――あぁ、これが嫉妬か。
 と気づいたのが、その翌日の昼を過ぎた頃だった。
 庭を整えるため、多くの工人らが殿に出入りしている。翠玉は寝室にこもり、山ほど届いた竹簡に没頭していた。聞けば、一穂は書庫にあった竹簡の
ほとんどを運んできたそうだ。
 今日、翠玉に課された仕事は終了している。
占術を装い【本日一宵の刻、槍峰苑に貴人が現れる】と書いた手紙は、朝のうちに三葉が白鴻殿へと届けてくれた。今頃、周夫人の目にも入っているだろう。
 あとは、ひたすら竹簡を読んでいるが、気づけば、胸に抱えたモヤモヤとしたものを持て余していた。
 理由は、わかっている。
 今日、明啓が周夫人と会うから。――それだけだ。
 実に単純な理由で、これが嫉妬なのだと気づかざるを得なくなった。
 自分の殿だけを訪ねてほしい、などと、作戦の真っ最中に思う方がおかしい。
 おかしいとは思うが、翠玉ははっきりと思っている。労わりや優しさを、叶うならば視線さえ、自分だけに向けてほしい、と。
(なんだってこんな非常時に……)
 翠玉は、読みかけの竹簡を卓に置き、深いため息をついた。
 人の心とはままならぬもの。占師として生きてきて、客から学んだことだ。
 恋を語る時、頬を薔薇色に染める者もあれば、背を丸めてため息ばかりつく者もある。あるいは、遠いどこかを見る者も。
 まさか自分がそのような感情に振り回されるとは、予想外であった。
 頬は時に熱くなり、ため息も出れば、ぼんやり虚空を見てしまう。
(こんなはずじゃなかった)
 後宮に来たのは、三家の冤罪を晴らし、自由と穏やかな暮らしを手に入れるためだ。因縁ある宋家の明啓にも、あまりよい感情は持っていなかったように思う。
 ――人と人がそこにいれば、縁が生まれます。
 そう言ったのは他でもない自分だが、こんな縁など望んではいなかった。
 明啓は、皇族だ。翠玉が天錦城を離れれば、それきり二度と交わらぬ縁である。
 偶然が生んだ、気の迷い――だとしか思えない。
 暇を持て余すあまり、雀が愛らしく見えたのと同じだ。
 明啓を頼もしく思い、敬意を抱いた。それだけのはずだったのに。
(バカみたい)
 悩んだところで、無意味である。
 作戦に支障のないよう、気を引き締めるのがせいぜいだ。
 目下、すべきは竹簡を読むことだけ。翠玉は再び竹簡を手に取り、文字の海に埋もれていった。
 そして――侍女が燭を運んできて、部屋がほんのりと明るくなる。気づけば、日はすっかり傾いていた。
(あぁ、もうこんな時間になっていたのね)
 竹簡に没頭するあまり、時間を忘れていた。そろそろ着替えの時間だろうか。
 客間に向かえば、食堂の前で、一穂がてきぱきと指示を出している。
 時折、陛下――と一穂が言うのが耳に入った。
(もしかして――)
 鏡の前に立っていれば、自分の頬を薔薇色だ、と表現しただろう。心が華やぎ、目も輝いていたかもしれない。
「一穂さん、つかぬことをお聞きしますが……もしや、今日、陛下は……」
「お取込み中でしたので、報告が遅くなりました。陛下はこちらでお食事をなさりたいとのことです。遅くなる、と伝言もいただいていおります」
 嬉しい。よかった。翠玉の心は、にわかに浮き立った。はしゃいでいた、とも言えるだろう。
 あまり表情豊かではない一穂が、かすかに笑んでいる。
 人の笑みまで誘うほど、翠玉は喜びを態度に出していたようだ。
 カッと頬に血がのぼる。だが、すぐに自己嫌悪に襲われた。
(夫人がたは、入宮されてからずっと陛下とお会いできる日を待っておられるのに。私ときたら、なんと考えなしなの)
 後宮に入って、夕食を共にした翌日から今日まで、一日、一日が、どれほど長かっただろう。
(恋は、人を愚かにする)
 なんとありきたりな言葉だ。
 着替えの間も、翠玉はため息ばかりをついていた。
 数え切れぬほどため息をついた頃、明啓が翡翠殿に現れた。
「どうした? 翠玉?」
 挨拶のあと、明啓が翠玉の顔を覗き込む。
 あっさりと翠玉の顔は、かっと熱くなった。
「は、はい」
「この殿に入ってから、なかなか以前の調子が戻らないな。ぽんぽんと威勢よく、飾らぬ言葉で話してくれる貴女が好きなのだが。体調でも悪いのか?」
 胸が、ぎゅっと締めつけられる。
 いっそ、泣きだしたい気分だ。
(人の気も知らないで……)
 好きだ、などと軽々しく口にしないでもらいたい。
 恨み言でも言ってやりたいところだが、それもままならない。
「いえ、問題ありません」
「そうか。ならばよかった」
 目の前で、柔らかく明啓が笑む。
 その笑顔ひとつで、舞い上がる自分の心が疎ましい。
「――……」
「翠玉」
「あ……すみません、ぼんやりしていて……」
 赤くなったり、ため息をついたり、ぼんやりしたり。一日中、その繰り返しだ。
 明啓を前にしても、なにも変わらない。いや、いっそうひどくなった。
「食事にしよう。話は、のちほど」
「はい」
 今日も、卓いっぱいに皿が並んでいる。
 一穂が取り分けてくれた料理は、どれも美味しかった。
 だが、ついぼんやりとして、箸を止めてしまう。会話など弾むはずもない。相づちや返事もどこか曖昧になった。
 いつの間にやら食事は終わり、ふたりは客間に移動していた。
「なにかあったのか?」
 茶の豊かな香りを感じながら、翠玉は伏せていた目を上げた。
 明啓は、真摯に翠玉を案じている様子だ。人の耳は遠ざかっているはずなので、演技ではない。
「申し訳ありません」
「謝らずともよい」
「少し……疲れが出たのかもしれません」
 適当な言い訳を口にする。だが、口にしてみれば、本当にそんな気がしてきた。
「そうか。昨日はお喋りが過ぎたな。貴女といると、つい時間を忘れてしまう。いや、立ち去りがたかったのだ。ああして過ごす時間を終えるのが惜しかった。それで、つい今日も足を運んでいた」
 演技の時間は終わっているのに、明啓の調子は変わらない。
 まるで本当に、翠玉に好意を持っているかのように聞こえる。
 昨夜、離れるのが惜しい、と思った。
 今日、会えるのが嬉しい、と思った。
この感情が明啓と共有できていたのなら、どんなに嬉しいだろう。
 だからといって、間もなく縁の切れる人に恋情を抱くのも。実に空しい。
(もう、なにがなんだかわからない……)
 感情の起伏の激しさに、翠玉の頭は、すっかり混乱している。
「……お気づかい、ありがとうございます」
 当たり障りのないことを言うので精一杯だ。
 翠玉は、再びうつむいた。
 今日はずっと、明啓の胸の辺りばかり見ている気がする。
「報告だけはしておこう。周夫人は、今回も琴を鳴らして、俺は槍峰苑の天幕の辺りで笛をあわせてきた」
 ここで、やっと翠玉は正気に戻った。