ついていないときというのは重なるものだ。そもそもこの不運は昨日今日始まったものじゃない。一ヶ月前に三年同棲した彼氏から「俺、真実の愛を見つけたんだ」なんて意味のわからないことを言われ出て行かれたときから全ては始まった。そもそも勝手に部屋に鍵をつけ始めた辺りからおかしいとは思っていた。思っていたのだけれど信じていた。それなのに。
 あの日からお気に入りのマグカップは割れるし、上司には理不尽なことで怒られ、あげく同僚のミスを押しつけられて始末書騒ぎ。
 休日出勤の土曜の夜だっていうのに晩ご飯も食べず日付が変わる寸前まで残業させられ、お酒でも飲まずにいられるか! と自販機で酎ハイを買おうとしたらお金を飲み込んだままうんともすんとも言わない。ついてない。本当についてない。

「ついてないー! って、きゃっ!」

 お金を諦め歩き出そうとした私の足下に、何か大きな黒い塊があった。あったというか、出現した。先程までは確実にそんなところにそんなものはなかった。あったとしたら絶対に気づいている。うん、だって今素面だもん。お酒、買えなかったし。
 そんなことを考えながらも、突然現れたそれを避けることもできず、かといって踏みつけるのも気が引ける。結果、私は26歳にもなって盛大に転んだ。

「いっ……たい……。って、ストッキング破けてる! これ、この間買ったばかりだったのに! 本当についてない!」
「う……」
「え?」

 自販機の灯りに照らされ、ビリビリに破けた膝小僧を見て少しだけ涙目になった私のすぐそばで、避けきれず蹴飛ばすような形になってしまった塊がうめき声を上げた。
 まさか犬とか猫だろうか。いや、それにしては大きいし、そもそも今の声って動物というよりは――。

「人間……?」

 本当はこのまま逃げるべきだとわかっていた。関わり合いにならない方がいい。こんなところにうずくまっているような人だもん。何か訳ありに違いない。
 でも、さっき思いっきり蹴飛ばしてしまったことが頭をよぎった。もしあれで具合が悪くなってるんだとしたら? このまま放置して打ち所が悪くて死んでしまったりなんかしたら?
 考えれば考えるほど不安になる。いくらついてないとはいえ、人殺しにはなりたくない。最後のオチが刑務所なんて絶対に嫌だ。

「あ、の。大丈夫、ですか?」
「う……ぅ……」
「どこか痛かったりしますか?」
「腕、が……」

 やはり人間だった。それも声のトーンからして男の人。その人は腕を押さえているようだった。そこは奇しくも先程私が思いっきり蹴っ飛ばしてしまった部分だった。なぜかわったかって? だって、着物にくっきりと靴跡がついていたんだもん。
 ……って、着物?
 自販機の灯りを頼りにジッとその人の姿を見つめる。薄い水色と白の三角の模様が入った着物に頭はなんていうんだっけ、半月のような形にそり上げてある。後ろに流した髪の毛はセミロングぐらいあるだろうか。まるでテレビの中で見た時代劇に出てくる人のような。

「なんだっけ。えっと……。その服、私知ってる。えーっとえーっと」

 つい最近、昔のドラマが再放送していてそれで見た。たしか。

「そうだ、新撰組!」

 私がその言葉を発した瞬間、目の前の人の纏う空気が変わったのを感じた。本能的に、この人ヤバいと思う。逃げなきゃ、そう思うのに足がすくんで動かない。

「や……」
「っ……くぅ……」
「え、ええ!?」

 一瞬、身体を起こしたかと思うと――その人は再び倒れ込んだ。そしてそのまま動きを止めた。まるで死体のように動かない。いや、死体なんて見たことないけど! と脳内で無駄な突っ込みをいれてしまうぐらいには冷静じゃなかった。え、でもさっきまで動いてたし喋ってたのに。嘘でしょ?

「まさ、か……死んじゃった……?」

 慌てて首筋に手を当てる。
 あ、大丈夫だ。生きている。
 脈打つ頸動脈にホッとする。と、同時にこのあとどうすればいいのか悩む。いや、このまま放置して警察の人にでも来てもらうのが一番だと思う。思うのだけれど。

「い……やだ……。ひと……り、は……」
「っ……」

 なんだろう、この放っておけないようなそんな気持ちは。

「ち、違うんだからね」

 これは私が蹴ったことによって意識を手放したんだとしたらやっぱり救護義務っていうものがあると思うし、別にこの人がイケメンだったから心配してるとかじゃなくて。
 ただ……。

「苦しいときに、一人は嫌だよね……」

 私はその人の腕の下に身体を入れると、重い身体を引きずるようにしてマンションへと帰った。
 

 今日ほど、マンションにエレベーターが付いていてよかったと思ったことはないだろう。きっと階段しかなかったら諦めてた。それぐらい男の人を一人で運ぶのは大変だった。
 久しぶりに入る元彼の部屋は少しほこりっぽいけれど仕方ない。私はベッドにその人を寝かすとそっと布団を掛けた。
 この人はいったい誰なんだろう。どうしてこんな時代劇のような格好をしているんだろう。
 わからないことだらけで正直こんな状態で家に入れるなんて「だからお前は迂闊だって言うんだ」と脳内で随分と会っていない幼なじみの声が聞こえるぐらいだ。

「どうしようかね」
「ごめ……さ……」
「え?」
「ごめんな……さ、い……はや、く……よくなるから……だから……」

 うなされるように口にした言葉は、酷く胸を騒がせた。記憶の中で、小さな頃の出来事がよみがえる。誰もいない部屋で一人眠る私。「パパ、ママ。ごめんなさい」そう言い続けた小さな私と姿が重なる。
 目尻に溜まる涙をそっと拭うと、私は苦しそうに眠るその人に声をかけた。

「大丈夫だよ。誰も怒ったりしないから、ゆっくり休んで」

 私の言葉が聞こえたのか、眉間にくっきりと入っていた皺が少しだけ和らいだ。
 話を聞くのは元気になってからでもいい。今はとにかく休んでもらおう。

「こんなもんつけやがって、と思ってたのに、役に立っちゃったじゃない」
 
 私は苦笑いを浮かべながら部屋を出ると、鍵を閉める音で彼を起こさないようそっと摘まみを回した。