白亜の壁に黒い屋根を持つ二階建ての洋風建築『鹿鳴館』。
 明治政府の威信をかけて多額の費用を投入して作られた、(ぜい)を凝らしたこの建物は近代化の象徴であり、また明治外交の最前線でもあった。

 外国の大使や使節団がくるたびに開かれる舞踏会では、貴族や上流階級の子女もあつめられ、華やかなダンスが繰り広げられていた。
 今日も鹿鳴館のダンスフロアには着飾ったドレス姿の女性たちと流行の燕尾服に身を包んだ男性たちが集っている。

 しかし、今夜はいつもと少し雰囲気を異にしていた。
 主に若い女性たちがそわそわと落ち着かない様子なのだ。

 三笠家の跡取りとしてこの場に参加している美知華も、ほかの女性たちと同じように落ち着かない気持ちでいた。

「お母さま。本当にいらっしゃるのかしら」

 そばにいる蝶子にすがるような声をかける。蝶子は扇子で口もとを隠しながら、ひそひそと美知華に耳打ちをした。

「しっかりしなさい。一番上等なドレスを着てきたじゃないの。今日のあなたはここに集まる誰よりも美しいわ」

「そ、そうよね……うん。そうに違いないわ」

 美知華は母の言葉を噛みしめる。
 今日の舞踏会には、日ごろめったに公式の場に姿を現すことのない青年実業家が現れるという噂がたっていた。彼のその美しい容姿と佇まいにより、一目見たものは老弱男女関わらず誰もが魅了されるという。そのうえ、深い教養と経験で海外との貿易に次々と成功し、まだ年若いというのに莫大な富を築いているのだ。

 その青年実業家の名前は、神内(じんない)加々見(かがみ)

(もしその人に見初められることができれば……)

 もう一生、いえ、末代までも何も困ることのない生活が約束されるはずだ。金と、名誉と、美しい旦那様。これほどまでに欲をくすぐる存在があるだろうか。
 ここにいる年ごろの女性誰もが、そうの栄光を手に入れようと色めきだっていた。

 そのとき、ダンスフロアの入り口が開き、わぁああという大きな歓声があがる。

(ついに、いらっしゃったんだわ)

 美知華は彼に一目挨拶しようと、人の間をかき分けて前に出ようとした。
 しかし、こちらへと歩いてくる彼を見た瞬間、驚きのあまり足を止める。

 多くの取り巻きを引き連れてダンスフロアに入ってきたその男性が、噂の神内加々見だということはすぐにわかった。
 雰囲気というか、周りにまとうオーラがすでに他の者たちとはまるで違っていた。
 王者の風格というものがあるのなら、まさにこのことを言うのだろう。

 しかし美知華が足を止めたのは、彼のオーラに圧倒されたからばかりではない。
 彼が傍らに、とても可愛らしい女性を連れていたからだ。

 可憐で、まるで一流の映画女優のような美しさと気品を兼ね備えた彼女。
 神内と手を組んでゆったりと歩いてくる様は、まるで映画の一シーンのようだった。

 彼らが会場に入るとすぐに、それまでゆったりとしたクラシックを流していた楽団がワルツを演奏し始める。
 それを合図にダンスフロアの中心には男女ペアが次々に集まって、ダンスが始まった。

 相手のいない美知華はただ見ているしかできずにいる。
 ダンスを踊っている人々の中でも、一際目を引いたのは神内たちだった。

 他を圧倒するほどの美しく優雅なダンスは、誰もが感嘆のため息を漏らすほど。踊っていた他の者たちですら一組、また一組と踊るのをやめて、神内たちの完璧なダンスに見惚れていた。

(あんなのに、かなうはずがないじゃない……!)

 美知華は圧倒的な敗北感に打ちひしがれていた。どうひいき目に比べたって、その美貌も、立ち居振る舞いも、ダンスも、ドレスの着こなしさえも……神内の隣でほほ笑む可憐な彼女にかなうところは何一つなかった。

 蝶子ですらもこれはかなわないと思ったのか「ほかにもいい男性(ひと)はいるわよ」なんて慰めの言葉を口にしだす。それがなおさら、惨めだった。

 何曲かのダンスが終わると、再びゆったりとしたクラシックが奏でられはじめて、場は自然と歓談の雰囲気になる。

 もう今日は帰ろうか。こうも圧倒的な差を見せつけられてしまうと、この場にいることすら苦痛に感じた。舞踏会にきて、ここまで屈辱的な思いに打ちひしがれたことははじめてだった。

「お母さま。今日はもう帰りませんこと? 私なんだか気分が悪くて……」

「え? あ、そうね。それがいいかもしれないわね」

 そそくさとその場から二人が立ち去ろうとしたそのときだった。

「あら?」

 誰かから声をかけられる。振り向くと噂の神内と、あの淑女(レディ)がこちらにやってくるところだった。

「おひさしぶりです。お継母さま。美知華さん」

 優雅に足を折って挨拶をする彼女。
 なぜ、私の名前を知っているの? 混乱する頭の中で、美知華はまじまじと彼女の顔を眺める。数秒遅れて、美知華は目を大きく見開いた。
 隣では蝶子が口をあんぐりあけて、ぱくぱくさせている。

「き、絹子……!?」

 半年前に山奥に一人嫁いだ姉・絹子。たしかによく見ると、目元や顔立ちは絹子そのものだ。

 しかし、あのいつも俯いて暗く愚鈍だった記憶しかない姉の姿と、目の前の堂々とした美しい淑女(レディ)が同じ人物だとはどうしても頭の中でつながらない。いや、同一人物だと考えることを拒否していた。

 しかし、そんな美知華たちの戸惑いと驚きを他所に、絹子は幸せそのものといった様子で微笑むと、隣に立つ神内を紹介する。

「夫の加々見です」

 紹介されて、神内も恭しく二人に挨拶をした。

「どうぞ、よろしく。婚前の儀の際は同席できずに申し訳ありませんでした。ああ、私が山神だということはご内密にお願いしますね。言ったところで、誰もそんな世迷い事、信じはしないでしょうけれど」

「そ、そんな……」

 それ以上、美知華を発することもできず、ただ幸せそうに見つめあい微笑みあう目の前の二人を信じられない気持ちで眺めることしかできなかった。
 隣でガタガタと物音がしたのでなんとかそちらに目を向けると、あまりの衝撃的な事実に耐えられなかったのか、蝶子がへなへなと床に座り込んでいた。