「え――へ、陛下!?」
 明啓様、と翠玉は発声しなかった。
 これほど動揺していながら、実に冷静な判断だ、と自画自賛する。
 だが、それ以外は混乱しっぱなしだ。今、翠玉は皇帝の兄に、抱えられている。
「怪我は、足だけか?」
「は、はい」
「急ぐ。つかまれ」
 もう、なにがなにやらわけがわからない。
 つかまるのが不敬やら、つかまらぬのが不敬やら。だが、きっと逆らわないのが一番無難だろう。
「し、し……失礼します!」
 翠玉は、ぎゅっと明啓の首に手を回し、しがみついた。
 途端に歩みの速度が上がり、頭はいよいよ真っ白になる。
 緑の長棒を持った衛兵が、こちらに気づいてぎょっとしていた。当然だろう。翠玉とてその場所に立っていれば、ひどく驚いたに決まっている。
「薬師を呼んでくれ。至急だ」
「あ、いえ――大丈夫です。ただ足を挫いただけで……」
「なにを言う。――いいから、呼んでくれ」
 衛兵は、扉を開けたのち、急ぎ足で出ていった。
 そのまま、明啓は央堂の奥に向かっていく。
 翠玉が運ばれたのは、皇帝の寝室だ。
 混乱している間に、翠玉の身体は牀の上にそっと下ろされていた。
「お、恐れ多い!」
「足の怪我を侮ってはならん」
「しかし――」
「貴女は、私を主と呼んだ。仕える者を守るのが主の務めだろう」
 なんと真摯な言葉か。
 驚きのあまり、明啓の瞳をまっすぐに見つめてしまった。
 まだ目は、涙で濡れたままだというのに。
「陛下……」
 目があった途端、明啓の涼やかな目元には、明らかな狼狽が現れた。
「な、泣いているのか? 足が痛むのだな?」
(あぁ、もう! なんと言ったらいいの!)
 占い、呪詛、神話。知識を人に教えるのは得意だ。そうして子欽も育ててきた。
 だが、自分の気持ちを伝えるのは不得手である。
 足の痛みに泣いたのではない。失敗続きの情けなさで涙が出た。そこに、李花や明啓の優しさへの感激が重なって、いっそう泣けてきたのだ。
 言葉に迷っているうちに、薬師が駆けつけた。
「手当は丁重に頼む。大切な人だ」
 明啓がそんなことを言うので、翠玉は消えてなくなりたいような気持になった。
 薬師は、宮仕えらしい冷静さで「かしこまりました」と言ったあと、翠玉の足首に軟膏を塗り、ぐるぐると包帯で巻いていく。
 報告が届き、明啓は央堂に移動した。扉は閉められているが、話し声ははっきりと聞こえる。
「消火は完了いたしました。延焼はなく、怪我人も出ておりません。祈護衛の衛官は全員拘束しておりますが、いかがいたしましょう?」
「あちらにも言い分はあるのだろう。話を聞いた上で、六月九日まで謹慎処分とする。宿舎から一歩たりとも出ぬよう伝えよ」
 衛兵は、短く返事をして、央堂から出ていく。
(六月九日といえば、加冠の日の翌日だ)
 明啓は、祈護衛を呪詛対策から外したのだ。
 手当を終えた薬師が下がり、明啓が寝室に戻ってきた。他に人はいない。翠玉と李花の三人だけになる。
「申し訳ありませんでした」
 翠玉は、忸怩たる思いで明啓に頭を下げる。
「謝罪は要らない」
「いえ。作戦は失敗です。護符は焼かれ、呪詛の手がかりを失いました」
 作戦の発案も、実行も、翠玉が主導していた。
 人の命がかかった作戦に失敗したのだから、謝罪は当然だ。だからといってなにが変わるわけでもないが。
「先ほどの件、詳しく教えてくれ。祈護衛は、護符を呪符と呼び、三家の仕業と断定した。――それだけか?」
「黒装束のふたりの娘を捜せ、という声が聞こえました。我らの存在を把握した上で捜していたようです」
「貴女がたの存在は、祈護衛の目から隠していたはずだ。なぜ、彼らはそこまで知っていたのか……」
 翠玉と李花は、互いの顔を見て、一緒に首を横に振った。
「「わかりかねます」」
 ここは後宮だ。秘密はあってないようなものである。
「……斉照殿から漏れたのだろうな」
 明啓の推測に、簡単な同意はできなかった。
 桜色の袍の女官と、深緑色の袍の宦官。そして緑の柄の長棒を持った衛兵。彼らから漏れていたとすれば、腹心の裏切りだ。明啓にとっても痛手だろう。
「私は、蚕糸彩占を、徐夫人と姜夫人の前で用いております。三家をよく知る者が、推測した可能性も。護符とて、人の目に入る場所に貼ってありますし……」
「直接聞くとしよう」
「「え!?」」
 驚いて、李花と一緒に大きな声を出してしまった。
「内城で焚火まではじめたのだぞ? 相当な覚悟だ。問えばさぞ大きな声で吐き出してくれるだろう」
 ごく気軽に、明啓は言った。
「……会話が成立するとも思えません」
「貴女は作戦に失敗したと言うが、失敗は俺も同じだ。過ちは改めるまで。弟の身代わりを務める間は、何事も穏便にと思っていたが、それが失敗の原因だった」
 すぐに明啓は衛兵を呼び「(りょ)衛長を、ここに連れてきてくれ」と頼んだ。
 そして――
 祈護衛の衛長が央堂で明啓と対面したのは、四半刻ののちだった。