パッと顔を上げる。
「反応は、琴の音だけでございましたか?」
「あぁ、琴だけだ。互いに、姿は見せていない。――あぁ、弟も私も、楽器の腕に遜色はない。自分で言うのもなんだが、腕は悪くないのだ。直接、顔をあわせたわけではないが、存在は感じてもらえただろう。明日以降、彼女たちに動きがあれば報せも来よう。今日のところは休んでくれ」
「……わかりました」
今日一日、呆けていた自覚はある。やはり、疲れもあったのだろう。
明日からは、気持ちを切り替え、作戦に挑みたいところだ。まずは休むべきだ。
「俺は――今まで、仲間を持ったことがない」
「え?」
思わず、聞き返していた。今度は、ぼんやりしていたわけではない。
ただ、意外だったのだ。一国の皇太子として育った人に、仲間がいない、など。
「弟以外、共に誰ぞと手を携えて、事を行った試しがない。指揮を執る立場でありながら、貴女にも無理をさせていたようだ。許せ」
大きく、翠玉は首を横に振った。
「私こそ、誰ぞの指示で動いた試しがございません。ずっとひとりで生きて参りましたし……ご迷惑をおかけしているのは、私の方でございます」
「なにを言う。貴女は、よくやってくれている。感謝の言葉の及ばぬほどだ」
感謝の言葉はありがたいが、実際、今の翠玉はただの人形と変わらない。
申し訳なさに、眉は八の字に寄った。
「そのお言葉に、励まされます」
「こちらも同じだ。貴女のひたむきさに、どれだけ励まされたか」
「もったいないお言葉です」
明啓は、ひと口茶を飲み、「そろそろ戻る」と言って腰を浮かせた。
翠玉も立ち上がり、膝を曲げて会釈をした。
「ゆっくり休んでくれ。まだ道は半ば。頼りにしているぞ、翠玉」
「罪と則を赦していただいたご恩は、決して忘れません。残りわずかな時間ですが、少しでもお役に立てれば幸いです」
わずかな――と口に出して、改めてその短さに心中ひそかに嘆息する。
双子の加冠まで、あと八日だ。
「ここを出たら、貴女は……その……いや、気の早い話だな」
客間の半ば辺りで、明啓が足を止めた。
なんとはなしに、名残惜しい。
「明啓様は、どうなさるのです?」
会話を終わらせたくない。
そこに単純な好奇心が加わって、翠玉は屈託なく尋ねた。
(あぁ、失敗した)
そして、尋ねた途端に後悔する。今後、二度と関わらぬ人の未来など、聞いても意味はない。
「……わからん。もう身代わりはお役ご免だ。ひとりの皇族として、存在を公にすることになるだろう。呪いさえなければ、存在を秘される必要はない。恐らく、俺と弟の兄弟順は逆にされるだろう。皇帝の兄ではなにかと面倒が起きるからな。皇帝の弟として王の位を賜り、どこぞに王府を構えて……」
邸を構え、政務を行い――偽者ではない、信頼に足る妻を迎え、子を育てる。
当たり前だ。この人は皇帝の兄弟で、貴人である。
継承者の少ない宋家にあっては、すぐにも妻を迎えるよう望まれるだろう。
「間もなくでございますね」
「そうだな。間もなくだ」
話をしているうちに、余計な問いを発した後悔は消えていた。
これまで自分自身の人生を持たなかった明啓が、今後はひとりの人間として生きられるのだ。祝福すべき、喜ばしい未来ではないか。
「お力になれることがあれば、お申しつけください」
「よろしく頼む。――ところで……余計な問いかもしれないが、貴女の体調が優れない理由が、呪詛、という可能性はないのか? 清巴が言うには、弟も、倒れる三日ほど前から、体調が悪いと言っていたそうだ」
案じ顔で、明啓がこちらを見つめている。
翠玉は、この問いに動揺をする必要はなかった。
「それはありません。私は、三家の末裔ですから」
「三家の末裔だからといって、呪詛にかかわらないわけではないだろう?」
「呪詛は効きません。三家の誰もが持つ力です」
はっきりと、翠玉は答えた。
三家の血は、呪詛を拒む。理由はわからないが、そういうものだ。
「――そうか。そうなんだな。ならばよかった」
客間の扉が開く。
一歩、明啓は後ろに下がった。
「おやすみなさいませ」
頭を下げたところで、明啓の沓が見えた、
「ゆっくり休んでくれ」
そっと、明啓の手が、翠玉の髪を撫でる。
演技であろうとなかろうと、明啓は優しく笑んでいるだろう。
その笑みの優しさに触れては、自分の思いがいっそう深くなってしまう。そんな気がして怖かった。
衣ずれの音は静かに遠ざかり、扉が閉まった。
どっと疲れが出る。今日は一日、自分の心だけが忙しかった。
「お疲れ様でございました、翠玉様!」
よほど、疲れを顔に出していたらしく、一穂に労われる始末だ。
(呆けてばかりいられない。しっかりしないと)
寝室に戻り、化粧を落とした頃、コンコン、と扉が鳴った。
「どうぞ。――あら、李花さん。お疲れ様です」
入ってきたのは李花だった。一穂が、李花と入れ違いに寝室から出ていく。
翡翠殿に入ってからは、なかなか話す時間が取れずにいた。そのせいか、ひどく久しぶりに会ったような気がする。
「少し、話がしたい。稲に報告はしてある。別に直接話す必要もないのだが……」
「李花さんと話せて嬉しいです。どうぞ」
翠玉は、寝室の小さな椅子を李花に勧めた。自分は牀の上に腰を下ろす。
「今日、白鴻殿の護符を見てきた。ついに――変化があったぞ。欠け具合から判断して、呪詛は槍峰苑にある」
「す、すごい! やりましたね! 李花さん!」
李花の護符は、いよいよ核心に迫ったのだ。
翠玉は胸の前でパチパチと拍手をしたが、李花の表情は渋い。
「喜ぶのはまだ早いぞ」
「だって、あとは槍峰苑で蟲を捜せばよいだけでしょう? 槍峰苑の天幕にも護符を貼っていますもの、場所もすぐに特定できます。壺か、箱かはわかりませんが、捜す人手も確保できているはずです」
「呪詛の解き方を知っているか?」
喜色満面だった翠玉の顔が、ふっと曇る。
「……いえ。李花さんは?」
「まったく知らない。護符が即座に斬れるほどの呪詛だぞ? こちらに来た時は、専門の部署があると聞いて安心していたが……祈護衛は頼りにならん」
まじない程度の呪符は、焼けば済む。
火で焼く、川に流す、海に流す。解除の仕方も多岐にわたる。規模の大きな呪詛ほど、正しい手順を踏まねばならないものだ。
まして、今回は人の命がかかっている。慎重になるべきだろう。
慎重を期すならば、呪詛の主を見つけ、本人に解かせる必要がある。
(たしかに、喜ぶには早い)
翠玉の表情も、李花と同じように渋くなった。
「なんにせよ、夫人がたの身分が壁になっている。呪詛の主が祈護衛のようにわかりやすい悪手でも打ってくれれば、捜査の口実もできるのだが……」
夫人たちの実家は、それぞれに権力を持っている。強引に事を進めれば、外城の政治に影響も出るだろう。
「尻尾を出してくれるのを待つしかないですね。……寵姫作戦は、続行ですが」
李花は「よろしく頼む」と翠玉に軽く頭を下げた。
「では、槍峰苑に戻る。――この件が片づいたら、また一緒に酒でも飲もう。母や、弟たちと妹も紹介したい」
「喜んで。私も、義弟を紹介したいです」
李花は「行ってくる」と笑顔で言って、寝室を出ていった。
江家と劉家が親交を深めるなど、これまでは考えられなかったことだ。
(そうか。もう、新しい日常がはじまっているのね)
こんな風に、明るく未来の話ができるのが、信じられない。
三家への差別は、名目上、すでに消えている。
ここを出て戻る世界は、後宮に入る以前とは、別の世界だ。
(あぁ、でも李花さんは、すぐに入宮を――待って。洪進様にもしものことがあれば、明啓様が皇帝になる。――李花さんは……明啓様の妻になるの?)
明啓と、李花。
ふたりが、どこぞの殿で楽し気に語らう姿が、頭に浮かんだ。
(嫌だ)
とっさに、翠玉はその想像を打ち消す。
(なにを考えているの! こんな時に!)
翠玉は、頭を抱えた。仲間の李花にまで、こんな醜い感情を持つ自分が疎ましい。
牀から腰を上げ、山積みになった竹簡を手に取る。
(今できることをしなくては。足手まといになどなりたくない!)
必死に竹簡の文章を目で追えば、胸の痛みが和らぐ。
そうして夜更けまで、翠玉は竹簡に没頭したのだった。