顔をゆがめた薜茘多は膝を引いた。だが腰は上げない。
 常に飢餓と枯渇に切迫している餓鬼の頭領はしぶとい。だが、今回の件に関してはほかの者が適任だろう。
 神世には須弥山(しゅみせん)にそびえる善見(ぜんけん)城を中心として、四天王と八部鬼衆の居城がある。そして、その配下のあやかしたちが数多と住んでいる。
 手駒はいくらでもいるのだ。
 ふと、謁見の間に何者かが入ってくる気配を感じた。
 無断で神世の主に面会しようなどと、不躾極まりない輩がやってきたようだ。
「面白そうなことになってるじゃないか。僕も参加させてくれよ」
 圧倒的な神気を放つその男は、楽しげに口端を吊り上げる。
 振り向いた薜茘多は男の姿を目にとめると、不快を露わにした。
「貴様、でしゃばるな! 帝釈天の御前だぞ。まずは跪いて礼を尽くしたらどうだ」
「負けた鬼は黙ってろ。幽閉されて腹が減っただろう? 城に籠もって飯でも食べていなよ。あとのことは、僕に任せてもらおうか」
 怒りを滾らせた薜茘多は、拳を握りしめる。
 だがさすがに分別はあり、この状況下で男に殴りかかることはしない。
 この男なら、適任かもしれぬ……。
 双眸を細めた帝釈天は、不遜な男に命じた。
「よかろう。そなたに任せようではないか」
 善見城の御殿に策謀の暗雲が垂れ込める。
 命を受けた鬼神は、人好きのする相貌に悪辣な笑みを浮かべた。