狐につままれるようだとは、まさにこのことを言うのだろう。
 突然現れた美麗な男性。彼は、ここの山神だと名乗った。
 そして、

「おいで。ここはとても寒くて身体を冷やしたら大変だ。本当の屋敷へ案内しよう」

 と、彼は絹子についてくるように言った。

 彼が山神様だなんて、絹子もすぐに信じたわけではない。どこかの金持ちの放蕩息子が、生贄になった哀れな娘のうわさを聞きつけて戯れにちょっかいをかけに来たのかもしれない。
 だとすると、ついていけば何をされるかわかったものではない。

 彼について行くのは危険だ。そう、頭ではわかっていた。
 だけど、なぜだろう。
 加々見と名乗るその男の包み込むような優しい笑顔に、誘いを断れなかった。

 その笑顔をいつまでも見ていたいと思ってしまった。
 それに、なんだか抗えないものを感じたのも確かだ。
 その人の域を超えた美しさをもつ彼に、もしかしたら本当に人ではないのかもしれないと感じたのかもしれない。

 こくん、と一つうなずいて返事をすると、加々見は嬉しそうに目を細める。

 そのとき絹子は初めて気づいた。
 加々見の瞳は金色をしている。
 ついじっと見惚れてしまった絹子に、

「ん? 何かな?」

 加々見が不思議そうにするので、絹子は恥ずかしくなってすぐに目をそらし、慌てて首を横に振った。男の人に、いや、だれかに見惚れるなんて初めてのことだった。

「じゃあ、いこうか」

 満足げに加々見は笑うと、絹子の手をとって歩き出す。
 彼に導かれるままにあばら屋を出て、山道をさらに登って行った。

 不思議なことに獣道程度の道しかないはずなのに、今はなぜかとても歩きやすい。
 まるで木々が自ら避けて道を作ってくれているようだと気づいたころに、加々見は足を止めた。

 そこは大きな崖の前だった。
 荒々しく赤土がむき出しになった崖。
 加々見は絹子の手を引いたまま再び歩き始める。崖がすぐ目前に迫っても足を緩めるそぶりがない。

(ぶつかる……!)

 怖さのあまり、絹子はぎゅっと目を瞑った。手を引かれるままに歩いていくが、崖にぶつかる衝撃がいつまで経っても訪れない。

(……あれ?)

 おかしい。もうとっくに崖にぶつかっていないとおかしい距離を歩いたはずなのに。そう思っていたところに、加々見の声が聞こえた。

「さあ、ついた。ここが今日から君が住む屋敷だよ」

「……え」

 おそるおそる目を開ける。
 そして、目の前に広がる光景に、絹子はわが目を疑った。

 目の前あったのは見事な日本庭園と大きなお池。その池に橋が架かり、さらにその奥に大きく立派な屋敷があった。
 さらに橋には両側にずらっと和服姿の女性たちと黒い洋装姿の男性たちが並んで頭を下げていた。

 彼らは声を揃えて主を迎えた。

「おかえりなさいませ、旦那様。お待ちしておりました、奥様」