私と沖田さんの同居生活が始まった。と、いっても初日である日曜日は沖田さんが見慣れない現代の家電やお風呂なんかの使い方を説明して終わった。平日の今日はといえば、当たり前だけれど私は仕事だ。

「とりあえず、昨日も言った通り触っちゃ駄目なものは触らないでください」
「わかりました」
「あと、これ」

 私はお弁当箱を差し出した。昨日のうちに一つ余分に買っておいたものだ。いや、そりゃキッチンの引き出しを開ければ元彼が使っていたものがあるにはある、のだけれどさすがにそれを使うのはどうなんだと思ってしまったから。

「これは……?」
「お弁当です。私のお昼を作るついでで申し訳ないんですけれど」
「私に、ですか?」
「はい」

 沖田さんはお弁当箱を持ったまま固まっている。余計なことをしてしまっただろうか。でも、一人で家にいたらお昼ご飯を食べたかどうか心配になるし、さすがに朝食べて夜まで何も食べないのも。かといって自分で準備できるかというとそうでもないと思って。
 と、頭の中でまるで言い訳のようにつらつらと言葉が流れる。

「い、いらなかったら食べなくても……」
「食べます! いります!」
「そっ、そうですか?」

 あまりの勢いに思わずおののいてしまう。けれどそんな私をよそに、沖田さんはお弁当箱をギュッと大事そう抱きしめると、蕩けてしまいそうな表情で頷いた。

「はい。……凄く、嬉しいです。ありがとう、ございます」
「い、いえ」

 そんなに喜んでもらえると思わなかった。ただ私のを作るついで、なだけだった。でも、こうやってお弁当箱を開けたり閉めたりしながら嬉しそうな表情を浮かべる沖田さんを見ると、作ってよかったなってそう思う。

「それじゃあ、行ってきます」
「はい、いってらっしゃい」

 玄関で沖田さんに見送られ家を出る。
 久しぶりに「いってらっしゃい」を言ってくれる人がいる、というのはそれだけで嬉しいものだった。
 そのせいか会社でも「朝倉さん、今日機嫌いいね?」なんて言われてしまう始末だ。
 ちなみに「新しい彼氏できたの?」と言われたので丁重に否定しておいた。
 そんなこんなで夕方頃、久しぶりに定時で家に帰る。ドアの前でつい髪の毛を直してしまうのは仕方がないことだと思う。
 コホンと咳払い一つすると、ドアノブに手をかけた。

「ただいま」

 少しの間のあと、リビングの方からパタパタと足音がした。
 
「おかえりなさい」
「っ……」
「詩乃さん?」
「あ、いえ。なんでもないです」
 
「ただいま」「おかえり」ただそれだけなのにどうにもくすぐったさを感じる。けれどそれを気取られないように至って普通の態度で私はリビングに向かう。すると朝干しておいた洗濯物を沖田さんが取り込んでくれていることに気づいた。

「わっ、ありがとうございます!」
「いえ、お世話になっているのでこれぐらいは」
「ご飯作っちゃうんでテレビでも見ていてください」
「はい。……それにしてもこの”てれび”というのは本当に不思議ですね。このような箱の中に人の姿が映って……。写真は知っていますがこのようなものは」
「あっ、そっか。江戸時代ってすでに写真はあったんだっけ。写真では静画、止まっている状態のものが写せたように、テレビでは動画、動いている状態のものを映すことができるんです」

 わかったようなわからないような顔で沖田さんは頷いている。それ以上詳しいことを聞かれても私も上手く答えられる自信がないので深掘りされずにホッとする。
 キッチンに立つと、冷蔵庫の中を見る。
 江戸時代の人って、何か食べられないものとかあるのだろうか。洋食はまだ入ってきてなかったんだっけ? と、いうことは和食の方がいいよね。お肉とかはどうなのだろう。
 しばらく悩んだあと、私はブリを取り出した。魚ならきっと食べたことがあるだろうと思ってのことだった。
 ブリに塩を振って臭み抜きをする。その間にワカメと豆腐の味噌汁を作ってと。あとはさっき買ってきた長芋を茹でて切ったオクラと和えてポン酢をかければできあがりだ。
 そうこうしている間に臭みが抜けたであろうブリをペーパータオルで拭く。あとはフライパンで醤油とみりん、それから酒と砂糖を混ぜたタレをかけて焼けばできあがりだ。

「お待たせです」
「ありがとうございます」

 沖田さんはテーブルに並べた晩ご飯をジッと見つめる。そんなに上手じゃないのでジロジロと見られると恥ずかしい。

「あ、あの。お口に合うかわからないですが」
「とても美味しそうです。いただきます」
「どうぞ」

 ブリをお箸で綺麗に取り、沖田さんは口に入れた。

「美味しいです」
「よかった」
「昨日も思いましたが、詩乃さんはお料理が上手ですね」
「あー……」

 沖田さんの言葉に思わず口の中が苦くなるのを感じる。上手かどうかはわからないけれど、慣れてはいる。だって。

「元彼が本当に何もしない人で、私が作るしかなかったんです。作ってもらって当たり前、自分は何もしないのにいつだってそんな態度で」
「それ、は」
「ああ、でも沖田さんの時代じゃあ女の人が炊事や洗濯をするのが当たり前ですからそんなに違和感はないですかね」
「そうですね。ですが、それでも作ってくれる人に感謝はします。それは当たり前のことですから」
「感、謝……」

 感謝なんてされたことあっただろうか。付き合い始めた当初、同棲し始めた当初はあったかもしれない。でも、いつの間にか私が作るのが、私がするのが当たり前になって、できてなければどうしてできてないんだと責められた。

「沖田さんは、優しいですね」
「優しいのは、詩乃さん。あなたです」
「え?」
「そしてあなたの恋人は詩乃さんの優しさにつけ込んだのです」
「……そうかも、しれません」

 私が手を出しすぎたから、世話を焼きすぎたから。
 私じゃなければ彼もここまで酷くなってなかったのかもしれない。
 そんなことを考えていると、沖田さんの手が私の頬に伸び――そのまま引っ張られた。

「おひは《おきた》、はん《さん》?」
「今、私のせいで彼がそうなってしまったと思ってませんか?」
「それは……」

 寂しそうに微笑みながら、沖田さんは私の頬から手を離す。引っ張られていたはずの頬は痛みではなぬくもりを感じた。

「あなたが悪いわけじゃない。つけ込んだその男が悪いのです。あなたは見ず知らずの私を放っておくことなく、家に連れ帰ってくれた。あのまま野垂れ死にしててもおかしくなかったのに、あなたが助けてくれたおかげで私は今こうやって食事を取ることができている。全てあなたのおかげです」
「沖田さん……」
「あなたの優しさはあなたの誇るべきところであって責められるところじゃない。それだけは覚えておいてください」

 沖田さんの言葉になぜか泣きそうになって、私は頷くことしかできなかった。そんな私の頭を優しく撫でると「食べましょうか」と沖田さんは言った。
 お味噌汁のお椀にそっと口をつける。いつもと同じ味のはずなのに、今日はなぜかほんの少しだけしょっぱく感じた。


 沖田さんとの生活は悪いものではなかった。あの日から一週間が経ったけれど、今では日中何もすることがないからと、家のことを率先してやってくれる沖田さんに助けられるところも多々あった。コンロはまだ使うのが怖いようで料理はできないけれど、食後の洗い物は一緒にしてくれる。洗った食器を渡すと沖田さんがそれを受け取り布巾で拭いた。
 こんなふうにするのがなんだか新鮮で思わず鼻歌を歌ってしまう。そんな私に気づいたのか沖田さんが笑った。

「ご機嫌ですね」
「え? あ、そうかもしれません」
「何かいいことでも?」
「私こんなふうに誰かと一緒に台所に立つのって初めてで。実家にいたときは母親に任せっきりでしたし、この間までは手伝ってくれることなんて一切なくていつも一人でやってたので」
「詩乃さん……」
「だから今はなんだか楽しいです。……って、元彼からの突撃を防ぐためにいてもらっているのに楽しいとか言っちゃダメですね」

「すみません」と謝る私に沖田さんは拭き終わったお皿を食器棚に戻すと首を振った。

「そんなことありません」
「沖田さん?」

 そんなことないと言いながらも沖田さんの表情は暗かった。眉間に皺を寄せ何かを思い出すようにする沖田さんに、私は戸惑った。
 こんな表情初めて見る……。

「あの……」
「ああ、すみません」

 恐る恐る尋ねた私に、沖田さんは少しだけ表情を和らげた。

「その、私もこうやっているのがなんだか楽しくて、それが仲間に申し訳ないな、と」
「あ……」

 沖田さんは新撰組の隊士だ。ドラマの中で見た彼らはいつも誰かと戦っていた。京の町の平和のために。それなのに自分だけこうやって平和な時代に来てしまったことに罪悪感を覚えているのかも知れない。

「元の時代に、戻りたいですか?」
「そう、ですね。はい。一日でも早く戻りたいです」

 その言葉になぜか胸が苦しくなる。この生活が意外と楽しいと、そう思った私の気持ちを否定されたような、そんな気持ちになってしまったのかもしれない。

「あっ、でも今は戻れませんね」
「え?」
「詩乃さんの元恋人の件を片付けてからです。そうじゃないと、私元の時代に戻っても詩乃さんのことが心配でし損じてしまいそうです」
「沖田さん……」
「早く解決しないと、詩乃さんもいつまでも私を家に置いとかなきゃいけないですしね。元の時代であればあんな男、剣で一突き――」
「おっ、沖田さん!」

 突然、物騒なことを言う沖田さんに私は慌てた。そんな私に沖田さんはフッと笑顔を見せた。

「冗談です」
「も、もう! 本気にしたじゃないですか!」
「ふふ、すみません。……でも、詩乃さんに危害を加えようとしたら、本当にしてしまうかもしれません」
「え……?」

 あまりにも真剣な表情で沖田さんが言うので、私は手を止めてしまう。ジッと私を見つめる沖田さんと目が合う。その目は吸い込まれてしまいそうなほどまっすぐで――。
 でも、そんな私から視線を外すと、沖田さんはふっと微笑んだ。

「なんて、ね」
「あはは……」
「変なことを言ってしまいすみません。あとは片付けておくので詩乃さんは休んでいてください」
「あ、はい」

 沖田さんの言葉に甘えるように私はソファーに移動する。でも、テレビを見ながらもさっきの沖田さんの表情が頭から離れない。あれはどういう意味だったのだろう。
 考えてもわからない。でもグルグルと疑問が頭の中を回り続けた。