「大丈夫。かすっただけです」
太刀筋は悪くない、と飛燕は冷静にその男を観察する。ただのごろつきではなく、本物の衛兵だろう。秋華と同じように、周尚書に買収でもされたか。ただしこちらは本人の意思で行動しているようだが。
「くそっ……!」
苛立った男はさらに打ち込んでくる。その男の腕をつかんだ飛燕は、そのまま男の背後に回ってその場に背中から倒し、剣を持った手に手刀を叩きこんだ。
「うがっ!」
痛みで男が剣を落とす。飛燕はそれを素早く拾うと、男の首に突き付けた。
「動くな!」
にわかに殺気立った牢の外の男たちに向けて、飛燕は叫んだ。首に剣を突き付けられた男はもとより、外の男たちも動きを止める。
「秋華殿、こちらへ」
少し離れてその様子を見ていた秋華は、そろそろと飛燕の近くに寄っていく。
飛燕はゆっくりとその男を立たせると、その姿勢のまま慎重に牢を出た。
男たちの様子をうかがいながら、飛燕と秋華はじりじりと通路の出口へと向かう。
飛燕が出口を確認するために視線を外した一瞬を狙って、男たちの一人が剣を抜いて向かってきた。
飛燕は、捕まえていた男をおもいきりその男に突き飛ばして、剣を構える。
「秋華殿、行ってください!」
「でも……!」
「私があいつらを足止めしているうちに、早く!」
「させるか!」
「やっちまえ!」
秋華を背にかばったまま、飛燕が男たちと切り結ぶ。鋼のぶつかり合う高い音が、せまい牢の通路に響いた。多人数を相手にしても、飛燕は一歩も引くことなく剣をふるう。
「きゃ……!」
分が悪くなったことを感じた男の一人が、飛燕ではなく秋華に剣を向けた。気づいた飛燕が、あやういところでその剣をはじき返す。が、わずかに飛燕の姿勢が崩れた。
「もらった!」
そのすきを逃さず、別の男が飛燕に剣を突き刺そうとする。
(しまった!)
「だめっ!」
その切っ先が飛燕に届くかと思った刹那、急に男の動きが止まった。目を見開いた男が、その場にゆっくりと崩れ落ちる。
飛燕は、その男の横に立っていた秋華の手に、血のりのついた短剣が握られているのを見た。
「秋華殿、それは……」
「ひ、飛燕、様……」
「飛燕!」
その時、通路の向こうから鋭い声が響いた。飛燕と秋華が振り向くと、そこには息をきらした龍宗がいた。
「無事か?!」
衛兵たちに囲まれた飛燕を見て安堵しかけた龍宗は、飛燕の腕が血に濡れていることに気づいて一瞬足を止める。その龍宗に向かって、新たな敵とばかりに男たちが剣をふりあげて向かっていった。
「おおお!」
瞬時に状況を把握した龍宗は、駆け寄りながら自分の腰の刀を抜く。向かってきた男たちの剣が、容赦なく龍宗に襲い掛かった。飛燕との切り合いで頭に血がのぼっていたらしい男たちは、自分たちが誰を切りつけているのかまったく気づいていない。
かん、と高い音をたてて一人の剣を弾き飛ばした龍宗が、思い切り声を張った。
「痴れ者めが!」
薄闇に響いた龍宗の怒号に、びくり、と男たちの動きが止まる。その声が聞いたことのあるものだと気づいて、男たちは龍宗の顔をまじまじと見つめた。
「まさか……陛下……?」
「何故こんなところに……」
「陛下は何も知らないと……が……」
男たちは、そこにいるのが誰なのかをようやく認識してそれぞれに動揺する。
「主たる我に刃を向ける意味、重々承知しての行動だろうな!」
龍宗の体からあふれる気迫に、男たちは無意識に後ずさった。
戸惑っていた男たちのうちの一人が、ぐ、と剣を握りしめた。
「陛下に剣を向けたとなればどうせ死罪……それなら、こっちの方が人数は勝ってんだ。皇帝陛下がご乱心なら、大義名分がたつ!」
言うなり、龍宗に切りかかっていく。
「うおおおおお!」
他の四人も同じように後がないことを悟って、死に物狂いで龍宗にむかい始めた。それを龍宗は、右へ左へと受け流し相手を追い詰めていく。実に見事な剣捌きだった。そして一人の男に剣を突き刺そうとした瞬間。
「陛下、殺してはいけません!」
飛燕の声で、龍宗の手が止まった。
「大事な証人です。やるなら半殺しで止めて下さい!」
「ちっ」
龍宗はくるりと剣を返すと、柄の部分で男の腹を思い切り殴打した。
「ぐっ」
男は白目をむいてその場に倒れる。残りの男たちも同様に、次々と倒していった。
「陛下! 飛燕!」
すると、また新たな声と複数の足音が通路の出口の方から聞こえた。衛兵たちを従えた余揮だ。
余揮は、足元に呻いて転がる男たちをよけながら、龍宗たちに近寄る。飛燕の腕が血にそまっているのを見て、眉をひそめた。
「どこか切られたのか?」
「たいしたことはありません。それより、陛下、お怪我は?」
剣を腰のさやに戻しながら、龍宗は答えた。
「俺がそんなへまなどするものか。秋華は大丈夫か?」
聞かれて飛燕が振り返れば、壁際に呆然と立ちつくしていた秋華は、今だ震える手に短剣を握り占めていた。
「わ、私……は……」
言いかけた秋華だが、事が終わったことを理解して緊張の糸が切れたのか、すい、と意識が遠のく。
倒れかけた秋華を、あわてて飛燕が支えた。その手から短剣をとろうとするが、気を失っても秋華の手はそれを握りしめたままだ。こわばった秋華の手からなんとか短剣を引き抜くが、よほど力をこめていたのか、その手には血の気がなく真っ白だった。それを見て、飛燕は目を細める。
どれほどの勇気を振り絞って、その行動を起こしてくれたことか。秋華があの時男を刺していなければ、飛燕はこんな傷ではすまなかっただろう。
「本当に、ありがとうございました。おかげで助かりました」
意識のない秋華に言って、飛燕はその体を抱き上げた。
「あとはまかせたぞ」
転がっていた男たちを衛兵が連れて行くのを確認すると、龍宗は足早に牢を後にした。急いているその様子に疑問を持って、飛燕が余揮に視線を向ける。余揮はその額に深く溝を刻んで言った。
「皇后様が毒を飲まれて意識がない」
「!」
「毒の種類はすぐに特定できたので問題はない。今、薬師が治療にあたっている」
「そう……ですか。それはよかった。それで龍宗様は急いでおられたのですね」
龍宗のあとを追って、飛燕たちも通路をゆっくりと出口へと向かう。衛兵たちの姿はすでになく、残されたのは飛燕たち三人だけだ。
「余揮様も早くここから出られた方がよろしいです。ここは冷えるので、膝にきますよ」
とたんに顔をしかめた余揮を見て、飛燕は続けた。
「最近、少し右の足を引きずっておられます。痛むのではないですか?」
「気づかれているとは思わなかったぞ」
「あなたがそういう風に育てたのでしょう?」
「期待以上に育ったな。……なぜ、陛下の側を離れた」
余輝の声は低い。
「申し訳ありません」
ちら、と余揮は秋華に目を走らせる。
「人質をたてにとられたか」
「目的が陛下ではなく皇后様のようだったので、それならば捕らえられている秋華殿の方が危険な立場にあると判断しました。おとなしく周尚書についていけばきっと彼女と同じところに連れていかれるでしょうから、まずは彼女の方を助けてから、と」
「だからと言って、陛下の身の安全を確保せずに動いたのは失敗だったな。どちらも、とる、のが最善の策だ」
当たり前のように言った余輝に、飛燕は苦笑する。
「やはりあなたは厳しいですね」
「……いや、違うな。最善ではない」
考え直したように、余揮が言った。
「では?」
「陛下も、この巫女も、そしてお前も。全てをとらなければ最善とは言えない」
飛燕は、軽く目を見開く。
「ああ……そうでした」
「陛下に何かあったら、お前が次の皇帝だ。なんのために、お前を陛下の側においているのか、よもや忘れてはいまいな?」
「わかっております。陛下をお守りするため、と、皇帝の仕事について学ぶため、ですね」
淡々と答えた飛燕に、余揮は複雑な表情になる。
「私が指示したこととはいえ、あれの側についていて、まともに皇帝の仕事を学べるかは疑問だがな」
「私ならもうちょっと要領よくやりますよ」
「だろうな。お前の方がどちらかといえば、龍元に近い質を持っている。陛下が龍元を超えるには、まだまだ遠いだろう。それでも」
余揮は、どこか遠くを見る目つきになった。その視線の先には、今は亡き余揮の親友がいることを飛燕は知っている。
「最近は、いくらかましにはなってきたようだがな」
「それは、ぜひ陛下に言って差し上げてください。きっと喜びますよ」
飛燕の言葉に、余揮はただ渋面を返しただけだった。気にせずに、飛燕は続ける。
「陛下があのように変わられたのは、皇后様のおかげでしょうね」
「最初あの娘を見た時はどうなることかと思ったが」
余揮は、ふ、と秋華に視線をうつす。かすかにそのまつげが動いたような気がした。
「案外に、陛下と相性がよかったようだ」
「陛下が皇后様とお心を合わせることができたのも、皇后様の人となりゆえなのでしょう。私ではきっと無理だった。そうでしょう? 秋華殿」
飛燕は、抱いていた秋華に声をかける。すると、秋華のまぶたが震えて、ゆっくりと目をあけた。その様子に笑んで、飛燕は言った。
「私たちの声がうるさかったようですね。申し訳ありません」
「いえ……気づいておられたのですか?」
飛燕は、笑みを浮かべたまま何も言わない。
飛燕と余揮が話している最中に意識が戻った秋華は、聞くともなしに二人の話を耳にしてしまった。その内容がなんとなく聞いてはいけないもののような気がして、起きるに起きられず気を失ったふりを続けていたのだ。
「申し訳ありません。それに、あの、私、自分で歩けますので……」
秋華は言外に降ろしてほしいと告げる。だが飛燕は、秋華を腕に抱いたまま離そうとしない。
「このまま医務室までお連れします。あなたには、休息が必要だ。これからのためにも」
その言葉の意味を瞬時に察して、秋華は息を飲む。そして戸惑ったように、飛燕と余揮の顔を見比べた。
「飛燕様は、一体どういう立場のお方なのですか?」
飛燕は、いつもの笑みを浮かべて言った。
「お聞きになりましたね。私は、陛下の実の弟です」
龍宗が生まれて四年後、飛燕が生まれた。飛燕が生後半年の時に、妃たちによる毒殺事件が起こる。二人は皇后の機転であやういところで助かったが、危険を感じた皇帝の判断で、飛燕だけはその場で死んだことにしてこっそりと後宮を出された。そして余揮の養子として育てられ、長じては皇帝の側近として龍宗の側で過ごしてきたのだ。
龍宗に子のない今、飛燕は、人知れずとも輝加国のれっきとした皇太子だった。
「そうだったのですか」
「陛下と来家の一部以外は、誰も知らない話です。ですから、ここだけの話にしておいてください」
「はい」
「秋華殿」
余揮が硬い声を出した。
「あなたは、周尚書とつながっていましたな」
秋華は顔をこわばらせる。
「詳しくお話をきかせてもらいましょう」
そう言った余輝を、秋華は見つめた。
自分たちが助けられ周尚書の話がでているということは、おそらく、すべては明るみに出たのだ。無意識のうちに、秋華は大きく息を吐く。
ちょうど、地下牢からの階段をあがりきったところで三人は外に出た。外はまだ雨が降っている。その空を一度見上げると、秋華は飛燕の腕から地に足を下ろした。今度は飛燕も止めなかった。
秋華は、余輝の顔を見あげる。心の重荷が降りたことで、秋華は自分でも意外なことに、はんなりと笑むことができた。
「はい。お話しします。すべて」
ふ、と璃鈴は目を開いた。
あたりは暗闇だ。
目を開いているのか閉じているのかもわからない暗闇の中で、璃鈴はただぼんやりとしていた。意識がもうろうとしていて、何も考えることができない。なにかとても大事なことを言い忘れているような気がする。
(私、なんでこんなところにいるのかしら)
身体中がだるく、ひどく眠かった。もう一度目を閉じようとした時、目の前にぼうっと光る何かが現れた。暗闇に慣れた目にはわずかな光も眩しく、璃鈴は目を細めてその光を見つめる。それはどうやら人らしく、音もなく璃鈴に近づいて来る。すぐ目の前までくると、その人は璃鈴に話しかけてきた。
「毒は、宮城の薬師によって中和されました。もう大丈夫ですよ」
璃鈴は一生懸命その人影をみつめるが、明るい光を背にしたその人物の顔はよく見えない。かろうじて、優しい声と柔らかな雰囲気から女性であることがわかるだけだ。
「毒……? あなたは……」
璃鈴の問いに答えることなく、急速にその女性は遠ざかっていく。もしかしたら遠ざかっているのは璃鈴の方かもしれないが、よくわからなかった。
ただその女性の声だけが、途切れ途切れに届く。
「……あの子を……どうか…………お願い……」
「待って! あの子、って……!」
璃鈴は必死に、その光に向かって手を伸ばした。
☆
「……璃鈴!」
伸ばした手を、誰かが掴んだ。温かい手だった。気がつくと、あたりが明るくなっている。
「璃鈴」
ぼやけた視界がもどかしくて何度か瞬きすると、次第に視野が鮮明になってくる。
目の前には、心配そうな龍宗の顔があった。
「龍宗 さま……」
声がかすれて、うまくしゃべれない。眉を寄せた璃鈴に、それでも龍宗は、ほ、とした表情になった。
「よかった……目が、覚めたな」
「私は……」
「覚えているか? お前は毒を飲んだんだ」
言われて、記憶が戻ってきた。
(そうだ。伝雲たちが部屋に来て……お茶に、毒が入ってるって……)
自分は、そのお茶を飲みほしたのだ。璃鈴は、自分の手を握っていた龍宗の手を握り返す。その感触で、これが夢ではないことを実感した。
「本当に毒が入っていたのですね。……よかった。生きてる」
「当たり前だ。死んでたまるか」
璃鈴が無事なのを確認して、龍宗は大きく息を吐いて肩を落とした。が、すぐに顔をあげると眉をつりあげる。
「お前は本当に馬鹿だな! 死んでしまったら相手の思うつぼだぞ!」
「でも、生きているのでいいじゃないですか」
「それはたまたまだ! 渡されたものが毒だとわかったあの女官が、半分をただの茶にすり替えていたのだ。そうでなければ、お前の目が二度とは開くことがなかったのだぞ!」
どなりつける龍宗の剣幕に、璃鈴は驚いて肩をすくめる。
「半分……ですか?」
「ああ。それくらいなら、警告ですむと思ったらしい。故郷の家族を人質にとられて周尚書たちの言うことに逆らえなかったらしいが、それでもお前が殺されてしまうことを黙って見ていられなかったんだそうだ。結局、半分ですら致死量に近かったために、お前は死にかけたのだがな。とんでもない毒を使ってくれたものだ」
忌々しそうに龍宗は吐き捨てるが、その目は今にも泣きそうに見えた。龍宗のそんな顔は初めて見る。
「龍宗様……」
「あまり、心配させるな」
小さく言った龍宗の手が、小刻みに震えていることに璃鈴は気がついた。
「ご心配をおかけいたしまして、申し訳ありません」
「二度と、あんな真似はするな」
「それは……約束できません」
きっぱりと言い切った璃鈴の言葉に、龍宗は、か、と目を見開く。
「お前は……!」
「私は!」
龍宗の言葉を止めて、璃鈴は叫んだ。少しかすれてはいたが、その勢いに龍宗は目を瞬く。
「龍宗様に信じて欲しかったのです」
「何……?」
「私は、決して龍宗様を裏切るようなことはしません」
龍宗は、おもいがけず厳しい表情になった璃鈴にのまれたように黙り込む。
「龍宗様に供するものは、どんなものをお出ししても、毒など、私は絶対にいれたりしません。それくらいなら、自分でその毒を飲み干します。だから……決して裏切ることなどないと、私を、信じてください」
短くない沈黙が、二人の間に落ちる。
「気づいていたのか」
龍宗の声は、重かった。
「はい」
食事はもちろんのこと、璃鈴の入れた茶の一杯すらも、龍宗が一口とて飲んだことはなかった。そう気づいたのは、つい最近だ。
「ずっと、毒を心配していたのですね」
龍宗は、居心地悪そうに目をそらした。
「お前を疑っていたわけではない。もうくせのようなものだ。幼い頃にここで毒を盛られそうになってから……そして母がその毒の後遺症で亡くなってから、自室以外の後宮では、食事をすることも眠ることもできなかった」
「眠る、ことも?」
初耳だった璃鈴は、目を丸くする。
「ああ。お前がくるまで、ここは俺にとって安心できる場所ではなかったのだ」
だから、結婚した当初は、璃鈴が隣にいても眠ることはできなかった。璃鈴だけではなく、この後宮にいるすべての者を、龍宗は信じられなかったのだ。
「今は、ちゃんと眠れる。……眠れて、いるんだ」
龍宗は、ふ、と表情を和らげた。
「信じよう。これからは、何があっても、お前を。だから、もうこんな肝を冷やすような真似はしてくれるな」
「はい」
璃鈴も、ようやく笑みを浮かべた。
「龍宗様のために、とびきり美味しいお茶を入れます。だから今度は、私と一緒に飲んでくださいましね」
「ああ……」
龍宗が璃鈴の頬に触れて、その上にかがみこむ。二人の唇が重なる瞬間、派手な音が響いた。
「……」
「……」
龍宗がゆっくり起き上ると、璃鈴が真っ赤な顔をしていた。
「腹が減ったのだな」
笑いだしそうになるのを我慢しながら、龍宗が聞いた。
「それもそうだろう。お前は、三日も眠っていたんだ」
「三日?!」
とりあえず枕元に水があったので、璃鈴は龍宗に起こしてもらってそれを飲む。体を動かすとあちこちが痛んで、璃鈴は三日眠っていたという龍宗の言葉を実感した。
璃鈴が眠っていたのは、後宮内の自分の部屋だった。あたりを見回して、ふと璃鈴は違和感を持つ。見慣れた部屋なのに、いつもと何かが違う。少し考えてその違和感の正体に気づいた璃鈴から、血の気が引いた。
「龍宗様、秋華は?」
ちょっと用があって出ているだけかもしれない。けれど、璃鈴が倒れる前から姿が見えなかった秋華が今もここにいないことは、璃鈴に言われのない不安をもたらした。
その名を聞いて、龍宗が表情を歪める。
その様子が、さらに璃鈴の不安を駆り立てる。
「秋華は、どこにいるのですか? 無事ですか?」
「無事……だ」
歯切れの悪い言い方に、璃鈴の不安が増す。
「なぜ、ここに秋華がいないのですか?」
「あの娘は、後宮を追放となった」
ざ、と璃鈴の血の気が引く。
「な……ぜ……」
璃鈴を動揺させないよう、龍宗はゆっくりと事の経過を話し始めた。
璃鈴の飲んだ毒は、周尚書と尚宮の伝雲が仕組んだものだったこと。その罪を被せられて飛燕と秋華が殺されそうになったこと。その二人も、無事、龍宗が助け出したこと。周尚書と伝雲は、死罪が決まったこと。
「では、どうして秋華が追放になるのですか?」
「あの娘は、お前の食事に毒をいれていたと伝雲が証言し、本人も認めたからだ」
「毒? 私は毒なんて……」
「ああ。伝雲と周尚書は秋華に確かに毒を渡していた。だが、秋華は一度もお前の口にするものには毒は入れていなかったと言っている。しかし、それは秋華自身の証言だけで証拠がない。さらには周尚書たちがそろって秋華が仲間だったと証言したこと、実際に秋華が毒を所持していたことが裁判の場で明らかになったことで、どうしても彼女を罪に問わざるをえなかったのだ。本来なら周尚書たち同様処刑となるところだったが、神族の巫女ということもあって、せめても、後宮追放の処分ですませることができた」
「そんな……」
璃鈴の震える手を、龍宗がしっかりと握った。
「璃鈴。秋華は今は安全なところにいる。だから、心配するな」
「だって……」
ぽろぽろと璃鈴の目から涙が流れる。
「秋華は、私に毒を盛るなんて、そんなこと絶対にしません」
「ああ。わかっている」
なだめるように言った龍宗に、璃鈴は首を振る。
「わかっているのに、どうして追放なんて……私の意識があったら、秋華を助けられたかもしれないのに……なんで、三日も……」
「お前だって、生死の境をさまよっていたのだ。人のことまで心配している場合ではなかっただろう」
「そんなの、秋華の辛さに比べれば!」
叫んだ璃鈴に、龍宗は眉をあげた。
「きっと秋華のことだから、毒なんて受け取ったのは私を守るためです。どうしてそうなったかはわかりませんが、自分が罪になることが分かっていても、きっと私を守ろうとしてくれたはずです」
龍宗は璃鈴の手を握りしめながら、おだやかに笑んだ。
「その通りだ。よくわかっている。お前は秋華を心の底から信じているのだな。それを聞いたら、きっと秋華も報われることだろう」
「そんなこと……秋華がここにいなければ、私は何もしてあげられない……秋華、どこに……」
泣き崩れる璃鈴を龍宗が抱きしめた。その胸にすがって璃鈴は泣いた。しばらくはあやすようにその体を抱きしめていた龍宗だが、扉を叩く音に気づいて顔をあげた。
「側仕えがいなくなっては不便であろう。それにお前も淋しいだろうと思って、新しい侍女をつけることにした」
涙で濡れた顔を、璃鈴があげる。
「誰も、秋華の代わりになど……!」
「そうか? 新しい侍女も、なかなかよい働きをするぞ? ……入れ」
龍宗の声を聞いて扉を開けた侍女は、寝台に起き上る璃鈴の姿を見て思わず持っていた水桶を落とした。
「皇后様っ!!」
足元が濡れるのにも構わずに駆け寄るその侍女を見て、璃鈴はぽかんと口をあける。
「よかった。気が付かれたのですね? ご気分はいかがですか? ずっと、ずっと眠り続けで、本当に心配致しました」
そう言って、涙を浮かべる女性は。
「秋華……?」
秋華は後宮追放になったと今聞いたばかりだ。呆然とする璃鈴に、龍宗が言った。
「紹介しよう。秋華の代わりに新しく入った春玲だ」
「春……玲?」
は、と気づいたように秋華……春玲は璃鈴の寝台の横に膝をついて礼をとる。
「つい、皇后様の御無事な姿を見て取り乱してしまいました。お見苦しい姿をお見せしてしまったことをお詫びいたします。改めまして、このたびこちらの配属になりました、春玲と申します。以前にいた侍女の代わりに、皇后様のお世話をいたします」
「春玲は、冬梅の娘だそうだ。なかなかしっかり者だぞ」
にやりと龍宗が笑う。璃鈴の頭がついていかない。
「秋華……は……」
春玲が、目に涙を浮かべて璃鈴を見つめる。
「その女性は、罪を背負って後宮を追放になり、いずこへか姿を消しました」
「皇后を毒殺しようとした秋華という侍女はもういない。あとはこの春玲に面倒をみてもらえ」
璃鈴の目にまた新たな涙が浮かんで、春玲の姿がぼやける。
「春玲……?」
「はい。なんでしょう、皇后様」
璃鈴は手をのばすと、春玲に思い切り抱きついた。
「これから……よろしくね、春玲」
「はい。皇后様」
「ずっとずっと、一緒にいてね」
「はい」
抱き合う二人を、龍宗は目を細めて見ていた。
☆
雨は、璃鈴が眠っている間も、強くなったり弱くなったりしながらずっと降り続いていた。
璃鈴の目が覚めてから、龍宗は常に璃鈴の側に付き添っていた。
「陛下、もう皇后様は大丈夫ですから、お仕事に戻ってください」
「ああ」
龍宗は春玲にそう言われて生返事をするが、長椅子に座る璃鈴の隣に寄り添って書類を読みながら、動こうとはしない。
「もう私はこの通りすっかり元通りですから」
片手で璃鈴の髪をもてあそんでいる龍宗に璃鈴が言うが、龍宗はまた、ああと適当な答えを返すだけで、いっかなそれをやめようとはしなかった。
その場で決済分の書類を調べていた飛燕が、くすくすと笑う。
「おかげで、陛下はご自分のお仕事を他の官吏に振り分けることを覚えました。その手腕に、官吏の中でも陛下の信頼度が上がってきております。陛下もよくお休みにもなられているようですし、むしろもうしばらくこちらで過ごしていただいてもよろしいくらいです」
執務室を空けるために、龍宗は自分が今まで抱え込んでいた仕事を各省に振り分けるようになった。そこで初めて龍宗のやっていた仕事が各官吏の知ることとなり、その内容の卓越さに龍宗を見直すものが続出していた。
「特に今は、議会はいろんな意味で紛糾しておりますから、どちらかといえば怒鳴り散らす陛下がいない方が官吏たちの精神衛生上、良い気が……」
「何か言ったか? 飛燕」
「いいえ。何も」
皇后暗殺に関わっていた礼部尚書がその罪で処刑されたこと、他にも幾人か朝廷内で彼に関わった者がいたことで、内部人事が大きく動いたのだ。
また、その娘であった周淑妃以下、後宮にいた妃たちは、璃鈴を除いてすべて身一つで後宮を追放された。
どうやら玉祥は父が皇后暗殺までもくろんでいたことを知らなかったようで、父が捕縛された報に本気で驚き、そして怒っていた。
後宮には、また璃鈴が一人だけ残されることとなった。
「どうぞ、飛燕様」
「ああ、ありがとうございます」
「!」
飛燕の前の卓にお茶をおいた春玲の手が、そこにあった書類をよけようとした飛燕の手に触れた。とたん、春玲があわてて手をひく。顔を赤くして目をそらした秋華に、飛燕は気づかれない程度に目を細めた。
璃鈴と龍宗は、そんな二人を見てお互いに含み笑いで目を合わせる。
飛燕に対する春玲の様子が変わったことに、璃鈴たちはすぐに気づいた。時折そうやって飛燕を意識しているような姿を幾度も目にするようになったのだ。そして、そんな春玲を愛し気に見つめる飛燕にも。
「えと、あの……長い雨ですね」
意識をそらすように、春玲が窓の外に視線を向けた。
「そうだな」
龍宗が相槌をうって、同じように外を見る。飛燕は、意味ありげな視線を龍宗に送る。
「龍宗様」
「わかっている」
男二人で分かり合う姿に、璃鈴と春玲はきょとんと目を丸くした。
☆
その夜。
「そういえば、龍宗様」
「なんだ」
相変わらず同じ寝台にありながら、龍宗は璃鈴にただ寄り添って眠る日々を過ごしていた。
今までと違うのは、龍宗が璃鈴の隣で深く眠るようになったこと、そして、目覚めれば共に朝餉を取るようになったことだ。
「龍宗様のついた嘘って、なんですか?」
屋根にあたる雨の音に耳を澄ませていた龍宗は、薄闇の中で璃鈴に目を向ける。
「以前、一つだけ私に嘘をついたと、龍宗様がおっしゃったことを思い出して」
「ああ……」
龍宗は、ごろりと璃鈴の方を向いて頬杖をつく。
「知りたいか?」
「はい」
しばらく考えてから、龍宗は、片手で璃鈴の頬に触れた。
「頃合いだな」
「え?」
「いや、こちらの話だ。お前を妻に選んだ理由……婚儀の夜に、確か話したな」
「ええと……名を覚えていたのが、私だけだったから、と」
「それは、嘘だ」
「嘘? では、他にも名を覚えていた巫女がいるのですか?」
「そうではない」
雨音が響く薄闇に、ひっそりとした龍宗の声が響く。
「璃鈴」
「はい」
「初めてお前を見た時から……俺の心はずっとお前に囚われていた」
驚いて、璃鈴は龍宗の顔を見あげる。暗闇の中でも、間近にある龍宗の顔が見て取れた。
「里に行った時に、舞を見せてくれたな」
「はい」
「幾人もいた巫女たちの中で、お前だけに目が惹かれた。黎安に帰ってきてからもお前のことがずっと頭から離れなかったが、その頃の俺には理由がわからなかった」
その時に芽生えた気持ちを、龍宗は理解することができなかった。それは、恋を知らなかった龍宗の初恋だ。自分の感情の名も知らず、ただ、璃鈴が欲しいとの思いだけが龍宗の心を占め続けた。
自分の気持ちがわからなかった龍宗は、慣れない感情に戸惑った。婚儀の前日、いてもたってもいられず璃鈴に会いに行くも、その姿を遠目に見るだけで動揺してしまい、声もかけられなかった。自分の行動に対する羞恥から、婚儀の席で璃鈴にはひどい言葉を吐いてしまった。それを龍宗は今でも悔いている。
「あの時のお前は、まだ皇后になることが可能な十六歳には達していなかった。だからお前が十六になる日を、俺はずっと待ち続けていた」
「龍宗様……」
龍宗は緩やかに顔を近づけると、璃鈴に口づける。すっかりその行為に慣れた璃鈴は、唇が離れると、ほう、と息をついた。
「今宵、お前を抱く」
言いながら、龍宗は璃鈴の上に覆いかぶさった。薄闇の中に、さらりと衣擦れの音が響く。
璃鈴が仰ぎ見る龍宗の瞳は、いつも口づけを求めてくる時と同じ熱をはらんでいた。
「抱く、とは」
わざわざそう宣言するという事は、いつものように抱きしめることとは何かが違うのだろうか。
戸惑う璃鈴に、ふ、と龍宗は笑った。
「俺と、一つになるということだ」
「龍宗様と?」
そう言われても璃鈴にとってはまだ理解できない状況だったが、わからないなりに何か素晴らしく幸せなことに思えた。
急に璃鈴の胸がどきどきと高鳴ってくる。
「私は、何をしたらよいのでしょう」
「何もしなくていい。ただ、俺のすることに身を任せろ」
意図をもって動き始めた龍宗の手に、びくりと璃鈴は体をこわばらせた。その動きを感じて、龍宗はいったん手を止める。
「怖いか?」
「いいえ。……龍宗様」
「なんだ」
「私も、一つだけ嘘をつきました」
「なに?」
きょとんとする龍宗に、璃鈴は、ふふ、と笑う。
「大っ嫌いなんて、嘘です。……本当は、大好き」
そう言った璃鈴に目を丸くすると、龍宗は笑いながら口づけを落とした。
輝加国には、伝説があった。
強い力を持った天の龍と、その龍を封じた雨の巫女が、国の最初の礎になった、と。
なぜ龍はその力を収めたのか。なぜ巫女は異形のものに嫁いだのか。
真実は、遠い遠い昔話の中。
次の朝。まだ暗い中、神楽の舞台の上には、龍宗と璃鈴の姿があった。
強い雨の降りしきる空を見上げて、龍宗がすらりと腰の剣を抜く。研ぎ澄まされた刀身を、雨が水滴となって滑り落ちていった。その横には羽扇を持った璃鈴が寄り添う。濡れてもいいように、羽毛のついていないものだ。
璃鈴の視線を受けて龍宗が頷くと、璃鈴も笑んで頷く。
そうして二人は、静かに舞い始めた。
始まりの舞。
いつか璃鈴の部屋で二人で舞ったあの舞だ。
この舞は、もともと夫婦が対となって舞うものだ。雨を呼ぶ巫女と、太陽を呼ぶ龍の血筋をひく者がこの舞を舞ったとき、伝説にあるように天の理さえ動かすことができるようになる。
だがそれには、二人が心と体、その両方を通わせ一つとなることが必要だった。歴代の皇帝の中には、体を合わせることができても心を合わせられなかった皇帝と妃ももちろんいた。そういう朝はたいてい短命に終わる。災害が多く、国の内部が乱れるためだ。
流れる雨を受けながら、ぴたりと寄り添って優雅に舞う二人の姿を見る者は、天以外には誰もいない。
「始まりましたね」
神楽からほど遠い屋根の下で、凜と胸を張って幕を見つめながら春玲がつぶやく。隣に同じように立っていた飛燕は、ちらりと春玲を見下ろした。
あたりに人影はなく、雨の音だけが二人を包んでいる。
「そうですね」
「これで、雨が落ち着くと良いのですけれど」
長雨の影響は、農作物だけでなく治水にも影響し始めていた。最近は、山の近くでの土砂崩れも多くなっていると聞く。
飛燕は、心配そうな春玲の言葉に、空を見あげた。
「少し、手伝いましょうか」
「え?」
「まだ覚えておられますか? 始まりの舞を」
春玲も璃鈴と同じく、始まりの舞はその身に沁みついている。戸惑いながら春玲は、ええと答える。
「けれど、私が始まりの舞を納めたとて、皇后様ほど天をお慰めできるとは思えません。ましてや、この雨では私が役に立つことは」
「試してみましょうか」
すらり、と飛燕は腰の剣を抜いた。誘われるままに、羽扇を持たぬ手で春玲は舞い始める。春玲の顔にみるみる驚愕の色が広がった。
ぴたりと重なる二人の舞。
璃鈴が龍宗に舞の手ほどきをしてもらったと言っていたことを、春玲は思い出した。
(ああ、そうか。この方も)
「私も、幼いころから覚えさせられたのです」
春玲の心を読んだように、飛燕が答える。
雨の巫女と重なる龍の舞。それは、皇位継承者に代々伝えられる秘伝の舞。飛燕は秘密裡に、龍宗とともに幼いころから巫女の対となるこの舞を覚えてきたのだ。
足さばきも軽やかに舞いながら、飛燕が笑んだ。
「ですが、龍宗様に聞いていたような天の息吹は私には聞こえませんね」
「天地の息吹?」
「ええ。龍宗様が皇后様と二人で舞った時には、天と地をつなぐ理を感じられたそうです」
「天と地をつなぐ理……私にも、そのようなものは感じられません」
話しているうちに、短い舞は終わった。飛燕と春玲が向かい合ってお互いを見つめる。
「やはりあのお二方でないと、天はお気に召さないようだ」
「ふふ。そうかもしれませんね」
「春玲殿」
飛燕は、春玲の澄んだ目を覗き込む。
「これからも、時々一緒に舞っていただけますか?」
「はい。もちろんです」
ほんのりと頬を上気させて、春玲は答えた。天と地の理はわからなかったが、飛燕と舞うのは純粋に楽しいと感じた。
(璃鈴様も、陛下と舞った時はとても楽しかったとおっしゃっていた。きっと、こんな感じだったのね)
「ただし、これは決して人に見せてはならない秘伝の舞です」
飛燕は、重々しく言ってから春玲の耳元にささやいた。
「ですから、一緒に舞うには、誰もいない二人きりのところで……。俺の頼みを聞いてくれるなら、いろいろと、覚悟しておいてくれ」
一瞬きょとんとした春玲がじわじわと顔を赤く染めていくのを、飛燕は笑いながら見つめていた。