ついていないときというのは重なるものだ。そもそもこの不運は昨日今日始まったものじゃない。一ヶ月前に三年同棲した彼氏から「俺、真実の愛を見つけたんだ」なんて意味のわからないことを言われ出て行かれたときから全ては始まった。そもそも勝手に部屋に鍵をつけ始めた辺りからおかしいとは思っていた。思っていたのだけれど信じていた。それなのに。
あの日からお気に入りのマグカップは割れるし、上司には理不尽なことで怒られ、あげく同僚のミスを押しつけられて始末書騒ぎ。
休日出勤の土曜の夜だっていうのに晩ご飯も食べず日付が変わる寸前まで残業させられ、お酒でも飲まずにいられるか! と自販機で酎ハイを買おうとしたらお金を飲み込んだままうんともすんとも言わない。ついてない。本当についてない。
「ついてないー! って、きゃっ!」
お金を諦め歩き出そうとした私の足下に、何か大きな黒い塊があった。あったというか、出現した。先程までは確実にそんなところにそんなものはなかった。あったとしたら絶対に気づいている。うん、だって今素面だもん。お酒、買えなかったし。
そんなことを考えながらも、突然現れたそれを避けることもできず、かといって踏みつけるのも気が引ける。結果、私は26歳にもなって盛大に転んだ。
「いっ……たい……。って、ストッキング破けてる! これ、この間買ったばかりだったのに! 本当についてない!」
「う……」
「え?」
自販機の灯りに照らされ、ビリビリに破けた膝小僧を見て少しだけ涙目になった私のすぐそばで、避けきれず蹴飛ばすような形になってしまった塊がうめき声を上げた。
まさか犬とか猫だろうか。いや、それにしては大きいし、そもそも今の声って動物というよりは――。
「人間……?」
本当はこのまま逃げるべきだとわかっていた。関わり合いにならない方がいい。こんなところにうずくまっているような人だもん。何か訳ありに違いない。
でも、さっき思いっきり蹴飛ばしてしまったことが頭をよぎった。もしあれで具合が悪くなってるんだとしたら? このまま放置して打ち所が悪くて死んでしまったりなんかしたら?
考えれば考えるほど不安になる。いくらついてないとはいえ、人殺しにはなりたくない。最後のオチが刑務所なんて絶対に嫌だ。
「あ、の。大丈夫、ですか?」
「う……ぅ……」
「どこか痛かったりしますか?」
「腕、が……」
やはり人間だった。それも声のトーンからして男の人。その人は腕を押さえているようだった。そこは奇しくも先程私が思いっきり蹴っ飛ばしてしまった部分だった。なぜかわったかって? だって、着物にくっきりと靴跡がついていたんだもん。
……って、着物?
自販機の灯りを頼りにジッとその人の姿を見つめる。薄い水色と白の三角の模様が入った着物に頭はなんていうんだっけ、半月のような形にそり上げてある。後ろに流した髪の毛はセミロングぐらいあるだろうか。まるでテレビの中で見た時代劇に出てくる人のような。
「なんだっけ。えっと……。その服、私知ってる。えーっとえーっと」
つい最近、昔のドラマが再放送していてそれで見た。たしか。
「そうだ、新撰組!」
私がその言葉を発した瞬間、目の前の人の纏う空気が変わったのを感じた。本能的に、この人ヤバいと思う。逃げなきゃ、そう思うのに足がすくんで動かない。
「や……」
「っ……くぅ……」
「え、ええ!?」
一瞬、身体を起こしたかと思うと――その人は再び倒れ込んだ。そしてそのまま動きを止めた。まるで死体のように動かない。いや、死体なんて見たことないけど! と脳内で無駄な突っ込みをいれてしまうぐらいには冷静じゃなかった。え、でもさっきまで動いてたし喋ってたのに。嘘でしょ?
「まさ、か……死んじゃった……?」
慌てて首筋に手を当てる。
あ、大丈夫だ。生きている。
脈打つ頸動脈にホッとする。と、同時にこのあとどうすればいいのか悩む。いや、このまま放置して警察の人にでも来てもらうのが一番だと思う。思うのだけれど。
「い……やだ……。ひと……り、は……」
「っ……」
なんだろう、この放っておけないようなそんな気持ちは。
「ち、違うんだからね」
これは私が蹴ったことによって意識を手放したんだとしたらやっぱり救護義務っていうものがあると思うし、別にこの人がイケメンだったから心配してるとかじゃなくて。
ただ……。
「苦しいときに、一人は嫌だよね……」
私はその人の腕の下に身体を入れると、重い身体を引きずるようにしてマンションへと帰った。
今日ほど、マンションにエレベーターが付いていてよかったと思ったことはないだろう。きっと階段しかなかったら諦めてた。それぐらい男の人を一人で運ぶのは大変だった。
久しぶりに入る元彼の部屋は少しほこりっぽいけれど仕方ない。私はベッドにその人を寝かすとそっと布団を掛けた。
この人はいったい誰なんだろう。どうしてこんな時代劇のような格好をしているんだろう。
わからないことだらけで正直こんな状態で家に入れるなんて「だからお前は迂闊だって言うんだ」と脳内で随分と会っていない幼なじみの声が聞こえるぐらいだ。
「どうしようかね」
「ごめ……さ……」
「え?」
「ごめんな……さ、い……はや、く……よくなるから……だから……」
うなされるように口にした言葉は、酷く胸を騒がせた。記憶の中で、小さな頃の出来事がよみがえる。誰もいない部屋で一人眠る私。「パパ、ママ。ごめんなさい」そう言い続けた小さな私と姿が重なる。
目尻に溜まる涙をそっと拭うと、私は苦しそうに眠るその人に声をかけた。
「大丈夫だよ。誰も怒ったりしないから、ゆっくり休んで」
私の言葉が聞こえたのか、眉間にくっきりと入っていた皺が少しだけ和らいだ。
話を聞くのは元気になってからでもいい。今はとにかく休んでもらおう。
「こんなもんつけやがって、と思ってたのに、役に立っちゃったじゃない」
私は苦笑いを浮かべながら部屋を出ると、鍵を閉める音で彼を起こさないようそっと摘まみを回した。
翌朝、ドンドンという壁を叩く音で飛び起きた。泥棒!? 事故!? 地震!? いろんな考えが頭を過ったけれど、その音が元彼の部屋から聞こえることに気づき、昨日拾ってきてしまった人のことを思い出した。
あの人が起きたんだ。
相変わらずドアが軋むほどの音を立てられているその前に立つと、私は意を決して声をかけた。
「あ、あの」
「ここを開けてください!」
「え、や、開けるのはいいんですけど……その、暴れるのやめてもらっていいですか?」
「……わかりました」
ドアの向こうが静かになったのを確認して、私はそっと鍵を回しドアを開けた。
そこには昨日と同じく、あの新撰組の隊服を着た男の人の姿があった。
思わずマジマジと見てしまう。
コスプレ好きな人、なのだろうか。昨今、アニメやコスプレも市民権を得てイベントも増えてるってこの間テレビでもやってたっけ。うん、そうだ。そうに違いない。
でも、そんな私の希望的観測は次の一言で打ち砕かれた。
「申し訳ありません。あまりにも見覚えのない風景に取り乱してしまいまして」
見覚えのない風景。
いやいや、そりゃよその家だもんね。見覚えなくて当然だよね。
「ところで、その服は異国のものですか? まさか異国の……。まさか、朝敵《ちょうてき》!?」
なんだろ。コスプレしたせいで頭の中まで江戸時代に引っ張られているとかそういう……。
「どこのどなたか知りませんが助けてくださりありがとうございました。それでは私はこれで失礼します」
「あ、あの! その服って、新撰組、ですよね?」
「……そうですが、何か」
昨日と同じく、新撰組というワードに纏う空気が変わる。なりきってるんだよ、ね?
「さ、最近ドラマで新撰組のやってましたもんね。人気ですよねー。えっと、ほら誰でしたっけ。この間の主役の――あ、そうだ。沖田総司! 薄命の天才剣士!」
そのまま帰ってもらえばいいのに、どうして私は必死に話を振っているのだろう。自分でもわからないけれど、口が止まらない。
「沖田総司、ですか」
「ええ。あ、もしかしてその格好、沖田総司のコスプレですか? 頭も剃ってて本格的ですよね! えっと、月代《さかやき》っていうんでしたっけ?」
「……”こすぷれ”という言葉の意味はわかりませんが、私の名前を知っているあなたは何者ですか?」
「私の名前って、え?」
そろそろ嫌な予感がしていた。でも、そんなまさか。ドラマか何かみたいなことがあるわけがない。あるわけがないのだけれど、ここのところあまりにもついていなかった私はもしかしたらこれもその厄災の一部なのかもしれないと思えてきた。
そう、この人もしかして。
「本物の、沖田総司……?」
「偽物だと疑うのですか? であれば」
目の前の自称沖田総司は腰の辺りに手をやり、二度三度と空振りした。ぽかんとその様子を見ていた。いったい何をしているのだろう?
「あの……」
「私の刀をどうしたのです」
「刀? え、刀って」
昨日の夜のことを思い出してみる。でも、そのときもこの人は手ぶらだった。と、いうか刀なんて持ってたらさすがの私でも連れて帰ってきたりしない。
「私があなたを見つけたときには何も持ってませんでしたよ」
「何も? それは本当ですか? と、いうかあなたはどなたです?」
「はい。えっと私は朝倉《あさくら》詩乃《しの》といいます。あの、仕事から帰ろうと歩いてたらあなたが道に倒れてて、そのままにしておくのもと思って連れて帰ってきたんですけど」
「そうだったのですね。道ばたで倒れるとは武士としてなんと情けないこと。大変申し訳ございませんでした」
「い、いえ」
それよりも。もっと大事なことがあると思うんだけれど。
この人がもし本当に沖田総司なのだとしたら。
「えっと、あなたは沖田総司さん、なんですよね」
「はい」
「新撰組の隊長の」
「正しくは一番隊隊長です」
「……コスプレやなりきりじゃなくって、本物の」
「先程もおっしゃっていた”こすぷれ”という言葉の意味はわかりませんが、正真正銘沖田総司です。証明のしようがないのがもどかしいですが」
正直、今もコスプレ説は捨てられない。でも、どこか嘘をついている雰囲気じゃないこの人の話を100%否定できない私もいた。
と、いうことは。
「あの、あなたがもしも本当に沖田総司さんなのだとして、一つ問題があるんです」
「問題、ですか?」
「はい。あの部屋だとか私の格好だとか、あと言葉に違和感を覚えたと思うんですけど」
「そうですね。見たことのない格好をされてて、さらにこの部屋にあるものも私には見覚えのないものばかりで」
「ですよね。……あの落ち着いて聞いてくださいね。今は21世紀。沖田さん、あなたがいた江戸時代から150年以上あとの世界なんです」
「……はい?」
何を言われているのかわからない、といった表情をしている。うん、私も逆の立場だったらそういう反応をすると思う。むしろもっと騒ぎ立てるかも知れない。そう思うと、さすが沖田総司。落ち着いた態度だ。
私は深呼吸を一つして、口を開いた。
「沖田さん、あなたはタイムスリップ――えっと、時を超えて未来に来ちゃったみたいなんです」
「…………」
「沖田、さん?」
黙ったままの沖田さんに私は声をかけた。
私の声に我に返ったようで、沖田さんは頭を掻きながら口を開いた。
「あ、ああ。はい。……そうですか」
「驚かないんですか?」
「驚いてはいます。ですが、詩乃さんはきっと嘘をついていないのだろうと思いまして」
「どうしてです?」
「目を見ればその人が嘘をついているかどうかぐらいわかります。これでも剣士ですので」
剣士というのは凄い生き物なんだなと感心してしまう。
「未来、ですか。……だからですかね、ここには死の気配がない。落ち着いた優しい空気が漂っています」
「そう、ですかね」
「ええ。そうです。私たちのいた京の町とは全く違う」
寂しそうな安心したような、そんな表情を浮かべていた。
そんな沖田さんに私はなんと声をかけていいかわからず、口ごもってしまう。
「ああ、すみません。詩乃さんがそんな顔をする必要はないのです。平和というのはいいことです」
でも、私は知っている。新撰組がどういう最後を迎えたかを。それを思うと何も言えなくなってしまう。
「ですが、そうですか。未来……。私はどうやってこの時代に来たのかわかりません。詩乃さん、この時代には過去や未来と行き来できるようなそんな技術があるんでしょうか?」
「さ、さすがにまだそういう技術は発明されてないですね……」
「つまり、私が元の時代に戻る術は」
「今のところ、ない、です」
「困りましたね」
本当に困った。
この人に行く当てがないとして、このあとどうしてあげればいいんだろう。警察? でも「この人、新撰組の沖田総司で過去からタイムスリップしてきたみたいなんです」なんて言おうものなら、私の方が頭がおかしいと思われかねない。
かといって今すぐ放り出すのもそれはそれで気が引ける。でも、やっぱり……。
「あの、沖田さん」
「はい?」
「えっと、昨日は緊急事態といいますか、私が倒れている沖田さんを放っておけなくてこの部屋に連れて帰って来ちゃったんですけど」
蹴り飛ばしたせいで意識がなくなったんじゃあ、と不安になったことは割愛。
「その、一人暮らしの家に知らない人を置いておくのはちょっと……」
「ああ、それはそうですね。未婚の女性が男と一緒に暮らしていれば誤解が生じます。私はここを出ます。昨夜は本当にありがとうございました」
笑顔で言われると胸が痛くなる。でも、これ以上私にはどうすることもできない。そりゃ悪い人じゃないだろうし置いてあげたい気持ちは山々だ。でも、やっぱり……。
「それでは、これで失礼します」
「は、はい」
沖田さんは私に頭を下げると、立ち上がった。私もせめて見送りだけでも、とその後を追う。
そして玄関のドアに手をかけようとしたそのときだった。
ピンポーン
部屋の中にチャイムの音が響く。
ピンポーンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポン
何度も何度も異常なまでのチャイムの音が鳴り響く。
「っ……」
「詩乃、さん?」
「あ……」
「詩乃? いるんだろ?」
ドアの向こう側で、私を呼ぶ声が聞こえた。
「お知り合い、ですか?」
「あ、えっと……」
「詩乃! さっさと出てこいよ! なあ、詩乃!」
「あまりいいお知り合いではなさそうですね」
私の手が震えているのを見て、沖田さんはそう言った。もしかしたら顔色も悪かったのかも知れない。頭のてっぺんから血の気が引いていくのがわかったから。
沖田さんは私の肩に手を置くと、優しく微笑んだ。
「大丈夫です。私に任せてください」
「任せてって……」
「私は新撰組の沖田総司。治安を守るのが仕事です」
そう言ったかと思うと、沖田さんはドアノブを指さした。
「これ、開けてもらっていいですか? 私には開け方がわからなくて。それで開けたら詩乃さんは先程の部屋に戻っていてください」
「で、でも」
「昨夜、助けてくれたお礼です」
その言葉に、私は甘えることにした。
震える手で必死に摘まみを掴むとゆっくりと回す。そしてカチリという音がした瞬間、元の部屋へと飛び込んだ。
「お前、誰だよ!」
「あなたこそどなたですか?」
「俺? 俺は詩乃の彼氏だよ!」
「か、彼氏じゃない! もうとっくに別れてるでしょ!」
「詩乃! いるんじゃないか! なあ、詩乃! 俺、気づいたんだ。やっぱりお前しかいないって。だから、俺たちやり直そう!? 俺の真実の愛は詩乃、お前の元にあったんだ!」
思わず口を挟んでしまった私に、元彼は嬉しそうな声を上げた。ただ沖田さんが止めてくれているからか部屋の中には入られずにすんでいる。玄関の方では元彼が暴れているのか、何かが落ちたり壊れたりする音がしていた。
「お引き取りください」
「だからなんなんだよお前は! そんなコスプレみたいな格好しやがって!」
「私は詩乃さんの恋人です」
「はあ!? んなもん信じられねえよ!」
「この時間にここにいるのが何よりの証拠です」
「っ……。詩乃! こいつの言ってることは本当なのか!? おい、詩乃! 隠れてないで出てこいよ!」
どうするべきか、一瞬悩んだ。でも、意を決してそっとドアを開ける。隙間から玄関の方をのぞき見ると、怒鳴り声を上げる元彼と、そしてこちらを見て優しく微笑んでいる沖田さんの姿があった。その笑顔に、私の心は決まった。
「そっ、そうだよ! 今は彼とここに住んでるの! だからもう来ないで!」
「なんだよ、それ! なあ、俺とやり直そうぜ。なあ詩乃!」
元彼はまだ何か叫んでいた。けれど、そんな彼の背中を押すようにして沖田さんは部屋の外へと追い出した。
「お引き取りください」
「くそ! おい、詩乃! 俺、諦めないからな!」
バタンという音と、それから鍵が閉まる音が聞こえた。
まだ心臓がドキドキしている。必死に息を整える私に、いつの間にか玄関からコチラへと戻ってきていた沖田さんが優しく声をかけた。
「もう大丈夫ですよ」
「あ……ありがとう、ございます」
「……怖かったでしょう」
その言葉に、私は膝から崩れ落ちた。手も足も小刻みに震えている。別に危害を加えられたわけじゃない。沖田さんが止めてくれたから直接顔を合わせたわけじゃない。でも、それでも。
「こわ、かった……」
「詩乃さん……」
震える私の背中を、沖田さんは優しく撫でてくれる。何度も、何度も。
その手のぬくもりが優しくて、あたたかくて、少しずつ私の身体の震えは落ち着いていった。
「もう、大丈夫です」
ようやくそう言えたのは、元彼が帰ってから10分以上経ってからだった。
「先程の方は」
「あ……」
「いえ、言いにくければいいのです」
沖田さんはそう言ってくれるけれど、助けてもらっておいて言えませんと言うのもなんだか間違っている気がした。それにとても心配そうな表情をしていたから。
私は必死に笑顔を浮かべると、明るい声色で言った。
「……元彼、です。えっと以前お付き合いしてた人、ですね」
「そうですか」
「真実の愛を見つけた! なんて言って勝手に出て行ったくせに、その相手と別れたのか一週間ぐらい前からああやってくるようになって。都合よすぎて笑っちゃいますよね」
「……詩乃さん」
笑い飛ばす私に、沖田さんは小さく首を振ると優しく名前を呼んだ。
「楽しくないときまで笑う必要はないのですよ」
「え……」
「大丈夫、今ここには私しかいません。無理して笑わないでください。今思ってること、ちゃんと吐き出してみてはどうですか?」
「今、思ってること……」
その言葉に、私の目から涙が溢れた。本当はずっと悲しかった。辛かった。悔しかった。そして、腹立たしかった。
「真実の愛って何、ですかね……? じゃあ、今まで私と一緒にいたのはなんだったの? って感じで……。 私のこと好きだったんじゃないの? もう好きじゃなくなったの? なのに戻ってくるって何? 真実の愛とやらが上手くいかなくてだから私に戻ってきたってこと? 何それ都合のいい女? ほんっとうに意味がわからない!」
そこまで吐き出して、目の前で沖田さんがポカンとした表情を浮かべていることに気づき焦った。いくら思ってることを正直に言えと言われたからってこんな出会って間もない人にぶつけるようなことじゃない。
「あ、あの」
どう取り繕おうか、そんなことを考えている私の目の前で、沖田さんは――笑った。
「え……?」
「あ、あはは。ご、ごめんなさい。さっきまでの詩乃さんと全然違うから」
「なんか、すみません」
「いえ、謝らないでください。私はそっちの方がいいと思いますよ。素直に自分の気持ちを言うのは悪いことじゃないです。隠して取り繕って仮面を被ったところで、本心は押し込めやしないんですから」
「……沖田さん」
「なんて、少し格好つけすぎたかもしれません」
照れくさそうに笑う沖田さんを見て、少しだけ気持ちが和らいだ気がした。
「あの、ありがとうございました。沖田さんがいてくれなかったらどうなっていたことか」
「いえ、それよりも」
「え?」
「さっきの様子ではまた先程の男がこちらに来るのではないでしょうか」
「それ、は」
その可能性は否めない。と、いうかきっと来る。なんなら今彼だと言った沖田さんのことを本当は付き合ってなくてたまたまそこに居合わせた男だったんじゃないか、なんて言ってくることだって考えられる。その通りなんだけど。
でも、ここをすぐに引っ越すというのも現実的ではない。このマンションに住むときにかかった費用は私が負担して貯金は底をついた。
と、なると。
「……あの!」
「え?」
「その、もしよければなんですが。しばらくうちに住みませんか?」
「は、い?」
鳩が豆鉄砲を食ったような顔というのはこういうのを言うのではないか。そんなことを思ってしまうほど目の前の男性は驚いた表情をしていた。
いや、私だって無茶なことを言っているってわかっている。見ず知らずの男の人、それも過去の時代からタイムスリップして来た疑惑のある人を家に置くなんてどう考えてもまともな判断じゃないってわかっている。わかっているけど、でもこれ以上にいいアイデアも浮かばなかったのだからしょうがない。
「駄目、ですか?」
「駄目、というかですね。一晩泊めて頂いた私が言う言葉じゃないですが、見ず知らずの男を泊め、さらにしばらく住みませんかというのは感心しません」
「う……」
わかっている。全く同じことを私も考えたから、沖田さんの言うことはよくわかっている。
けれど、もう頼る人も他にいないのだ。
「で、でも沖田さんだってこのまま私の家を出たら困るんじゃないですか?」
「それは、」
「時代も文明も違う町で一人になってしまうんですよ? 身分証明も何もないのに」
「そうかもしれませんが、それは私が困ればいいだけのことです。あなたが気にすることじゃありません」
きっぱりと沖田さんは言う。もう何を言っても無駄だと、そう思わせる表情だった。
そうだよね。うん、沖田さんの言うとおりだ。
「そう、ですよね。私が間違ってました」
「わかってくださったなら――」
「はい。次また一人のときにあいつが来たり、私が会社から帰ってきたタイミングで無理矢理押し入って来てそのまま襲われたりとかそんなことがあったとしても、それは自業自得ですもんね……」
「それ、は」
「いえ、いいんです。見ず知らずの沖田さんに頼むのが間違ってました。いいんです、あんな男と一度でも付き合い同棲した私が悪いんです」
「そっ、そんなことは言ってないでしょう」
「大丈夫です。私が困ればいいだけのことですから」
そう、これは私の問題であって沖田さんは関係ないのだ。それなのに安易に人に頼ろうとした私が間違っている。これは自分の蒔いた種だ。自分で片付けなければならない。
「大丈夫です。なんとか、頑張りますから」
「っ~~! ああ、もうっ」
ガックリと項垂《うなだ》れると、沖田さんは消え入りそうな声で言った。
「……私の負けです」
「え?」
その言葉の意味がわからず聞き返す。そんな私に顔を上げた沖田さんは顔を上げると困ったように眉を下げた。
「そんなこと言われたら、ここを出るわけに行かないじゃないですか」
「それじゃあ……!」
「しばらくお世話になります」
「ありがとうございます!」
「お礼を言うのは私のはずなんですけどね」
「持ちつ持たれつっていうやつですよ!」
私の言葉に沖田さんは苦笑いを浮かべる。
かくして、私と沖田さんの奇妙な同居生活はこうして幕を開けた。
私と沖田さんの同居生活が始まった。と、いっても初日である日曜日は沖田さんが見慣れない現代の家電やお風呂なんかの使い方を説明して終わった。平日の今日はといえば、当たり前だけれど私は仕事だ。
「とりあえず、昨日も言った通り触っちゃ駄目なものは触らないでください」
「わかりました」
「あと、これ」
私はお弁当箱を差し出した。昨日のうちに一つ余分に買っておいたものだ。いや、そりゃキッチンの引き出しを開ければ元彼が使っていたものがあるにはある、のだけれどさすがにそれを使うのはどうなんだと思ってしまったから。
「これは……?」
「お弁当です。私のお昼を作るついでで申し訳ないんですけれど」
「私に、ですか?」
「はい」
沖田さんはお弁当箱を持ったまま固まっている。余計なことをしてしまっただろうか。でも、一人で家にいたらお昼ご飯を食べたかどうか心配になるし、さすがに朝食べて夜まで何も食べないのも。かといって自分で準備できるかというとそうでもないと思って。
と、頭の中でまるで言い訳のようにつらつらと言葉が流れる。
「い、いらなかったら食べなくても……」
「食べます! いります!」
「そっ、そうですか?」
あまりの勢いに思わずおののいてしまう。けれどそんな私をよそに、沖田さんはお弁当箱をギュッと大事そう抱きしめると、蕩けてしまいそうな表情で頷いた。
「はい。……凄く、嬉しいです。ありがとう、ございます」
「い、いえ」
そんなに喜んでもらえると思わなかった。ただ私のを作るついで、なだけだった。でも、こうやってお弁当箱を開けたり閉めたりしながら嬉しそうな表情を浮かべる沖田さんを見ると、作ってよかったなってそう思う。
「それじゃあ、行ってきます」
「はい、いってらっしゃい」
玄関で沖田さんに見送られ家を出る。
久しぶりに「いってらっしゃい」を言ってくれる人がいる、というのはそれだけで嬉しいものだった。
そのせいか会社でも「朝倉さん、今日機嫌いいね?」なんて言われてしまう始末だ。
ちなみに「新しい彼氏できたの?」と言われたので丁重に否定しておいた。
そんなこんなで夕方頃、久しぶりに定時で家に帰る。ドアの前でつい髪の毛を直してしまうのは仕方がないことだと思う。
コホンと咳払い一つすると、ドアノブに手をかけた。
「ただいま」
少しの間のあと、リビングの方からパタパタと足音がした。
「おかえりなさい」
「っ……」
「詩乃さん?」
「あ、いえ。なんでもないです」
「ただいま」「おかえり」ただそれだけなのにどうにもくすぐったさを感じる。けれどそれを気取られないように至って普通の態度で私はリビングに向かう。すると朝干しておいた洗濯物を沖田さんが取り込んでくれていることに気づいた。
「わっ、ありがとうございます!」
「いえ、お世話になっているのでこれぐらいは」
「ご飯作っちゃうんでテレビでも見ていてください」
「はい。……それにしてもこの”てれび”というのは本当に不思議ですね。このような箱の中に人の姿が映って……。写真は知っていますがこのようなものは」
「あっ、そっか。江戸時代ってすでに写真はあったんだっけ。写真では静画、止まっている状態のものが写せたように、テレビでは動画、動いている状態のものを映すことができるんです」
わかったようなわからないような顔で沖田さんは頷いている。それ以上詳しいことを聞かれても私も上手く答えられる自信がないので深掘りされずにホッとする。
キッチンに立つと、冷蔵庫の中を見る。
江戸時代の人って、何か食べられないものとかあるのだろうか。洋食はまだ入ってきてなかったんだっけ? と、いうことは和食の方がいいよね。お肉とかはどうなのだろう。
しばらく悩んだあと、私はブリを取り出した。魚ならきっと食べたことがあるだろうと思ってのことだった。
ブリに塩を振って臭み抜きをする。その間にワカメと豆腐の味噌汁を作ってと。あとはさっき買ってきた長芋を茹でて切ったオクラと和えてポン酢をかければできあがりだ。
そうこうしている間に臭みが抜けたであろうブリをペーパータオルで拭く。あとはフライパンで醤油とみりん、それから酒と砂糖を混ぜたタレをかけて焼けばできあがりだ。
「お待たせです」
「ありがとうございます」
沖田さんはテーブルに並べた晩ご飯をジッと見つめる。そんなに上手じゃないのでジロジロと見られると恥ずかしい。
「あ、あの。お口に合うかわからないですが」
「とても美味しそうです。いただきます」
「どうぞ」
ブリをお箸で綺麗に取り、沖田さんは口に入れた。
「美味しいです」
「よかった」
「昨日も思いましたが、詩乃さんはお料理が上手ですね」
「あー……」
沖田さんの言葉に思わず口の中が苦くなるのを感じる。上手かどうかはわからないけれど、慣れてはいる。だって。
「元彼が本当に何もしない人で、私が作るしかなかったんです。作ってもらって当たり前、自分は何もしないのにいつだってそんな態度で」
「それ、は」
「ああ、でも沖田さんの時代じゃあ女の人が炊事や洗濯をするのが当たり前ですからそんなに違和感はないですかね」
「そうですね。ですが、それでも作ってくれる人に感謝はします。それは当たり前のことですから」
「感、謝……」
感謝なんてされたことあっただろうか。付き合い始めた当初、同棲し始めた当初はあったかもしれない。でも、いつの間にか私が作るのが、私がするのが当たり前になって、できてなければどうしてできてないんだと責められた。
「沖田さんは、優しいですね」
「優しいのは、詩乃さん。あなたです」
「え?」
「そしてあなたの恋人は詩乃さんの優しさにつけ込んだのです」
「……そうかも、しれません」
私が手を出しすぎたから、世話を焼きすぎたから。
私じゃなければ彼もここまで酷くなってなかったのかもしれない。
そんなことを考えていると、沖田さんの手が私の頬に伸び――そのまま引っ張られた。
「おひは《おきた》、はん《さん》?」
「今、私のせいで彼がそうなってしまったと思ってませんか?」
「それは……」
寂しそうに微笑みながら、沖田さんは私の頬から手を離す。引っ張られていたはずの頬は痛みではなぬくもりを感じた。
「あなたが悪いわけじゃない。つけ込んだその男が悪いのです。あなたは見ず知らずの私を放っておくことなく、家に連れ帰ってくれた。あのまま野垂れ死にしててもおかしくなかったのに、あなたが助けてくれたおかげで私は今こうやって食事を取ることができている。全てあなたのおかげです」
「沖田さん……」
「あなたの優しさはあなたの誇るべきところであって責められるところじゃない。それだけは覚えておいてください」
沖田さんの言葉になぜか泣きそうになって、私は頷くことしかできなかった。そんな私の頭を優しく撫でると「食べましょうか」と沖田さんは言った。
お味噌汁のお椀にそっと口をつける。いつもと同じ味のはずなのに、今日はなぜかほんの少しだけしょっぱく感じた。
沖田さんとの生活は悪いものではなかった。あの日から一週間が経ったけれど、今では日中何もすることがないからと、家のことを率先してやってくれる沖田さんに助けられるところも多々あった。コンロはまだ使うのが怖いようで料理はできないけれど、食後の洗い物は一緒にしてくれる。洗った食器を渡すと沖田さんがそれを受け取り布巾で拭いた。
こんなふうにするのがなんだか新鮮で思わず鼻歌を歌ってしまう。そんな私に気づいたのか沖田さんが笑った。
「ご機嫌ですね」
「え? あ、そうかもしれません」
「何かいいことでも?」
「私こんなふうに誰かと一緒に台所に立つのって初めてで。実家にいたときは母親に任せっきりでしたし、この間までは手伝ってくれることなんて一切なくていつも一人でやってたので」
「詩乃さん……」
「だから今はなんだか楽しいです。……って、元彼からの突撃を防ぐためにいてもらっているのに楽しいとか言っちゃダメですね」
「すみません」と謝る私に沖田さんは拭き終わったお皿を食器棚に戻すと首を振った。
「そんなことありません」
「沖田さん?」
そんなことないと言いながらも沖田さんの表情は暗かった。眉間に皺を寄せ何かを思い出すようにする沖田さんに、私は戸惑った。
こんな表情初めて見る……。
「あの……」
「ああ、すみません」
恐る恐る尋ねた私に、沖田さんは少しだけ表情を和らげた。
「その、私もこうやっているのがなんだか楽しくて、それが仲間に申し訳ないな、と」
「あ……」
沖田さんは新撰組の隊士だ。ドラマの中で見た彼らはいつも誰かと戦っていた。京の町の平和のために。それなのに自分だけこうやって平和な時代に来てしまったことに罪悪感を覚えているのかも知れない。
「元の時代に、戻りたいですか?」
「そう、ですね。はい。一日でも早く戻りたいです」
その言葉になぜか胸が苦しくなる。この生活が意外と楽しいと、そう思った私の気持ちを否定されたような、そんな気持ちになってしまったのかもしれない。
「あっ、でも今は戻れませんね」
「え?」
「詩乃さんの元恋人の件を片付けてからです。そうじゃないと、私元の時代に戻っても詩乃さんのことが心配でし損じてしまいそうです」
「沖田さん……」
「早く解決しないと、詩乃さんもいつまでも私を家に置いとかなきゃいけないですしね。元の時代であればあんな男、剣で一突き――」
「おっ、沖田さん!」
突然、物騒なことを言う沖田さんに私は慌てた。そんな私に沖田さんはフッと笑顔を見せた。
「冗談です」
「も、もう! 本気にしたじゃないですか!」
「ふふ、すみません。……でも、詩乃さんに危害を加えようとしたら、本当にしてしまうかもしれません」
「え……?」
あまりにも真剣な表情で沖田さんが言うので、私は手を止めてしまう。ジッと私を見つめる沖田さんと目が合う。その目は吸い込まれてしまいそうなほどまっすぐで――。
でも、そんな私から視線を外すと、沖田さんはふっと微笑んだ。
「なんて、ね」
「あはは……」
「変なことを言ってしまいすみません。あとは片付けておくので詩乃さんは休んでいてください」
「あ、はい」
沖田さんの言葉に甘えるように私はソファーに移動する。でも、テレビを見ながらもさっきの沖田さんの表情が頭から離れない。あれはどういう意味だったのだろう。
考えてもわからない。でもグルグルと疑問が頭の中を回り続けた。
なんとなく、もう元彼は来ないんじゃないか。そう思ったのは沖田さんが来てから二週間が経ってからだった。
あの日、沖田さんに追い払われてから突然チャイムが鳴ったりドアノブをガチャガチャと回されたりすることはなくなった。私に新しい彼氏ができたと知って引き下がってくれたのかもしれない。
けれど、それを言うと沖田さんはきっと「じゃあもう大丈夫ですね」と言ってここを出て行ってしまう気がした。いや、そもそもそのために一緒に住んでもらっていたのだから、片付いたのであれば一緒にいる必要はない。
けど、ここを出て行ったら沖田さんは行く当てもなくてホームレス状態だ。そんなことさせられない。
……とかなんとか言い訳をしてしまう私がいた。
そんなことを考えていたからバチが当たったのだろうか。その日の帰り道、私はマンションの階段を上がろうとしたところで、後ろから腕を掴まれた。
「きゃっ」
「詩乃! 久しぶりだね!」
「恭平……なんで」
「ああ、会いたかった。家に行ったらあいつがいるだろ? だから外で待ってたんだ。やっと会えた」
ニタニタと笑う姿に恐怖を感じ、私は必死にその腕を振りほどこうとする。けれど、びくともしなかった。
「離して!」
「離すわけないだろ? だいたいなんだ? あいつは。毎日毎日詩乃と俺の部屋にいてさ。まるでニートじゃないか。ああ、もしかして脅されてあいつを養ってるのか? 詩乃は優しいから同情した? もう心配しなくていいよ。俺、部屋を借りたんだ。そこに詩乃の部屋もちゃんと作ってある。このままマンションは捨てて俺と一緒に行こう? ほら、早く」
恭平は私の腕を引っ張り階段を下りていこうとする。バランスを崩しそうになり慌てて手摺りを掴んだ私はその場に崩れ落ちた。
それでもなお恭平は私の腕を引っ張り続ける。
「痛い、やめて!」
「やめたらあいつが出てくるだろ? あいつに気づかれないうちにいかなきゃ」
「どこに行くんです?」
その声に顔を上げると、そこにはいつもの笑みを浮かべた姿ではなく、真剣な表情でこちらを見下ろす沖田さんの姿があった。
「出てきたな」
「また来たんですね。お帰りくださいと言ったでしょう」
「ふん。だいたいそれ俺の服だぞ。何勝手に着てるんだよ」
「ああ、そうですか。ではお返ししますね」
沖田さんは着ていたトレーナーを脱ぐと、恭平に投げつけた。
「うわっ」
「詩乃さん!」
顔にかかったトレーナーを取ろうと恭平がもがいている間に、沖田さんは私の手を掴み自分の方へと引き寄せた。
「なっ、お前卑怯だぞ!」
「服は返しますが、詩乃さんはもう私の恋人ですからお返しすることはできません」
「お前なんて詩乃のことなんにもわかってないくせに何言ってんだ! 詩乃を幸せにできるのは俺だけだぞ!」
「そんなことありません。ねえ、詩乃さん。私と一緒にいて幸せですか?」
「え、あ、あの」
至近距離でジッと見つめられると、思わず言葉に詰まる。しかも上半身裸。引き締まった身体が今にも触れてしまいそうな程近くにある。これでドキドキしないという人がいたら見てみたい。少なくとも私には無理!
すぐに返事をした方がいいのはわかっていた。でも顔どころか耳まで熱くなってまるで餌をもらう前の金魚のように口をパクパクとさせてしまう。
「詩乃……お前……」
けれど私の躊躇いや恥じらいをどう取ったのか、恭平は「嘘だろ」と呟きながらその場にしゃがみ込んだ。
そんな恭平の態度に沖田さんは微笑みを浮かべると、さらに顔をこちらへと寄せた。
「え、な……」
「黙っててください」
そう囁いたかと思うと――沖田さんは私の唇、すれすれのところに口づけた。
「し……の……」
「ほら、もうあなたの入る隙なんてこれっぽっちもないのです。もう詩乃さんのことは諦めて新しい人生を歩みなさい」
「そんな……俺は……」
「さあ、詩乃さん。部屋に入りましょう」
「は、はい」
沖田さんに腰を抱かれるようにして、私は部屋に入る。恭平が追いかけてくることはなかった。
しばらく玄関近くで耳音を立てていたけれど、階段を下りていく足音が聞こえてた以外に何の音もしなかった。どうやら恭平は諦めて帰ったようだ。
「ああ、よかった。無事追い払えたようですね」
「…………」
「詩乃さん?」
「は、」
「は?」
「離れてもらっても、いいですか?」
「え? あっ」
私の言葉に沖田さんは慌てて私から身体を離した。
「すみません、あの」
「い、いえ。えっと、あの、助けてくださって、ありがとうございました」
「駆けつけるのが遅くなってすみません。話し声が聞こえてもしかしてと思って」
「そんなことないです!」
沖田さんが来てくれなかったら今頃は恭平に連れて行かれていたかもしれない。手首に残った手の跡を見てゾッとする。
「それ……」
私の視線に気づいたのか、沖田さんも腕に残ったあとに目をやりそして眉をひそめた。
「あいつが、ですか」
「えっと、はい。でも、もうそんなに痛くないですし」
「……やっぱりあいつは剣で――」
「駄目です!」
私は今にも恭平を追いかけて行ってしまいそうな沖田さんの腕を掴んだ。
「ですが!」
「あんなやつのために、沖田さんが手を汚すことないです……。それ、に……」
沖田さんは私の手が震えていることに気づいた。
「今は……一人に、なりたく、ない……」
「詩乃さん……」
「行か、ないで……」
沖田さんは私の背中にそっと腕を回すと、優しく抱きしめた。
「もう大丈夫です……私がずっとそばにいますから」
張り詰めていた気持ちが緩んだのか、沖田さんの優しい声を聞きながら私は意識を手放した。
ふと気づくと、辺りは薄暗くなっていた。今は何時だろう。私は一体なにを。
顔を上げようとすると、すぐそばにいた沖田さんと目が合った。
「目覚めましたか?」
「え、私……」
「もう大丈夫ですか?」
その一言で、全てを思いだし私は慌てて立ち上がろうとした。けれどその身体は沖田さんの腕でしっかりと抱き留められていて動くことはできない。沖田さんの肌から直接熱が伝わってくる。
「あ、の」
「え?」
「もう、大丈夫なので……その、腕を」
「あっ、ああっ」
沖田さんは思いだしたかのように慌てて両腕を上げる。私はそっと沖田さんから身体を離した。
「す、すみません。その、詩乃さんが気を失われたようだったので……。動かすよりもそっとしておこうと」
「いえ、私の方こそすみません」
すみませんと言いながらも沖田さんの方を見ることができない。恥ずかしさとそれからみっともなさでいっぱいだ。
そっと沖田さんの方を窺うと、沖田さんも頬を赤くしているのが見えた。その姿に思わず笑ってしまう。
「……なんです?」
「なんでもないです」
「そう、ですか」
「はい」
私たちは顔を見合わせると笑った。
リビングに移動した私たちは、ソファーに並んで座った。沖田さんは途中でパーカーを羽織っていた。
「あの、本当にありがとうございました」
「いえ。でも、諦めて帰ってくれてよかったです」
「はい」
恭平の件はきっとあれで片がついた。もう来ることはないだろう。となると、もうこの家に沖田さんが住む必要はなくなる。それは沖田さんも思っているようで、こちらを向いて小さく笑った。その笑顔が妙に寂しそうに見えたのは私の思い違いだろうか。
私は胸の奥に小さな痛みを感じた。
この痛みを知っている。恭平が家を出たときにも感じた、ほろ苦い痛み。寂しさともの悲しさと、それから――。
「あの!」
「詩乃さん」
「え?」
私の言葉と沖田さんの声が重なった。いつもなら「お先にどうぞ」と言う沖田さんが、珍しくコホンと咳払いをして口を開いた。
「先程の方は帰られましたがもしかするとまた来るかもしれません」
「え?」
「諦めたと見せかけてこちらが油断するのを待っているのかも」
そうだろうか。まあ確かにそういうこともあるかもしれない。それに剣士である沖田さんが言うのだ。何かそういう気配を感じ取っているのかも知れない。やっぱり一般人である私とは見ているところが違うのかも。
私には見えないものが見えている気がして沖田さんの目をジッと見つめる。けれど沖田さんはそんな私の視線から目をそらした。
「沖田さん?」
「……と、いうことにしてもらえないで、しょうか」
言葉の意味が上手く理解できなかった。それは、つまり……。
「私にここに、詩乃さんのそばにいる、理由を与えてください」
「沖田、さん?」
心臓の鼓動がうるさい。
こちらを見つめる沖田さんの瞳の中に私の姿が見えた。
「私はこの時代の人間ではない。だからあなたを好きだなんて言う資格はないとわかっています。だから、せめてあなたのことを守らせてください。あの男からも、他の危険からも」
「沖田、さん」
「好きです。私は詩乃さんのことが好きです。他の男に指一本も触れさせたくない」
沖田さんは私の手首を掴むと、未だ残る跡に口づけた。
「んっ」
「もう二度と、誰にも傷つけさせない、だから」
沖田さんの顔が近づいてくる。
吐息すらかかりそうな距離で沖田さんは囁くように言った。
「逃げるなら、今ですよ」
「……逃げ、ません」
「詩乃さん……」
「私も、沖田さんが、好きです」
私はそっと目を閉じた。
これ以上、自分の気持ちに気づかないふりをするのはやめよう。私はこの人と一緒にいたい。そばにいて一緒にご飯を食べて、他愛のない話をして笑い合っていたい。
この気持ちが好きじゃなければいったいなんだっていうんだ。私は、沖田さんが好きなんだ。
沖田さんの唇が私のそれに優しくそっと押し当てられた。
「好きです」
「沖田……さん」
「詩乃さんのことが、好きです」
触れるだけの口づけが何度も何度も繰り返される。その背中に私はそっと腕を回した。
沖田さんはこの時代の人間ではない、そんなことわかっている。
でも、それでも想う気持ちを止められなかった。
沖田さんと想いを通じ合わせてから一ヶ月。私は幸せな生活を送っていた。休みの日は二人で買い物に行き、一緒にご飯を作った。恭平の部屋にあったものも少しずつではあるけれど処分して、代わりに沖田さんの物を買いそろえた。
私が買うたびに沖田さんは申し訳なさそうな顔をしたけれど、むしろ一緒に買い物に行って買うというのが新鮮で楽しかった。
このまま幸せな日々が続けばいい。そう思っていた。……そう思ったときこそ何かあるということを嫌というほど知っていたはずなのに。
最初におかしいなと思ったのは、長引く咳だった。
「ゴホッゴホッ」
「風邪、よくならないですね」
「咳だけなんですけどね。どうも続いてしまって」
私は時計を見る。22時を過ぎた頃だ。近くのドラッグストアは軒並み閉まっている時間だった。
咳は出ているものの熱はない。ひとまず様子見でも大丈夫、だろうか。それでもやっぱり心配だ。
「うーん、明日の仕事帰りに薬局寄ってきましょうか。それか、病院に」
「病院は私が行くとお金がかかるでしょう」
「うっ」
たしかに、保険証のない沖田さんが病院に行けば十割負担だ。今月は割と色々買ってしまったから痛いと言えば痛い。でも、だからと言って咳が続いているのもしんどうだろうし。
「私は大丈夫ですから心配しないでください」
「でも……」
「ほら、明日も仕事なんですからそろそろ眠りましょう。移すといけませんから私は今日は向こうの部屋で寝ますね」
そう言うと沖田さんは元恭平の部屋へと行ってしまう。「おやすみなさい」と言いながらもやはり顔色はよくなかった。
その日の夜、隣の部屋からはずっと咳き込む音が聞こえていた。やっぱり明日薬を買いに行こう。それでもよくならなければ病院だ。お金がかかったっていいじゃない。それで楽になるのなら。
翌日、私が仕事に行く時間になっても沖田さんは起きてこなかった。そっと部屋を覗いてみるとよく眠っていた。朝方まで咳をする音が聞こえていたから、ようやく眠れたところなのかもしれない。
おでこにそっと手を当てるとどうやら熱もしているようだった。咳だけじゃなく熱まで出てきたのならやっぱり病院に行った方がいい。今日、仕事が終わり次第病院に連れて行こう。
そう思って家を出た。なのにそんな日に限って仕事は定時を過ぎても終わらず、結局会社を出ることができたのは病院がとっくに閉まった21時頃だった。
遅くなる日は先にご飯を食べておいて欲しいと伝えてあるし、そのために冷凍庫には冷凍したカレーやシチューなど、電子レンジで温めるだけで食べられるものを置いてある。だからご飯の心配はないのだけれど、それよりも風邪だ。
病院は閉まっていたけれど、ドラッグストアはなんとか開いていた。閉店ギリギリのお店に滑り込むと私は風邪薬コーナーへと向かう。
熱と咳、となると総合風邪薬だろうか。あまり薬局で薬を買うことがない私は想わず棚の前で手を止める。どれを買うべきか。
そんなことを考えていると、誰かに肩を叩かれた。
「ひゃっ!」
「なんだよ、変な声だして。俺だよ、俺」
聞き覚えのある声に振り返ると、そこには黒縁眼鏡にマスク姿の男がいた。
「だ、だれ……」
こんな人知らない、そう思って逃げようとすると、その人はマスクを外しながら「俺だよ俺」と笑った。
「はる、と……?」
「せーかい」
そこには幼なじみの晴斗の姿があった。高校までは同じ学校に通っていたのだけれど大学で別れてしまった。それっきり会うこともなかったから9年ぶり、だろうか。
「何、わからなかった?」
「マスクしてたらわからないよ」
「ああ、それもそうか」
トレードマークの黒縁眼鏡は同じだけれど、私と変わらないぐらいしかなかったはずの身長は見上げなければならない程に大きくなっていた。ひょろっとしていた身体もいつの間にこんなにがっちりしたのか。
「そうか? 詩乃は全然変わらないな。すぐわかったよ」
「けなしてるの? 褒めてるの?」
「さあね」
はぐらかすように笑うと晴斗は私の向かいの棚を見て眉をひそめた。
「何、風邪?」
「まあ、ね」
「なんでうちに来ないんだよ」
晴斗は怒ったように言う。行けるものなら行ってるわ! という言葉は飲み込む。晴斗のお父さんは開業医で私も小さい頃からお世話になっていた。風邪を引き始めたら晴斗の家に行ってたから薬局で薬を買うことなんてなかった。
「熱は、ないな」
私の額に手を当てると晴斗は呟く。まぶたの色まで見ようと手を伸ばすから私は慌ててその手を払いのけた。
「わ、私じゃないから」
「詩乃じゃないのか」
ホッとしたような声が聞こえて少し意外に想った。子どもの頃は風邪を引く度に晴斗のお父さんに見てもらう私を「病弱だな」なんて笑っていたから。晴斗も大人になった、ということなのだろう。
と、いうか。
「なんで晴斗がここにいるの? 県外の病院に就職したって聞いたけど」
「あー、親父がな。腰やって引退することになったんだ」
「ええ!? おじさんが!?」
最近行くことはなくなっていたが、数年前に行ったときは昔から変わらないあの優しい笑顔で出迎えてくれたのに。
「そっか。じゃあ、病院閉めるんだ。寂しくなるなぁ」
「阿呆。なんのために俺がここにいるんだよ」
「へ?」
「病院、俺が継ぐんだ。だから辞めて帰ってきたってこと」
「あ、なんだ。そういうことか」
それなら確かに晴斗がここにいるのもわかる。そっかそっか。
と、理解したところで私はこんなことをしている場合じゃないことを思い出した。
「あ、ねえ。ところで熱と咳がある人に一番いい薬ってどれ?」
「は? 唐突だな。ってか、やっぱり誰か風邪引いてるんじゃないか。病院連れてこいよ。悪化したら市販薬じゃ無理だぞ」
「でも、今日はもう病院閉まってるでしょ」
「まあな。……俺、診てやろうか?」
「え?」
「幼なじみのよしみでさ」
そう言うと、晴斗は棚から咳止めと解熱剤を取り私の持っていたかごに入れた。
「あ、ちょっと」
「ほら、さっさとしろよ」
「もうっ」
強引なところは変わっていない。とはいえ、お医者さんに診てもらえるのであれば絶対にその方がいい。
私は晴斗が入れた薬とそれから食べやすいゼリーなんかを買うと、沖田さんが待つ部屋へと急いだ。
玄関のドアを開けると、部屋の中はシンとしていた。眠っているんだろうか。
「で、どこだよ」
「……ねえ、その前に言っておきたいことがあるんだけど」
「なんだよ。あ、こっちの部屋だな」
ゴホゴホと咳き込む音が聞こえたのか、晴斗ポケットに入れていたマスクを付け直し玄関からほど近い部屋のドアを開ける。そこには苦しそうに咳き込む沖田さんの姿があった。
「沖田さん、大丈夫ですか!?」
「詩乃……さん。おか、えり……なさ……ゲホッ」
「喋らなくて大丈夫です。それよりも」
私より先に部屋に入った晴斗は沖田さんの姿に驚いていた。
「男かよ」
「え、何か言った?」
「別に。で、そいついつからこんな感じなの」
「少し前から風邪を引いたのか咳が続いてて、今日の朝ぐらいから熱も……」
「どいて」
晴斗は私をどかすと、沖田さんの手首や首元、そしてまぶたの色を確認する。
「沖田さん……」
「こいつ、沖田って言うんだ? そこにある隊服といい、まるで新撰組の沖田総司だな」
「え」
晴斗の言葉に、私は固まった。まさかバレるなんて思わなかった。そもそもタイムスリップなんて普通思いつきもしない。でも、逆にバレてしまった方が楽なのかも知れない。
「うん、そうなの」
だから私は下手にごまかすことをやめて大人しく頷いた。
けれど、そんな私に晴斗は「はあっ!?」と素っ頓狂な声を上げるとこちらを振り返った。
「今、なんて言った?」
「え、だからそうなのって」
「待て待て待て。そうなのって何がそうなんだ? 俺は沖田総司みたいだなって」
「え、うん。だから沖田さんなの」
「……嘘だろ」
晴斗は天を仰ぎ、それから沖田さんとそれからカーテンレールにかけられたままになっている隊服を見比べた。
今の反応はどういうことだろう。
「晴斗……?」
「こいつが沖田総司? 新撰組の? いや、お前騙されてるだろ。新撰組がいたのって江戸時代、幕末。今から150年以上前の話だぞ?」
「わかってるよ。でも、本当の本当に沖田総司なんだよ。と、いうかわかっててそう言ったんじゃないの?」
「んなわけねーだろ! ああ、でももしもこいつが沖田総司なのだとしたら」
晴斗は慌てて立ち上がると、私を部屋から押しだしそして思いっきりドアを閉めた。
「何を……!」
「おい、詩乃! お前、BCGは打ってるよな!?」
「え、うん。判子注射だよね? 赤ちゃんのときに打ったけど」
もうほとんど跡は残っていないけれど。
私の答えに「そうだよな」と安心したように晴斗は息を吐いた。
「よし、とりあえずマスクしろ」
「ど、どういうこと?」
「お前、沖田総司のこと知らないのか?」
「知ってるよ。薄命の天才剣士……」
「じゃあ、その薄命の理由は!」
「けっか……く……」
自分の言葉に、崩れ落ちそうになった。
そうだ、沖田総司は結核で死ぬ。若き天才剣士を襲った病、とテレビで言っていた。つまり、沖田さんは。
「結核……?」
「検査してみないとわからないけど、あいつが本当に沖田総司だっていうのならその可能性が高い。なあ、あいつは本当に沖田総司なのか? 俺のことをからかって遊んでるなら」
「私だって今ほど嘘だったらいいのにって思ったことないよ!! でも、あの人は本当に沖田総司なの!」
「……そう、か」
私は全身から血の気が引くのがわかった。
「死ぬ、の……?」
震える声で、必死に晴斗に問いかける。
そんなことないって言って欲しくて。助かるよって言って欲しくて。
でも、晴斗の答えを聞くよりも早く、部屋のドアが開いた。
「し、の……さ……ゲホッ」
「沖田さん!」
「詩乃、これつけろ」
晴斗はポケットから取り出した予備のマスクを私に渡す。それをつけると、私は沖田さんに駆け寄った。
「沖田さん! 起きて来ちゃ駄目です! 寝ててください!」
「詩乃……さん……私は、死ぬんですね?」
「っ……」
「ああ、そうなん、ですね……。そんな顔、しない……で……ゲホゲホッ」
「沖田さん!」
咳き込み体勢を崩す沖田さんの身体を私は必死に支える。朝よりも熱が高くなっている気がする。このままじゃあ……!
「わた、し……思い出したんです」
「え?」
「元の時代で……私は、一度、死んでいます……。労咳、で……」
「う、そ……」
「仲間たちとともに戦うこともできず、近藤さんや土方さんを守ることもなく……一人、布団の上で……死にました……ゲホッ」
咳き込みながらも沖田さんはぽつりぽつりと話し始めた。
「情け、ないですよね。武士である私が、最期は布団の上で病に倒れ、死ぬだなんて。悔しくて仕方がなかった。大切な人を守りたかった。そう思いながら死んだ――はずでした」
「まさか」
「ええ。死んだと思ったはずなのに、気づいたらどこかわからない場所で倒れていました。あとは詩乃さん、あなたもご存じのはずです」
そんなことがあるのかと普通だったら疑う。でも、現に私は沖田さんを助け、そして今まで一緒に生活をしてきた。この人が嘘をつく人ではないということを、私は知っている。
「ああ、でも……よかった」
「え?」
「私は、今度こそ大切な人を守ることが、できた。あなたを助けることができた。きっとそのために、この時代に来たのかもしれません。もう、何も悔やむことは……ありま、せ……ゲホゲホッ」
「沖田さん! 嫌です! 死なないで!」
「詩乃、さ……」
「……あのさ」
咳き込む沖田さんの背中を私は必死に撫でる。そんな私に、黙ったままの晴斗が声をかけた。
そうだ、晴斗。晴斗なら!
「ねえ、晴斗! 晴斗はお医者さんでしょ!? お願い、沖田さんのことを助けて!」
「あ、うん。いや」
「お医者さんが神様じゃないことはわかってる! でも!」
「いや、だから」
「詩乃……さん。無茶を言っては……ゲホゲホッ」
「いや、だから俺の話を聞けよ!」
晴斗の大きな声に、私と沖田さんは口をつぐんだ。
呆れたように私たちを見下ろすと、晴斗はため息を吐いた。
「だから、そいつが沖田総司だとして本当に結核なら、治るよ」
「え?」
「咳は数日前からなんだろ?」
「うん」
「じゃあまだ症状が出始めたところだ。ちゃんと検査してみないとわからないけど、薬を飲むか場合によったら入院ってことになるかもしれねえけど、でも治る」
「嘘……」
「嘘じゃねえよ。そりゃまだ今の時代でも手遅れになったり発見が遅かったりして亡くなってしまう人もいるにはいる。でもな、結核は死の病じゃない。きちんと治るんだ」
私たちは顔を見合わせる。でも、私は不安になった。
「沖田さんは、戸籍がないから保険証とか何もないの。だから入院ってなったときに事情を聞かれたりしたら……」
「お前、うちが何なのか忘れたんじゃねえの?」
「あっ……」
「いいの、ですか?」
沖田さんは震える声で晴斗を見上げる。その目は不安とほんの少しの希望が滲んでいた。
晴斗はしゃがむと沖田さんと視線を合わせる。
「当たり前でしょ。俺は医者なんです。苦しんでいる人を治すのが俺の仕事ですから」
「でも、あなたにとって私は恋敵なので――」
「うわあああ!」
何か言いかけた沖田さんの晴斗が塞ぐ。
「何やってんの! 沖田さん苦しいじゃない!」
「うるさい! お前は黙ってろ!」
「何それ!」
私の額を手のひらで押しやると、晴斗は沖田さんに何か文句を言っている。上手く聞き取ることができなくて私は蚊帳の外だ。
「~だから!」
「ですが……」
「いいんだよ、俺はあいつが泣いている方が嫌だから」
「あなた、いい人ですね」
「……あんたに言われても嬉しくねえよ」
なんの話かわからないけれど、意外と二人の気が合いそうで嬉しい。
「まあ、とにかく。あんたは明日朝一で俺んちに来ること」
「私は?」
「お前は仕事だろ」
「でも」
有休を取れないかとか私が風邪を引いたことにすればとか色々考えた。考えたけれど実際はどれも難しそうで。
俯く私の頭を、晴斗は昔のように乱暴に撫でた。
「大丈夫だから、任せとけ」
「……うん」
「私なら大丈夫です。それに晴斗さんが治してくださるようですし」
「おう」
「沖田さん……」
沖田さんは私の頬に手を寄せた。
「大丈夫です……。私はあなたを一人にしません」
「……うん」
目を閉じてその手に、そして沖田さんに身体を委ねる。
きっと、大丈夫。
そう信じて。
あれから数ヶ月が経った。私は今も変わらずあの部屋に住んでいる。
――沖田さんと二人で。
「そろそろ私出るんで薬ちゃんと飲んでくださいよ」
「大丈夫ですって。ああ、それと今回で薬は終わりらしいです」
「そう、ですか。本当によかった」
「ええ。ご迷惑をおかけしました」
沖田さんは頭を深々と下げる。私はそんな沖田さんの隣に立つと、その身体を起こす。
あのあと、晴斗が沖田さんの診察や検査をしてくれて、やっぱり結核であることがわかった。でも、本当に初期だったみたいで通院だけでなんとかなるとのことだった。
「沖田さんは、今日は?」
「えっと、5時までです」
「それじゃあ、私も定時に上がるようにするのでどこかで待ち合わせをしましょうか」
それから、変わったことが一つ。
沖田さんがバイトを始めた。近くの古書店なのだけれど人がいなくて困っていると言っているのを晴斗が教えてくれたのだ。
おかげで少しではあるけれどお金を稼げるようになった。私に治療代を全て出さすことを沖田さんは渋っていたから、これは本当に助かった。
「ねえ、沖田さん」
「え?」
「さっきご迷惑だなんて言ったけど、本当にそんなことないですからね。私にとってもう沖田さんはいなくてはならない存在なんですから」
「詩乃さん」
「私、一人でも平気だって思ってたけどそんなことなかったみたい。沖田さんを失うんじゃないかって思ったら不安で、怖くて、泣きそうだった」
だから、と続けようとした私の口を沖田さんは手のひらで塞ぐ。そして、微笑みながら口を開いた。
「その続きは私に言わせてください。私も、あなたに出会うまでは自分の命なんてどうでもよかった。いつか紺藤さんや土方さんのために死のう、それが私の命の意味だとずっと思っていました。でも、今は違う。私はあなたとともに生きたい。あなたの隣で生きたい」
「っ……沖田、さん」
「こんなこと、紺藤さんや土方さんが知ったら怒られちゃいそうですね」
「……そうでしょうか?」
「え?」
沖田さんは不思議そうに聞き返す。
私は思う。沖田さんにとって紺藤さんや土方さんが大切な人であったように、きっと二人にとっても。
「大切な人が幸せになることを怒る人なんてきっといませんよ」
「そうでしょうか」
「きっとそうです」
「そうだと、いいなぁ」
そう言うと、沖田さんは私に向き直った。その目は真剣で、ジッと私を見つめていた。
「詩乃さん、私はこの時代の人間ではありません」
「はい」
「もしかしたらやってきたときと同じように突然消えてしまうこともあるかもしれない。それでも、私はあなたと一緒にいたい。妻になってほしいなんて言えません。でも、私にあなたの一番近くにいる権利を、ください」
「沖田さん……」
私は沖田さんの手をそっと握った。あたたかくて優しくて、今を生きている、私と何も変わらない手。
「私も沖田さんが好きです」
「詩乃さん……」
「いつか消えるかも知れない、と沖田さんは言ったけどそんなの私だって一緒です。生きていればいつかは死にます。それが今日かも知れない、明日かも知れない。10年20年後火も知れない。そんなのわからないじゃないですか」
「それは、そうですけど」
「ある日私が交通事故にあって沖田さんよりも先に死んじゃうことだってあるんです。ね、先のことなんて誰にもわかりません。だから、どちらかが死んだり消えたりするまで、私と一緒にいてください。その日までそばにいるのは沖田さん。あなたがいいです
沖田さんは頷きながら、私の手を引っ張った。そのまま抱き寄せられた私の身体は沖田さんの腕の中に包まれる。
すぐそばで心臓の音が聞こえる。ここで生きているという証明のように。
「詩乃さん、大好きです」
「私も、沖田さんが大好きです」
抱きしめられた身体から伝わってくる体温は、今まで感じたどのぬくもりよりもあたたかかった。
これから先、どんな未来が待っているかなんて今の私たちにはわからない。
でも、それでもいつかこの手を離さなければいけなくなるその日まで、そばにいよう。
神様でも天でもなく、お互いにそう、誓い合って。