強く決意を新たにはしたのだが――さっそく、難関が立ちはだかる。
 外城の門で馬車を降りれば、用意されていた輿での移動になった。
 花嫁用の輿なのか、敷かれた布は、見事に真っ赤。刺繍は金。目をみはるほど派手である。
 呆気にとられた。
 そして、怖気づいた。
(こんな派手な輿に乗るの? あぁ、やっぱり私には荷が重い!)
 入宮を装うのだから、当然といえば当然だ。だが、一生独り身を通すつもりでいた翠玉には、花嫁になる覚悟が欠けていた。
 内城に至るまでの長い道を思い出し、気が遠くなる。
 そこに一昼の鐘が聞こえてきた。
 入宮は二昼まで――という潘氏の妻の声が蘇る。
(いけない。急がないと!)
 急いでいるのは、翠玉だけではない。輿を担ぐ宦官たちも、鐘の音を聞いた途端に慌てだしている。
 気恥ずかしい、などと言っている場合ではなくなった。
慌てて乗った輿は、ずいぶんな勢いで走り出す。
 生きた心地のしないまま、三つの門を通り、翡翠殿の前に到着し――
 輿を降りた途端に、二昼の鐘が鳴った。
(よかった。なんとか間にあった……)
 初手から失敗せずに済んだ。輿の周りのあちこちから、安堵の吐息がもれる。
 派手な輿は去っていき、残ったのは李花と、李花が着ているのと同じ、空色の袍を着た数人の侍女だけになった。潘氏の邸で聞いた、信用できる者、というのは彼女たちのことなのだろう。
 北の房の前で出迎えたのは、見慣れた深緑色の袍の清巴であった。
「お待ちしておりました、潘夫人。婚儀は先ではございますが、慣例により、夫人と呼ばせていただきます。私は、中常侍の清巴と申します。――お帰りなさいませ」
 どうぞ、と清巴に勧められるまま、北の房の中に入る。
 房の中央は、長椅子や卓のある、居間を兼ねた客間だ。奥の中庭に面している。
 これまで占師を装って訪ねた、夫人たちの房と造りは同じだ。雰囲気が違っているのは、置かれた調度品の差だろう。
 徐夫人の客間は、華やかだった。花の意匠の衝立や、紅や朱色の窓布などが印象に残っている。
 姜夫人の客間は、入るなり縛られたので記憶が薄い。ただ、簡素でいて重厚な調度品が置いてあったように思う。長椅子には、淡い紫の布が敷かれていた。
 周夫人の客間は入らずじまいになったが、白を基調とした、品のある雰囲気だったに違いない。
 この、翡翠殿の北の房にも個性がある。波を思わせる、流麗な線。波紋が重なった意匠の卓などは、殿の涼やかな名に相応しい。
「この殿では、秘密が保たれているのですね?」
「はい。信用していただいて――いえ、斉照殿の者こそそうあるべきであったのですが――離宮から、長らく苦楽を共にした者たちゆえ、油断があったように思います。まことに、申し訳ございませんでした」
「いえ。どうか謝らないでください」
 祈護衛に情報を漏らした者にも、思うところはあったのだろう。
 物語めいた三家の呪いに怯えている最中に、他ならぬ三家の者が斉照殿に招かれたのだ。不安の大きさは、多少なりと想像できる。
 だが、彼らなりの忠誠心が、明啓の道を阻んだのは紛れもない事実だ。
 なんにせよ、よそ者の翠玉に言うべき言葉はない。短い返事をするに留めた。
「――しかし、見違えましたな。お美しい」
 清巴は、翠玉を見て目を細めた。
 市井の貧乏占師が、よくぞ化けた、とでも言いたいのだろうか。
「潘家のお仕度が見事だったのです。私は、なにも」
「私は、兄君と弟君がお生まれになったその日より、お側近くにお仕えして参りました。いずれも等しく大切なお方でございます。なんとしてもお助けしたい。なにとぞ、よろしくお願いいたします」
 深々と、清巴は頭を下げた。
 はじめて会った時、彼は三家の末裔に角があるかと警戒していた。あれからまだ数日。そんな人が、ずいぶんと変わったものである。
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
 翠玉も、頭を下げた。
「足の調子はいかがですか?」
「おかげさまで、もう歩けます。手当をしていただいたお陰です」
 下馬(げば)()で働けるほどではないが、姫君を装うのに支障はない。なにせ立ちっぱなしの店番もでもないし、重い荷運びも要らないのだ。
「それはなによりです」
「あぁ……でも、万緑殿にうかがうのは、難しいかと」
 この足で後宮内を駆け比べするのは、さすがに厳しい。
 清巴も、あの駆け比べを思い出しのたか、眉を八の字にしていた。
「それはもちろん、十日の間は避けられるよう手配いたします。明啓様から、決して無理をさせぬように、と言い使っておりますので。明啓様は、貴女様をとても大切に思われているようです……昨夜は、驚きましたが」
 清巴が言っているのは、昨夜、明啓が翠玉を抱えて斉照殿に戻った件だろう。
「私もです。驚きました」
 翠玉は、波の形が彫られた長椅子に腰を下ろした。
 形だけとはいえ、今は翠玉がこの殿の主、ということになっている。清巴に席を勧めたが、やんわりと断られた。
「明啓様には、ご幼少の砌より、なににつけてもどこか一歩引いたところがございました。特殊なお生まれと、将来への諦観が、そうさせたのでしょう。弟君への遠慮もおありだったように思います。よもや、これほど呪詛に対し、果敢に立ち向かわれようとは。――貴女と出会って、陛下は変わられた」
 買い被りだ。翠玉は苦笑しつつ袖を小さく横に振った。
「弟君を思えばこそ、果敢にもなられたのでしょう。異能の者を求めてわざわざ下馬路の長屋まで訪ねていらしたほどです」
 変化というならば、角が生えているかもしれない三家の末裔を訪ねる、と決めた時点で起きている。翠玉の影響ではないだろう。
 清巴は、それ以上、自身の意見を通そうとはしなかった。
「言伝をお預かりしております。今日は、陛下はこちらでお食事をご一緒になさりたいとのことです」
 入宮したその日だけ、皇帝は夫人たちと夕食を共にしている。
 倒れる前の洪進と同じように、明啓も振る舞うようだ。足の怪我を踏まえて、殿を訪ねる形を取るのだろう。
 清巴は、恭しく拱手の礼をして帰っていった。
 残った面々は、翡翠の袍の翠玉と、李花を含む空色の袍の侍女たちだけ。
 これから、共に戦う面々だ。
「潘翠玉です。十日だけの短い期間ですが、よろしくお願いいたします」
 翠玉は立ち上がり、深々と侍女たちに向かって頭を下げた。
 同時に頭を下げた侍女のひとりが、前に進み出る。
「申し遅れました。我々は、代々宋家に直接お仕えする者。情報の漏洩などの心配はご無用です。主な業務は諜報でございます」
「諜報……ですか」
 斉照殿の古参とは、また別の種類の集団らしい。
「はい。外城、内城、至るところに散っております。今後はこちらの翡翠殿を拠点として使わせていただきますので、人の出入りは多いかと存じますが、ご理解くださいませ。呪詛は門外漢でございますが、お助けできることがあれば、なんなりと」
 空色の袍の侍女たちは、改めて頭を下げた。
 名を尋ねると、(いち)()()()(さん)()……と五人が名乗った。
 なんとも力の入っていない偽名である。
 任務ごとに名は変わるそうだが、諜報に携わる者を、隠語で『稲』と呼ぶのに由来しているという。
「この名は今回限りなのですね。……がんばって覚えます」
「覚えていただかなくとも構いません。あえてそのようにしております。次にどこかで会ってもわからない。それが理想の稲でございますから」
 わかるような、わからぬような理屈を一穂が言った。
 ここで李花が、サッと手を挙げた。
「私は、この翡翠殿の四方に呪符を貼ってくる。ひとり、手を貸してもらいたい。庭や殿に貼った護符は祈護衛に焼かれたが、どこかに万が一護符が残っていないか、調べてもらいたいのだ」
 妙案だ。もしも護符が残っていれば、変化を示している可能性もある。
 私が、と(よん)()が手を挙げ、李花について出ていった。他の稲たちも、一穂を除いて出ていく。
 そこで――はた、と気づいた。
(することがない)
 ひとまず、長椅子に座って中庭を眺める。急ごしらえの入宮で、手入れが間にあわなかったらしく、灌木がわずかにあるばかりの殺風景さであった。
 次に、運ばれてきた茶を飲んだ。一穂にも勧めたのだが、侍女に茶を勧める夫人はいない、とのことで諦めた。
 その茶も飲み終えると、いよいよ手持ち無沙汰になる。