翌朝、ドンドンという壁を叩く音で飛び起きた。泥棒!? 事故!? 地震!? いろんな考えが頭を過ったけれど、その音が元彼の部屋から聞こえることに気づき、昨日拾ってきてしまった人のことを思い出した。
 あの人が起きたんだ。
 相変わらずドアが軋むほどの音を立てられているその前に立つと、私は意を決して声をかけた。

「あ、あの」
「ここを開けてください!」
「え、や、開けるのはいいんですけど……その、暴れるのやめてもらっていいですか?」
「……わかりました」

 ドアの向こうが静かになったのを確認して、私はそっと鍵を回しドアを開けた。
 そこには昨日と同じく、あの新撰組の隊服を着た男の人の姿があった。
 思わずマジマジと見てしまう。
 コスプレ好きな人、なのだろうか。昨今、アニメやコスプレも市民権を得てイベントも増えてるってこの間テレビでもやってたっけ。うん、そうだ。そうに違いない。
 でも、そんな私の希望的観測は次の一言で打ち砕かれた。

「申し訳ありません。あまりにも見覚えのない風景に取り乱してしまいまして」

 見覚えのない風景。
 いやいや、そりゃよその家だもんね。見覚えなくて当然だよね。

「ところで、その服は異国のものですか? まさか異国の……。まさか、朝敵《ちょうてき》!?」

 なんだろ。コスプレしたせいで頭の中まで江戸時代に引っ張られているとかそういう……。

「どこのどなたか知りませんが助けてくださりありがとうございました。それでは私はこれで失礼します」
「あ、あの! その服って、新撰組、ですよね?」
「……そうですが、何か」

 昨日と同じく、新撰組というワードに纏う空気が変わる。なりきってるんだよ、ね?

「さ、最近ドラマで新撰組のやってましたもんね。人気ですよねー。えっと、ほら誰でしたっけ。この間の主役の――あ、そうだ。沖田総司! 薄命の天才剣士!」

 そのまま帰ってもらえばいいのに、どうして私は必死に話を振っているのだろう。自分でもわからないけれど、口が止まらない。

「沖田総司、ですか」
「ええ。あ、もしかしてその格好、沖田総司のコスプレですか? 頭も剃ってて本格的ですよね! えっと、月代《さかやき》っていうんでしたっけ?」
「……”こすぷれ”という言葉の意味はわかりませんが、私の名前を知っているあなたは何者ですか?」
「私の名前って、え?」

 そろそろ嫌な予感がしていた。でも、そんなまさか。ドラマか何かみたいなことがあるわけがない。あるわけがないのだけれど、ここのところあまりにもついていなかった私はもしかしたらこれもその厄災の一部なのかもしれないと思えてきた。
 そう、この人もしかして。

「本物の、沖田総司……?」
「偽物だと疑うのですか? であれば」

 目の前の自称沖田総司は腰の辺りに手をやり、二度三度と空振りした。ぽかんとその様子を見ていた。いったい何をしているのだろう?

「あの……」
「私の刀をどうしたのです」
「刀? え、刀って」

 昨日の夜のことを思い出してみる。でも、そのときもこの人は手ぶらだった。と、いうか刀なんて持ってたらさすがの私でも連れて帰ってきたりしない。

「私があなたを見つけたときには何も持ってませんでしたよ」
「何も? それは本当ですか? と、いうかあなたはどなたです?」
「はい。えっと私は朝倉《あさくら》詩乃《しの》といいます。あの、仕事から帰ろうと歩いてたらあなたが道に倒れてて、そのままにしておくのもと思って連れて帰ってきたんですけど」
「そうだったのですね。道ばたで倒れるとは武士としてなんと情けないこと。大変申し訳ございませんでした」
「い、いえ」

 それよりも。もっと大事なことがあると思うんだけれど。
 この人がもし本当に沖田総司なのだとしたら。

「えっと、あなたは沖田総司さん、なんですよね」
「はい」
「新撰組の隊長の」
「正しくは一番隊隊長です」
「……コスプレやなりきりじゃなくって、本物の」
「先程もおっしゃっていた”こすぷれ”という言葉の意味はわかりませんが、正真正銘沖田総司です。証明のしようがないのがもどかしいですが」

 正直、今もコスプレ説は捨てられない。でも、どこか嘘をついている雰囲気じゃないこの人の話を100%否定できない私もいた。
 と、いうことは。

「あの、あなたがもしも本当に沖田総司さんなのだとして、一つ問題があるんです」
「問題、ですか?」
「はい。あの部屋だとか私の格好だとか、あと言葉に違和感を覚えたと思うんですけど」
「そうですね。見たことのない格好をされてて、さらにこの部屋にあるものも私には見覚えのないものばかりで」
「ですよね。……あの落ち着いて聞いてくださいね。今は21世紀。沖田さん、あなたがいた江戸時代から150年以上あとの世界なんです」
「……はい?」

 何を言われているのかわからない、といった表情をしている。うん、私も逆の立場だったらそういう反応をすると思う。むしろもっと騒ぎ立てるかも知れない。そう思うと、さすが沖田総司。落ち着いた態度だ。
 私は深呼吸を一つして、口を開いた。
 
「沖田さん、あなたはタイムスリップ――えっと、時を超えて未来に来ちゃったみたいなんです」
「…………」
「沖田、さん?」

 黙ったままの沖田さんに私は声をかけた。
 私の声に我に返ったようで、沖田さんは頭を掻きながら口を開いた。
 
「あ、ああ。はい。……そうですか」
「驚かないんですか?」
「驚いてはいます。ですが、詩乃さんはきっと嘘をついていないのだろうと思いまして」
「どうしてです?」
「目を見ればその人が嘘をついているかどうかぐらいわかります。これでも剣士ですので」

 剣士というのは凄い生き物なんだなと感心してしまう。

「未来、ですか。……だからですかね、ここには死の気配がない。落ち着いた優しい空気が漂っています」
「そう、ですかね」
「ええ。そうです。私たちのいた京の町とは全く違う」

 寂しそうな安心したような、そんな表情を浮かべていた。
 そんな沖田さんに私はなんと声をかけていいかわからず、口ごもってしまう。

「ああ、すみません。詩乃さんがそんな顔をする必要はないのです。平和というのはいいことです」

 でも、私は知っている。新撰組がどういう最後を迎えたかを。それを思うと何も言えなくなってしまう。

「ですが、そうですか。未来……。私はどうやってこの時代に来たのかわかりません。詩乃さん、この時代には過去や未来と行き来できるようなそんな技術があるんでしょうか?」
「さ、さすがにまだそういう技術は発明されてないですね……」
「つまり、私が元の時代に戻る術は」
「今のところ、ない、です」
「困りましたね」

 本当に困った。
 この人に行く当てがないとして、このあとどうしてあげればいいんだろう。警察? でも「この人、新撰組の沖田総司で過去からタイムスリップしてきたみたいなんです」なんて言おうものなら、私の方が頭がおかしいと思われかねない。
 かといって今すぐ放り出すのもそれはそれで気が引ける。でも、やっぱり……。

「あの、沖田さん」
「はい?」
「えっと、昨日は緊急事態といいますか、私が倒れている沖田さんを放っておけなくてこの部屋に連れて帰って来ちゃったんですけど」

 蹴り飛ばしたせいで意識がなくなったんじゃあ、と不安になったことは割愛。

「その、一人暮らしの家に知らない人を置いておくのはちょっと……」
「ああ、それはそうですね。未婚の女性が男と一緒に暮らしていれば誤解が生じます。私はここを出ます。昨夜は本当にありがとうございました」

 笑顔で言われると胸が痛くなる。でも、これ以上私にはどうすることもできない。そりゃ悪い人じゃないだろうし置いてあげたい気持ちは山々だ。でも、やっぱり……。

「それでは、これで失礼します」
「は、はい」

 沖田さんは私に頭を下げると、立ち上がった。私もせめて見送りだけでも、とその後を追う。
 そして玄関のドアに手をかけようとしたそのときだった。

 ピンポーン

 部屋の中にチャイムの音が響く。

 ピンポーンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポン

 何度も何度も異常なまでのチャイムの音が鳴り響く。

「っ……」
「詩乃、さん?」
「あ……」
「詩乃? いるんだろ?」

 ドアの向こう側で、私を呼ぶ声が聞こえた。

「お知り合い、ですか?」
「あ、えっと……」
「詩乃! さっさと出てこいよ! なあ、詩乃!」
「あまりいいお知り合いではなさそうですね」

 私の手が震えているのを見て、沖田さんはそう言った。もしかしたら顔色も悪かったのかも知れない。頭のてっぺんから血の気が引いていくのがわかったから。
 沖田さんは私の肩に手を置くと、優しく微笑んだ。

「大丈夫です。私に任せてください」
「任せてって……」
「私は新撰組の沖田総司。治安を守るのが仕事です」

 そう言ったかと思うと、沖田さんはドアノブを指さした。

「これ、開けてもらっていいですか? 私には開け方がわからなくて。それで開けたら詩乃さんは先程の部屋に戻っていてください」
「で、でも」
「昨夜、助けてくれたお礼です」

 その言葉に、私は甘えることにした。
 震える手で必死に摘まみを掴むとゆっくりと回す。そしてカチリという音がした瞬間、元の部屋へと飛び込んだ。

「お前、誰だよ!」
「あなたこそどなたですか?」
「俺? 俺は詩乃の彼氏だよ!」
「か、彼氏じゃない! もうとっくに別れてるでしょ!」
「詩乃! いるんじゃないか! なあ、詩乃! 俺、気づいたんだ。やっぱりお前しかいないって。だから、俺たちやり直そう!? 俺の真実の愛は詩乃、お前の元にあったんだ!」

 思わず口を挟んでしまった私に、元彼は嬉しそうな声を上げた。ただ沖田さんが止めてくれているからか部屋の中には入られずにすんでいる。玄関の方では元彼が暴れているのか、何かが落ちたり壊れたりする音がしていた。

「お引き取りください」
「だからなんなんだよお前は! そんなコスプレみたいな格好しやがって!」
「私は詩乃さんの恋人です」
「はあ!? んなもん信じられねえよ!」
「この時間にここにいるのが何よりの証拠です」
「っ……。詩乃! こいつの言ってることは本当なのか!? おい、詩乃! 隠れてないで出てこいよ!」

 どうするべきか、一瞬悩んだ。でも、意を決してそっとドアを開ける。隙間から玄関の方をのぞき見ると、怒鳴り声を上げる元彼と、そしてこちらを見て優しく微笑んでいる沖田さんの姿があった。その笑顔に、私の心は決まった。

「そっ、そうだよ! 今は彼とここに住んでるの! だからもう来ないで!」
「なんだよ、それ! なあ、俺とやり直そうぜ。なあ詩乃!」

 元彼はまだ何か叫んでいた。けれど、そんな彼の背中を押すようにして沖田さんは部屋の外へと追い出した。

「お引き取りください」
「くそ! おい、詩乃! 俺、諦めないからな!」

 バタンという音と、それから鍵が閉まる音が聞こえた。
 まだ心臓がドキドキしている。必死に息を整える私に、いつの間にか玄関からコチラへと戻ってきていた沖田さんが優しく声をかけた。

「もう大丈夫ですよ」
「あ……ありがとう、ございます」
「……怖かったでしょう」

 その言葉に、私は膝から崩れ落ちた。手も足も小刻みに震えている。別に危害を加えられたわけじゃない。沖田さんが止めてくれたから直接顔を合わせたわけじゃない。でも、それでも。

「こわ、かった……」
「詩乃さん……」

 震える私の背中を、沖田さんは優しく撫でてくれる。何度も、何度も。
 その手のぬくもりが優しくて、あたたかくて、少しずつ私の身体の震えは落ち着いていった。

「もう、大丈夫です」

 ようやくそう言えたのは、元彼が帰ってから10分以上経ってからだった。

「先程の方は」
「あ……」
「いえ、言いにくければいいのです」

 沖田さんはそう言ってくれるけれど、助けてもらっておいて言えませんと言うのもなんだか間違っている気がした。それにとても心配そうな表情をしていたから。
 私は必死に笑顔を浮かべると、明るい声色で言った。
 
「……元彼、です。えっと以前お付き合いしてた人、ですね」
「そうですか」
「真実の愛を見つけた! なんて言って勝手に出て行ったくせに、その相手と別れたのか一週間ぐらい前からああやってくるようになって。都合よすぎて笑っちゃいますよね」
「……詩乃さん」

 笑い飛ばす私に、沖田さんは小さく首を振ると優しく名前を呼んだ。

「楽しくないときまで笑う必要はないのですよ」
「え……」
「大丈夫、今ここには私しかいません。無理して笑わないでください。今思ってること、ちゃんと吐き出してみてはどうですか?」
「今、思ってること……」

 その言葉に、私の目から涙が溢れた。本当はずっと悲しかった。辛かった。悔しかった。そして、腹立たしかった。

「真実の愛って何、ですかね……? じゃあ、今まで私と一緒にいたのはなんだったの? って感じで……。 私のこと好きだったんじゃないの? もう好きじゃなくなったの? なのに戻ってくるって何? 真実の愛とやらが上手くいかなくてだから私に戻ってきたってこと? 何それ都合のいい女? ほんっとうに意味がわからない!」

 そこまで吐き出して、目の前で沖田さんがポカンとした表情を浮かべていることに気づき焦った。いくら思ってることを正直に言えと言われたからってこんな出会って間もない人にぶつけるようなことじゃない。

「あ、あの」

 どう取り繕おうか、そんなことを考えている私の目の前で、沖田さんは――笑った。

「え……?」
「あ、あはは。ご、ごめんなさい。さっきまでの詩乃さんと全然違うから」
「なんか、すみません」
「いえ、謝らないでください。私はそっちの方がいいと思いますよ。素直に自分の気持ちを言うのは悪いことじゃないです。隠して取り繕って仮面を被ったところで、本心は押し込めやしないんですから」
「……沖田さん」
「なんて、少し格好つけすぎたかもしれません」

 照れくさそうに笑う沖田さんを見て、少しだけ気持ちが和らいだ気がした。

「あの、ありがとうございました。沖田さんがいてくれなかったらどうなっていたことか」
「いえ、それよりも」
「え?」
「さっきの様子ではまた先程の男がこちらに来るのではないでしょうか」
「それ、は」

 その可能性は否めない。と、いうかきっと来る。なんなら今彼だと言った沖田さんのことを本当は付き合ってなくてたまたまそこに居合わせた男だったんじゃないか、なんて言ってくることだって考えられる。その通りなんだけど。
 でも、ここをすぐに引っ越すというのも現実的ではない。このマンションに住むときにかかった費用は私が負担して貯金は底をついた。
 と、なると。

「……あの!」
「え?」
「その、もしよければなんですが。しばらくうちに住みませんか?」
「は、い?」

 鳩が豆鉄砲を食ったような顔というのはこういうのを言うのではないか。そんなことを思ってしまうほど目の前の男性は驚いた表情をしていた。
 いや、私だって無茶なことを言っているってわかっている。見ず知らずの男の人、それも過去の時代からタイムスリップして来た疑惑のある人を家に置くなんてどう考えてもまともな判断じゃないってわかっている。わかっているけど、でもこれ以上にいいアイデアも浮かばなかったのだからしょうがない。

「駄目、ですか?」
「駄目、というかですね。一晩泊めて頂いた私が言う言葉じゃないですが、見ず知らずの男を泊め、さらにしばらく住みませんかというのは感心しません」
「う……」

 わかっている。全く同じことを私も考えたから、沖田さんの言うことはよくわかっている。
 けれど、もう頼る人も他にいないのだ。

「で、でも沖田さんだってこのまま私の家を出たら困るんじゃないですか?」
「それは、」
「時代も文明も違う町で一人になってしまうんですよ? 身分証明も何もないのに」
「そうかもしれませんが、それは私が困ればいいだけのことです。あなたが気にすることじゃありません」

 きっぱりと沖田さんは言う。もう何を言っても無駄だと、そう思わせる表情だった。
 そうだよね。うん、沖田さんの言うとおりだ。

「そう、ですよね。私が間違ってました」
「わかってくださったなら――」
「はい。次また一人のときにあいつが来たり、私が会社から帰ってきたタイミングで無理矢理押し入って来てそのまま襲われたりとかそんなことがあったとしても、それは自業自得ですもんね……」
「それ、は」
「いえ、いいんです。見ず知らずの沖田さんに頼むのが間違ってました。いいんです、あんな男と一度でも付き合い同棲した私が悪いんです」
「そっ、そんなことは言ってないでしょう」
「大丈夫です。私が困ればいいだけのことですから」

 そう、これは私の問題であって沖田さんは関係ないのだ。それなのに安易に人に頼ろうとした私が間違っている。これは自分の蒔いた種だ。自分で片付けなければならない。

「大丈夫です。なんとか、頑張りますから」
「っ~~! ああ、もうっ」

 ガックリと項垂《うなだ》れると、沖田さんは消え入りそうな声で言った。

「……私の負けです」
「え?」

 その言葉の意味がわからず聞き返す。そんな私に顔を上げた沖田さんは顔を上げると困ったように眉を下げた。

「そんなこと言われたら、ここを出るわけに行かないじゃないですか」
「それじゃあ……!」
「しばらくお世話になります」
「ありがとうございます!」
「お礼を言うのは私のはずなんですけどね」
「持ちつ持たれつっていうやつですよ!」

 私の言葉に沖田さんは苦笑いを浮かべる。
 かくして、私と沖田さんの奇妙な同居生活はこうして幕を開けた。