球技大会も終わり、つかの間の平穏が訪れた。岬は、期末にこそ彩乃を抜くと決めて猛勉強をしていた。登下校を彩乃と一緒にしているから、追い込みは主に屋敷に帰って執事の仕事を終えてからだ。彩乃の執事の仕事は実にシンプルだ。帰宅後に彩乃宛の取引会社の子息からの手紙の仕分け(社長の令嬢らしくラインを軽々しく交換することはない)、それからリビングでの母親とのお茶の用意、夕食後は読書を好む彩乃の為に本の差し入れをしたりする。彩乃が眠ってからが、岬の勉強時間だった。

夜中に勉強をするようになってから一週間ほど過ぎたころだろうか。岬の部屋のドアをノックする音がして、こんな夜中に誰が、と思ったら、彩乃の母親だった。

「ごめんなさいね、お勉強中に……」

彼女はそう言って岬の部屋に入って来た。

「奥様、なにかありましたか?」

(不意の用向きにも完璧に応える、俺って素晴らしい。出来た人間じゃないと出来ねーぞ)

自分の応対に満足しながら、岬は彩乃の母親に椅子を勧めた。

普段だったら彩乃が居ない時にこの人が岬に用事などない筈だった。彼女は、彩乃の事なんだけど、と前置きして、こう言った。

「最近、元気がないように思うのよ。学校でいじめられたりしてるんじゃないかと心配になって……」

あの子、世間知らずでしょう。母親はそう言った。

彩乃がいじめられっ子になっていたら、どれほど気が清々しただろうか。しかし現実として彩乃は周りの生徒に受け入れられ、人気者になっている。それを岬が苦々しく思っているとは、この母親も知らない。

「学校では一年の生徒の人気者ですし、上級生からも好意的に受け止められているようです。元気がないようには……」

見受けられなかったですよ。

そう断言しようとして、ここ最近の彩乃の行動の変化を思いついた。そう言えばあれだけ遠慮なく岬の教室に来ていたのも、何処か岬の機嫌を窺うように扉のところで待つようになっていた。昔はそれが当たり前過ぎて、その頃に戻ったようで気分が良くて気が付かなかったが、変わったといえば変わっただろう。

「なにか、思い当たることがあるの?」

母親に聞かれて、その理由までは思い至らなかった。

「きっと、新しい環境で緊張してたのが、ちょっと気が抜けたんでしょう。ご友人に恵まれて過ごしていますから、心配されることはないと思います」

岬がそう言うと、母親も、そう……、と言って岬の部屋を後にした。岬はそのドアを見つめて、そして机に向き直った。

彩乃の元気がないのはざまあみろという気分だが、それが自分の所為でないというのはなんとも悔しい思いだ。彩乃をコテンパンにするのは、岬でなければ意味がない。彩乃の元気がない理由はなんだろう、と岬は少し考えた。