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あの日、内浜のお日様のような笑顔を見てから、私のハノンとツェルニーの旋律は色めき始めた。
嫌で嫌でしょうがなかったその単調な練習曲がワルツに聞こえ、
右手を鳴らして左手で和音を弾くだけで、心はスカッタートのように跳ね、ペダルを踏む足もステップを踏んでいるようだった。
特にクレメンティのソナチネは彼を思い浮かべて弾くようになった。
そう、恋に落ちたあの日に彼の前で演奏した曲だ。
今年の小学校五年生の夏のピアノコンクールでの演奏は、
臨海学校で瀬戸内海にひと際大きな音を立てる、体格のいい彼の水飛沫を音に乗せた。だからか譜面ではメゾピアノのところで思いの外強く鍵盤を叩いてしまい、終わった後すぐママに怒られた。
私の着替えを抱えたママと更衣室に向かう途中の通路で、
そこで事件は起きた。
びっくりした。
ピアノコンクールを見に来ていた内浜と出くわしてしまったのだ。
「あ……」
思わず声が漏れた彼は、町内野球クラブの練習着を詰めたリュックを背中に背負い、いつもと同じポリエステル素材のTシャツを着ているけれど、とにかく汗だくの顔をしていた。北会館の冷房で風邪を引かないか心配になるほどだった。
それ以上に驚いたのは、彼が町内野球クラブの、違う学校の小学生と集団で観に来ていたことだった。男子が三人とあと、ショートカットの女子が一人、後ろに居た。
今までも二回観にきてくれたけれど、出くわしたのは三回目にして初めてだった。
彼は確かに内浜だった。だけれど、知らない人のように見えた。