物語は二人の中学生が、卒業式の日の朝に遺体で見つかるところから始まる。
一人は校舎の屋上で刺殺されていた、クラスの人気者で美少女の香澄(かすみ)
もう一人は校庭に植えられた桜の木の下で首を吊っていた、地味で目立たない生徒の陽太(ようた)
状況証拠から陽太が香澄を殺したことに間違いはないが、香澄が陽太に抵抗した様子もない。
特に接点のなかった二人がどうして死んだのか、警察、第一発見者、クラスメイト、教師、家族らの供述を経て、最後に死んだ二人の回想で真実を解き明かすミステリーだ。

「作中で、香澄は義父から虐待を受けますよね。そのときの独白を覚えていますか? “この人はいつも、私から私を奪うように、身勝手な愛情で私を満たす”っていう」

彼方さんの口からすらすらと出てきた一文に、私は二重の意味で驚かされた。
ひとつは当然、彼が一言一句間違わずに、私の小説の中の一文を空で言えたこと。
もうひとつはその一文が、私にとっても印象の強いものだったということだ。
膨大に書いてきた小説の中でも、そっくりそのまま覚えている文章は作者でも数少ない。
香澄の独白は、その数少ない内のひとつだった。
なぜならそれは、私の積もりに積もった負の感情から生まれた、私の分身のような言葉だったからだ。

「あの表現は、当時の俺にものすごい感銘を与えてくれました。奪うと満たすって、まるで真逆の取り合わせの言葉なのに、どうしてこんなにも香澄の心情としっくりくるんだろうって」

そう言った彼方さんが、今にも壊れそうなほど切ない表情をしたのを見て、私は一瞬息が止まったような気がした。
体内で血液がどくどくと巡る感覚がして、自分が強く動揺しているのを悟る。
しかし次の瞬間には、まるで今の表情が幻だったかのように、彼はふわっと笑ってみせた。

「日下部先生は、誰もが一度は経験したことのあるような、けれども上手く言い表せない感情を、いとも容易く言葉で描ける。それって十分すごいことじゃないですか」

それは称賛以外の感情を含まない素直な言葉のように聞こえ、私は何度も瞬きをした。
自分の書く文章を、そんなふうに考えたことは一度もない。
けれど、そう言えばファンレター中で同じことを言ってくれた方々がいたなと思い出す。
ああ、私は自分の自尊心の低さで、彼らの声までも軽視してしまっていたのか。
そのことに気がついた私は、そんな自分をとてつもなく恥ずかしく思った。

「とにかく、日下部先生はすごい方なんですから。ご自分のことを、そんなに卑下しないでください」

「ありがとう、ございます」

「お礼を言いたいのはこちらの方ですよ。いつも素敵な物語をありがとうございます」

ぺこりと頭を下げた彼方さんの黒髪がさらさらと揺れる。
彼の心根と同じくらい真っ直ぐなその髪は、成人男性のものとは思えないくらい、とても無垢で美しく見えた。

「俺は今日のこの日のことを、一生忘れたくないと思います」

彼方さんの優しい声が耳に残って離れず、私はくすぐったくなって笑ってしまった。
本当に濁ったところのない清い人だなと、そんな彼をどこか羨ましく思う。
悪い記憶にばかりに囚われる私も、いつかまた落ち込むことがあったら、今日のことを思い出したい。
珍しく前向きなことを考えて、私は残っていたコーヒーを飲み干した。

「日が暮れそうですし、そろそろ帰られますか?」

気がつけば、喫茶店には2時間ほど滞在してしまっていた。
時計を確認して、気を遣ってくれた彼方さんが席を立とうとする。
そんな彼の様子に謎の焦りを覚えた私は、咄嗟に「あのっ」と声をかけた。

「よかったら、またお話を聞かせてもらえませんか?」