その日の夜遅く。
 家事を済ませた絹子が普段寝起きしている使用人部屋へ戻ろうとしたときのことだった。

 応接室のわずかに開いたドアの隙間から、蝶子の荒げた声が聞こえてくる。
 その声の調子から何やら機嫌悪そうに怒っている様子がうかがえた。
 どうやら話している相手は父の茂のようだ。

 こういうときに顔を合わせたりしたら、八つ当たりになにをされるかわからない。
 絹子はそっとドアの前を通り過ぎようとした。

 しかしそのとき、二人の会話の中に「絹子」という単語が混じっていることに気づいて、絹子は足を止めた。
 何を話しているのだろう。どうしても気になってしまって、そっと空いているドアの隙間から立ち聞きをしてしまう。

「だから、うちにはもう本当に金がないんだ! これ以上、どこの銀行も貸してやくれない」

「だからって、生活の質を落とせっていうんですの!? 美知華は今が一番大事なときなんですのよ!? ここで上流の方々とつながりをつくって、いい家の次男あたりをうちに婿養子として引き込めれば、うちも安泰じゃないですの!」

「そうは言ってもだな。そう上手くいくかどうか……」

 三笠家にもうあまり金がないのは絹子も感じていた。使用人たちの給金はぎりぎりまで削られているらしく、影で愚痴っているのをよく耳にする。専属雇用していた庭師もやめさせたばかりだ。

 それでも、蝶子たちの浪費は止まらなかった。

「そもそもは、あなたの事業が上手くいってないのが原因じゃないの!」

「それはだなっ!」

「……そうだわ」

 ふいに蝶子は、声のトーンを落とした。何か秘め事を話すかのような口調に変わったのだ。その話しぶりは楽しそうでもあった。

「だったら、あれをもう一度やればいいじゃないですの。何代か前にやったのでしょう? 三笠商会は故郷の山神様に生贄(いけにえ)をささげて、加護を得たおかげで事業もトントン拍子に上手くいって財を築いたと、前に茂さんも言ってたじゃないですか」

「そんなことを言ったって……」

「あら、うちには打ってつけの娘がいるではないですか? 厄介払いもできて丁度いいわ。あの陰鬱な顔を見るだけでも嫌な気分になりますもの」

 そこまで聞いたところで絹子は怖くなってしまって、慌てて応接室を後にした。
 他の使用人と一緒に寝起きしている使用人部屋の隅に薄い布団を敷いて布団に潜り込んだあとも、蝶子の言っていた『生贄(いけにえ)』という言葉が何度も脳裏によみがえって、怖くて眠れなかった。