沖田さんと想いを通じ合わせてから一ヶ月。私は幸せな生活を送っていた。休みの日は二人で買い物に行き、一緒にご飯を作った。恭平の部屋にあったものも少しずつではあるけれど処分して、代わりに沖田さんの物を買いそろえた。
 私が買うたびに沖田さんは申し訳なさそうな顔をしたけれど、むしろ一緒に買い物に行って買うというのが新鮮で楽しかった。
 このまま幸せな日々が続けばいい。そう思っていた。……そう思ったときこそ何かあるということを嫌というほど知っていたはずなのに。
 最初におかしいなと思ったのは、長引く咳だった。

「ゴホッゴホッ」
「風邪、よくならないですね」
「咳だけなんですけどね。どうも続いてしまって」

 私は時計を見る。22時を過ぎた頃だ。近くのドラッグストアは軒並み閉まっている時間だった。
 咳は出ているものの熱はない。ひとまず様子見でも大丈夫、だろうか。それでもやっぱり心配だ。
 
「うーん、明日の仕事帰りに薬局寄ってきましょうか。それか、病院に」
「病院は私が行くとお金がかかるでしょう」
「うっ」

 たしかに、保険証のない沖田さんが病院に行けば十割負担だ。今月は割と色々買ってしまったから痛いと言えば痛い。でも、だからと言って咳が続いているのもしんどうだろうし。

「私は大丈夫ですから心配しないでください」
「でも……」
「ほら、明日も仕事なんですからそろそろ眠りましょう。移すといけませんから私は今日は向こうの部屋で寝ますね」

 そう言うと沖田さんは元恭平の部屋へと行ってしまう。「おやすみなさい」と言いながらもやはり顔色はよくなかった。
 その日の夜、隣の部屋からはずっと咳き込む音が聞こえていた。やっぱり明日薬を買いに行こう。それでもよくならなければ病院だ。お金がかかったっていいじゃない。それで楽になるのなら。


 翌日、私が仕事に行く時間になっても沖田さんは起きてこなかった。そっと部屋を覗いてみるとよく眠っていた。朝方まで咳をする音が聞こえていたから、ようやく眠れたところなのかもしれない。
 おでこにそっと手を当てるとどうやら熱もしているようだった。咳だけじゃなく熱まで出てきたのならやっぱり病院に行った方がいい。今日、仕事が終わり次第病院に連れて行こう。
 そう思って家を出た。なのにそんな日に限って仕事は定時を過ぎても終わらず、結局会社を出ることができたのは病院がとっくに閉まった21時頃だった。
 遅くなる日は先にご飯を食べておいて欲しいと伝えてあるし、そのために冷凍庫には冷凍したカレーやシチューなど、電子レンジで温めるだけで食べられるものを置いてある。だからご飯の心配はないのだけれど、それよりも風邪だ。
 病院は閉まっていたけれど、ドラッグストアはなんとか開いていた。閉店ギリギリのお店に滑り込むと私は風邪薬コーナーへと向かう。
 熱と咳、となると総合風邪薬だろうか。あまり薬局で薬を買うことがない私は想わず棚の前で手を止める。どれを買うべきか。
 そんなことを考えていると、誰かに肩を叩かれた。

「ひゃっ!」
「なんだよ、変な声だして。俺だよ、俺」

 聞き覚えのある声に振り返ると、そこには黒縁眼鏡にマスク姿の男がいた。

「だ、だれ……」

 こんな人知らない、そう思って逃げようとすると、その人はマスクを外しながら「俺だよ俺」と笑った。

「はる、と……?」
「せーかい」
 
 そこには幼なじみの晴斗の姿があった。高校までは同じ学校に通っていたのだけれど大学で別れてしまった。それっきり会うこともなかったから9年ぶり、だろうか。

「何、わからなかった?」
「マスクしてたらわからないよ」
「ああ、それもそうか」

 トレードマークの黒縁眼鏡は同じだけれど、私と変わらないぐらいしかなかったはずの身長は見上げなければならない程に大きくなっていた。ひょろっとしていた身体もいつの間にこんなにがっちりしたのか。

「そうか? 詩乃は全然変わらないな。すぐわかったよ」
「けなしてるの? 褒めてるの?」
「さあね」

 はぐらかすように笑うと晴斗は私の向かいの棚を見て眉をひそめた。

「何、風邪?」
「まあ、ね」
「なんでうちに来ないんだよ」

 晴斗は怒ったように言う。行けるものなら行ってるわ! という言葉は飲み込む。晴斗のお父さんは開業医で私も小さい頃からお世話になっていた。風邪を引き始めたら晴斗の家に行ってたから薬局で薬を買うことなんてなかった。

「熱は、ないな」

 私の額に手を当てると晴斗は呟く。まぶたの色まで見ようと手を伸ばすから私は慌ててその手を払いのけた。

「わ、私じゃないから」
「詩乃じゃないのか」

 ホッとしたような声が聞こえて少し意外に想った。子どもの頃は風邪を引く度に晴斗のお父さんに見てもらう私を「病弱だな」なんて笑っていたから。晴斗も大人になった、ということなのだろう。
 と、いうか。

「なんで晴斗がここにいるの? 県外の病院に就職したって聞いたけど」
「あー、親父がな。腰やって引退することになったんだ」
「ええ!? おじさんが!?」

 最近行くことはなくなっていたが、数年前に行ったときは昔から変わらないあの優しい笑顔で出迎えてくれたのに。

「そっか。じゃあ、病院閉めるんだ。寂しくなるなぁ」
「阿呆。なんのために俺がここにいるんだよ」
「へ?」
「病院、俺が継ぐんだ。だから辞めて帰ってきたってこと」
「あ、なんだ。そういうことか」

 それなら確かに晴斗がここにいるのもわかる。そっかそっか。
 と、理解したところで私はこんなことをしている場合じゃないことを思い出した。

「あ、ねえ。ところで熱と咳がある人に一番いい薬ってどれ?」
「は? 唐突だな。ってか、やっぱり誰か風邪引いてるんじゃないか。病院連れてこいよ。悪化したら市販薬じゃ無理だぞ」
「でも、今日はもう病院閉まってるでしょ」
「まあな。……俺、診てやろうか?」
「え?」
「幼なじみのよしみでさ」

 そう言うと、晴斗は棚から咳止めと解熱剤を取り私の持っていたかごに入れた。

「あ、ちょっと」
「ほら、さっさとしろよ」
「もうっ」

 強引なところは変わっていない。とはいえ、お医者さんに診てもらえるのであれば絶対にその方がいい。
 私は晴斗が入れた薬とそれから食べやすいゼリーなんかを買うと、沖田さんが待つ部屋へと急いだ。


 玄関のドアを開けると、部屋の中はシンとしていた。眠っているんだろうか。

「で、どこだよ」
「……ねえ、その前に言っておきたいことがあるんだけど」
「なんだよ。あ、こっちの部屋だな」

 ゴホゴホと咳き込む音が聞こえたのか、晴斗ポケットに入れていたマスクを付け直し玄関からほど近い部屋のドアを開ける。そこには苦しそうに咳き込む沖田さんの姿があった。

「沖田さん、大丈夫ですか!?」
「詩乃……さん。おか、えり……なさ……ゲホッ」
「喋らなくて大丈夫です。それよりも」

 私より先に部屋に入った晴斗は沖田さんの姿に驚いていた。

「男かよ」
「え、何か言った?」
「別に。で、そいついつからこんな感じなの」
「少し前から風邪を引いたのか咳が続いてて、今日の朝ぐらいから熱も……」
「どいて」

 晴斗は私をどかすと、沖田さんの手首や首元、そしてまぶたの色を確認する。

「沖田さん……」
「こいつ、沖田って言うんだ? そこにある隊服といい、まるで新撰組の沖田総司だな」
「え」

 晴斗の言葉に、私は固まった。まさかバレるなんて思わなかった。そもそもタイムスリップなんて普通思いつきもしない。でも、逆にバレてしまった方が楽なのかも知れない。

「うん、そうなの」

 だから私は下手にごまかすことをやめて大人しく頷いた。
 けれど、そんな私に晴斗は「はあっ!?」と素っ頓狂な声を上げるとこちらを振り返った。

「今、なんて言った?」
「え、だからそうなのって」
「待て待て待て。そうなのって何がそうなんだ? 俺は沖田総司みたいだなって」
「え、うん。だから沖田さんなの」
「……嘘だろ」

 晴斗は天を仰ぎ、それから沖田さんとそれからカーテンレールにかけられたままになっている隊服を見比べた。
 今の反応はどういうことだろう。

「晴斗……?」
「こいつが沖田総司? 新撰組の? いや、お前騙されてるだろ。新撰組がいたのって江戸時代、幕末。今から150年以上前の話だぞ?」
「わかってるよ。でも、本当の本当に沖田総司なんだよ。と、いうかわかっててそう言ったんじゃないの?」
「んなわけねーだろ! ああ、でももしもこいつが沖田総司なのだとしたら」

 晴斗は慌てて立ち上がると、私を部屋から押しだしそして思いっきりドアを閉めた。

「何を……!」
「おい、詩乃! お前、BCGは打ってるよな!?」
「え、うん。判子注射だよね? 赤ちゃんのときに打ったけど」

 もうほとんど跡は残っていないけれど。
 私の答えに「そうだよな」と安心したように晴斗は息を吐いた。
 
「よし、とりあえずマスクしろ」
「ど、どういうこと?」
「お前、沖田総司のこと知らないのか?」
「知ってるよ。薄命の天才剣士……」
「じゃあ、その薄命の理由は!」
「けっか……く……」

 自分の言葉に、崩れ落ちそうになった。
 そうだ、沖田総司は結核で死ぬ。若き天才剣士を襲った病、とテレビで言っていた。つまり、沖田さんは。

「結核……?」
「検査してみないとわからないけど、あいつが本当に沖田総司だっていうのならその可能性が高い。なあ、あいつは本当に沖田総司なのか? 俺のことをからかって遊んでるなら」
「私だって今ほど嘘だったらいいのにって思ったことないよ!! でも、あの人は本当に沖田総司なの!」
「……そう、か」

 私は全身から血の気が引くのがわかった。

「死ぬ、の……?」
 
 震える声で、必死に晴斗に問いかける。
 そんなことないって言って欲しくて。助かるよって言って欲しくて。
 でも、晴斗の答えを聞くよりも早く、部屋のドアが開いた。

「し、の……さ……ゲホッ」
「沖田さん!」
「詩乃、これつけろ」

 晴斗はポケットから取り出した予備のマスクを私に渡す。それをつけると、私は沖田さんに駆け寄った。

「沖田さん! 起きて来ちゃ駄目です! 寝ててください!」
「詩乃……さん……私は、死ぬんですね?」
「っ……」
「ああ、そうなん、ですね……。そんな顔、しない……で……ゲホゲホッ」
「沖田さん!」

 咳き込み体勢を崩す沖田さんの身体を私は必死に支える。朝よりも熱が高くなっている気がする。このままじゃあ……!

「わた、し……思い出したんです」
「え?」
「元の時代で……私は、一度、死んでいます……。労咳、で……」
「う、そ……」
「仲間たちとともに戦うこともできず、近藤さんや土方さんを守ることもなく……一人、布団の上で……死にました……ゲホッ」

 咳き込みながらも沖田さんはぽつりぽつりと話し始めた。

「情け、ないですよね。武士である私が、最期は布団の上で病に倒れ、死ぬだなんて。悔しくて仕方がなかった。大切な人を守りたかった。そう思いながら死んだ――はずでした」
「まさか」
「ええ。死んだと思ったはずなのに、気づいたらどこかわからない場所で倒れていました。あとは詩乃さん、あなたもご存じのはずです」

 そんなことがあるのかと普通だったら疑う。でも、現に私は沖田さんを助け、そして今まで一緒に生活をしてきた。この人が嘘をつく人ではないということを、私は知っている。

「ああ、でも……よかった」
「え?」
「私は、今度こそ大切な人を守ることが、できた。あなたを助けることができた。きっとそのために、この時代に来たのかもしれません。もう、何も悔やむことは……ありま、せ……ゲホゲホッ」
「沖田さん! 嫌です! 死なないで!」
「詩乃、さ……」
「……あのさ」

 咳き込む沖田さんの背中を私は必死に撫でる。そんな私に、黙ったままの晴斗が声をかけた。
 そうだ、晴斗。晴斗なら!

「ねえ、晴斗! 晴斗はお医者さんでしょ!? お願い、沖田さんのことを助けて!」
「あ、うん。いや」
「お医者さんが神様じゃないことはわかってる! でも!」
「いや、だから」
「詩乃……さん。無茶を言っては……ゲホゲホッ」
「いや、だから俺の話を聞けよ!」

 晴斗の大きな声に、私と沖田さんは口をつぐんだ。
 呆れたように私たちを見下ろすと、晴斗はため息を吐いた。

「だから、そいつが沖田総司だとして本当に結核なら、治るよ」
「え?」
「咳は数日前からなんだろ?」
「うん」
「じゃあまだ症状が出始めたところだ。ちゃんと検査してみないとわからないけど、薬を飲むか場合によったら入院ってことになるかもしれねえけど、でも治る」
「嘘……」
「嘘じゃねえよ。そりゃまだ今の時代でも手遅れになったり発見が遅かったりして亡くなってしまう人もいるにはいる。でもな、結核は死の病じゃない。きちんと治るんだ」

 私たちは顔を見合わせる。でも、私は不安になった。

「沖田さんは、戸籍がないから保険証とか何もないの。だから入院ってなったときに事情を聞かれたりしたら……」
「お前、うちが何なのか忘れたんじゃねえの?」
「あっ……」
「いいの、ですか?」

 沖田さんは震える声で晴斗を見上げる。その目は不安とほんの少しの希望が滲んでいた。
 晴斗はしゃがむと沖田さんと視線を合わせる。

「当たり前でしょ。俺は医者なんです。苦しんでいる人を治すのが俺の仕事ですから」
「でも、あなたにとって私は恋敵なので――」
「うわあああ!」

 何か言いかけた沖田さんの晴斗が塞ぐ。

「何やってんの! 沖田さん苦しいじゃない!」
「うるさい! お前は黙ってろ!」
「何それ!」

 私の額を手のひらで押しやると、晴斗は沖田さんに何か文句を言っている。上手く聞き取ることができなくて私は蚊帳の外だ。

「~だから!」
「ですが……」
「いいんだよ、俺はあいつが泣いている方が嫌だから」
「あなた、いい人ですね」
「……あんたに言われても嬉しくねえよ」

 なんの話かわからないけれど、意外と二人の気が合いそうで嬉しい。

「まあ、とにかく。あんたは明日朝一で俺んちに来ること」
「私は?」
「お前は仕事だろ」
「でも」

 有休を取れないかとか私が風邪を引いたことにすればとか色々考えた。考えたけれど実際はどれも難しそうで。
 俯く私の頭を、晴斗は昔のように乱暴に撫でた。
 
「大丈夫だから、任せとけ」
「……うん」
「私なら大丈夫です。それに晴斗さんが治してくださるようですし」
「おう」
「沖田さん……」

 沖田さんは私の頬に手を寄せた。

「大丈夫です……。私はあなたを一人にしません」
「……うん」

 目を閉じてその手に、そして沖田さんに身体を委ねる。
 きっと、大丈夫。
 そう信じて。