耳に触れられていた手が再び頭へと移動し、まるで小動物をかわいがるかのように撫でられる。
持て余している愛情を含ませるようにして慈しまれると、とてつもない後ろめたさが心の底をどんよりと覆うようだった。

「好きだよ、聖ちゃん。君を想う気持ちでは誰にも負けたくないくらい、君が好きなんだ」

とろけそうなほどの甘い言葉を囁かれているはずなのに、体の真ん中に冷たい木枯らしが吹き抜けたように悲しくなってしまう。
こういうときは「私も千里くんが好きだよ」と気兼ねなく応えればいいのだろう。
そんな簡単なことが、しかし私にはどうしてもできなかった。
千里くんにも気づかれているとおり、私は自分の心にブレーキをかけて、彼の好意を受け取りすぎないようにしているのだ。
好きになりすぎて、彼を失ったときに傷ついてしまうことが怖いから。
そんな自分がとてつもなくズルい人間だということは自覚している。
けれど二十五年間もかけて培われた不甲斐ない性格は、一朝一夕で変えられるものではなかった。
私の心情をすべて察したらしい千里くんが、「困らせてごめん」と呟く。
その言葉に首を振って、彼の着ているルームウェアの袖をぎゅっと握った。
千里くんは何も悪くない。悪いのは、臆病で弱い私の方だ。

「落ち着いたらもっと広いところに引っ越そうか。いつまでも聖ちゃんを書斎で寝かすわけにはいかないし」

重苦しくなった空気を変えるためか、千里くんがカラッとした声でそんな提案をしてくれた。
「せめて2LDKはほしいよね」とか「鉢植えも増えてきたし、ベランダももっと余裕がほしいな」と、無邪気に話す顔をおそるおそる見上げる。
帰ることはないのに家賃を払い続けるのはもったいないと、私が住んでいたマンションはすでに引き払っており、少ない所持品はトランクルームに入れてあった。
そして今の居候状態ではなく、本格的な同棲を開始するための計画を、千里くんは少し前から立て始めてくれている。
彼が私と未来を歩もうと考えてくれるのは嬉しい。
それでもやはり、手放しで喜ぶことはできなかった。
私のそばにいたことを、いつか彼に後悔させてしまうような気がして。



「で、どうでしたか? 新作は」

東雲さんとの打ち合わせは、次の週にも同じ喫茶店で行われた。
新作の書き下ろし作品は再び恋愛ものを予定していて、前回よりもさらに恋愛色強めでという注文を承っている。
そこで私が考えたのは、主人公の女性がタイプの違う二人の男性との関係に揺れる恋の話だった。
以前は恋愛小説の構想にかなり苦労した私だけれど、今回はむしろ筆が乗ってすらすらと執筆ができていた。
それは自分自身が恋愛というものを知ったおかげなのだろう。
人が恋に落ちる瞬間、そのときの感情を色鮮やかに描くことができたと自負していた。
そのため、今回はかなりの自信で冒頭から中盤までを書き切って提出したのだが。

「男性二人のキャラクターは魅力的に書かれていますし、彼らに惹かれていく主人公の心情にも共感できます」

そこまで言うと、東雲さんは曲げた人差し指で眼鏡のブリッジに触れた。
ああ、これはボツを言い渡す前の仕草だ。
長年の付き合いから彼のそんな癖まで知っていた私は、まだ何も言われていないうちから肩を落とした。

「ですが恋に落ちたあとの展開が稚拙ですね。ストーリーに意外性がないですし、終始生温く浮ついていて、本当に日下部聖が書いたものかと疑わしいくらいでした」

予想したとおりの痛烈なダメ出しを受け、私はがっくりと項垂れた。
言われてみれば、たしかにそうだ。
今回の話は恋愛小説として形にはなっているが、ありきたりで平凡なものだったかもしれない。
自分の色を存分に出せたかと考えても微妙なところだろう。
相変わらずの鋭い指摘によって、いつの間にか独りよがりになっていたことに気づかされ、目の前が暗くなっていく。
今回はなまじ自信があっただけに、落胆もひとしおだ。