暮らしぶりは質素だった。旅行は年に一度、一番近い茨城の海に日帰りで出かけるだけ。父親のボーナスが出るとデパートに行って私と弟の服を1着ずつ買い、最上階のレストランでミートソースを食べ、屋上遊園地でメリーゴーランドに乗る。唯一の幸せな記憶はこのときだ。白い襟に二重のフリルが付いた水色のワンピースを買ってもらい、誇らしい気持ちで小学校の入学式に出たのを今でも覚えている。でも靴は近所に住む3つ上の佳苗のおさがりだった。ランドセルはいとこの使い古しだった。それでも私の心は弾んでいた。

ここからは暗い記憶しかない。父は出稼ぎに行くといって家を出たきり、帰ってこなかった。ひと冬工場で勤務したら帰ってくるはずだったのに春を過ぎても夏を過ぎても帰ってくることはなかった。つぎの冬を迎えるころには私と母と弟の3人の暮らしが当たり前になった。デパートに出掛けることもなくなった。

古い平屋は大雨が降れば天井からも雨が降ってきた。学校ではお古のランドセルを笑われた。算数セットも筆箱もすべて佳苗のおさがりものだった。廊下に出ると、教室から「なんかさ、汚い」「臭いよね」という声が聞こえた。先生がいけませんと陰口を叩く女子を叱る声も聞こえた。水道代とガス代を節約するため家では入浴は一日おきだった。よその家では毎日風呂に入ることを知った私は汚いと言われても否定することができなかった。

自分がマイノリティにいることを知ると、授業での発言も休み時間におしゃべりを楽しむこともできなかった。ぽつんと席に座り机の上の消しゴムを立てたり倒したりしていた。