雨の巫女は龍王の初恋に舞う

「はい。近々後宮にて初夏の宴を催そうかと思いますの。毎日毎日こう雨ばかりでは、陛下にもさぞお気鬱なことと心が痛みます。ですから、舞や楽を用意いたしまして……」

「なぜ、淑妃がそのようなことを? 後宮の管理は皇后がしているはずだが」

 通常、後宮の催し物などを取り仕切るのは、龍宗が言ったように皇后がするべき役目だ。


「ええ、慣例に習えばそういたしますのが本筋でございましょう。ですが」

 言いよどむと、玉祥はさりげなく柳眉をひそめた。


「皇后様は、ひがな一日ご自分のお部屋に閉じこもられていて、お話をしようにも全くお会いできない状態でございます。呼ばれもしないのにお部屋を訪ねるのも失礼ですし……わたくしたち、本当に皇后様のお姿を心待ちにしておりますのに。今度の宴で親しくなれることを、心から願っておりますわ」

 緩やかに口元に指を添えるその仕草まで、見るものをうっとりとさせる洗練された仕草だった。

「ほう。皇后も宴の事は知ってるのだな?」

「もちろんでございます。宴のことは、当然皇后様がなされるだろうと思っておりましたのに、女官を通じて打診を図っても、わたくしに任せるの一点張りで。皇后様はまだ幼いゆえに、このような催しを成功させる自信がないのでしょうね。これから陛下の対となって国を導かれてゆかねばならぬ存在ですのに……」

 ちらり、と玉祥は龍宗に視線を流す。龍宗は、玉祥の話を面白そうに聞いていた。


「もちろんわたくしたちは、皇后様が積極的にお話をしてくださるなら快く協力致すつもりです。ですが嫌がる方に無理強いをおさせするつもりは毛頭ございませんので、こうしてわたくしが名代として陛下の元へと参じたのでございます。このような話ですので、皇后様の名誉のためにも他の方には聞かせられませんわ」

「なるほど、な」

 龍宗は、くつくつと楽しそうに笑った。その様子を見て、玉祥は気をよくしたのかさらに笑みを作る。


「まずは宴の日を決めるにあたって、陛下のご都合をお伺いしにまいりましたの」

「飛燕」

 龍宗は、黙って聞いていた飛燕に声をかける。飛燕がいくつか予定が入っている日を伝えると、満足そうに玉祥はうなずいた。

「かしこまりましたわ。わたくしを選んで任せると言っていただいた皇后様にも、恥ずかしくない宴にしてみせましょう。それで、陛下はどのような曲がお好きでしょう?」

 囁くように低くなった玉祥の声が、妖艶にかすれた。前かがみになった彼女の胸元が、龍宗の目の前に広がる。大きく襟の開いた衣の中で、重そうな胸がたわむのが見えた。


「飛燕、余揮を呼び戻せ」

 言外に出ていけと言われて、玉祥は意外そうに鼻白む。

「その宴とやらを、楽しみにしているぞ」

 しかし龍宗に言われると、玉祥は気を取り直して目を細めた。

「おまかせくださいませ。では、失礼いたします」

 そう言って優雅に礼をとると、執務室を出て行った。


 また手元の書類に目を落とした龍宗は、視線を感じて顔をあげる。飛燕が、じ、とみつめていた。

「なんだ」

「なぜ、あのように言わせておくのですか」

 つかつかと龍宗の机に歩み寄ると、未処理の書類の上にさらにどん、と書類をおく。

「……女とは、面白いな。どこまであの口が回るかと思ってしゃべらせておいた。正直、笑うのを我慢するのがつらかったぞ」

 思いがけない言葉に、飛燕は目を丸くする。


「では、淑妃様の言を信じたわけでは」

「あたりまえだ。璃鈴があの女が言うような態度、とるわけがないだろう」

 それを聞いて、飛燕は、ほ、とした。淑妃の言いようではあまりに璃鈴がかわいそうだと、やきもきしながら聞いていたのだ。


「後宮での宴の誘いは、璃鈴が持ってこない限りすべて予定が入っていると断れ。それより、お前こそ信じたのか? あれを」

「まさか。皇后様に限って、淑妃様の言ったような態度をとるなどありえません」

 はっきりと言い切った言葉に、龍宗は目を瞬いた。

 飛燕は、璃鈴と共に旅した一週間を思い出す。



 皇后となる身では、この先この広い輝加国をみることはあまりないだろう。そう思った飛燕は、思い切って璃鈴を街に連れ出したことがあった。


―――――――


 今日も璃鈴は、がたごとと馬車に揺られながらこっそりと窓の外を眺め続けていた。


 里から宮城のある首都、黎安までは馬車で七日はかかる距離だ。

 馬車に乗っているだけとはいえ疲れないわけではないが、見るものすべてが珍しい璃鈴にとっては疲れよりももの珍しさの方が先にたった。
「あまり顔を出されますな」

 飛燕は、一生懸命首をのばして窓の外を見ようとする璃鈴に苦笑する。


 迎えにいった里では、一番幼い巫女だった。龍宗と違って巫女の顔と名前をしっかりと全部覚えていた飛燕は、迎えに行く巫女の名を聞いた後も何度も龍宗に確認した。だが、龍宗はがんとして皇后は璃鈴だと譲らなかった。なぜ龍宗が璃鈴にそれほどにこだわるのか、飛燕にはその理由がわからなかった。


「でも飛燕様、見たこともないものばかりで、目が離せません」

「璃鈴様は、里の外に出るのははじめてであられるか」

「はい」


 里を出て三日が過ぎていた。馬で璃鈴たちに並走する飛燕は、その間ずっと馬車の窓に璃鈴の顔を見続けていた。好奇心が旺盛なあたりは、思った通りの子供だった。

「後宮に入ってしまわれれば、なかなか外の景色を見ることもできますまい。次の宿には、早めにつく予定です。どうでしょう。少し、街の中をご覧になってみますか?」

「本当ですか?」

 願ってもない申し出に、璃鈴は目を輝かせた。


「飛燕様、危ないのではございませんか?」

 璃鈴の隣で、秋華が顔を曇らせる。皇宮となるべき女性にうかつなことがあってはいけない。そう心配する彼女の気持ちはよくわかる。

 飛燕は、さりげなく秋華に目を走らせた。

(次の巫女、か)

 彼女の方がよほど皇后にむいている。秋華の言動をこの三日見てきた飛燕は、そんなことすら思ってしまう。

 こまごまと璃鈴の世話を焼く姿にも、秋華の所作の美しさがちらほらと見て取れた。すっきりとした身のこなしは上品で洗練されており、とても数日前に鄙びた里から来た女性とは思えない。里での妃教育とはこれほどのものかと、彼女を見ていれば感心しきりだ。おそらく他の巫女においても同様なのだろう。

 なのになぜ、璃鈴なのか。こればかりは龍宗にしかわからないことだと、飛燕は呑み込むより仕方がない。


 そんな思いはおくびにも出さず、飛燕はにっこりと笑った。

「もちろん、私がご一緒いたします。こう見えても腕には覚えがありますので、何があっても璃鈴様をお守りするとお約束いたしましょう」

「でも……」

「いいじゃない、秋華。私、街の中を見てみたいわ。ああ、そうだ、秋華も一緒に行きましょう」

「え、私も?」

「そうよ。秋華だって里を出たことないじゃない。ねえ、行きましょう」

 戸惑う秋華を安心させようと、飛燕は馬上から笑いかける。

「大丈夫です。今夜宿をとる街は比較的治安のよい街ですので、明るいうちでしたら外歩きにも問題はありません」

 二人に畳み掛けるように言われて、秋華はしぶしぶ頷いた。


 そうして一行が着いたのは、街の中心地にある大きな建物だった。

「ようこそおいでくださいました」

 宿の主人が、丁寧に頭をさげる。あらかじめ一行が着くことは連絡済みだが、その主人も、璃鈴が皇后になる人物とは知らされていない。


 それでも璃鈴が通されたのは、この宿で一番いい部屋だった。

「璃鈴様」

 部屋で休んでいる璃鈴に、飛燕は廊下から声をかける。すぐに中から秋華が扉を開けてくれた。

「ついたばかりでお疲れでしょうが、暗くなるとやはり危険が増えます。もし街歩きをされるのでしたら、そろそろいかがでしょう」

「はい、お願いいたします」

 そう言われて、さっそく三人で街へ出ることにした。


 夕刻が近いこともあり、街の中はちょうど夕餉の買い物をする人々で店がにぎわっている。

「人通りが多い。離れますな」

 飛燕は、見失わないように璃鈴と秋華の後ろをついていく。こんなにたくさんの人間を見たことのない璃鈴と秋華は、不安なのか寄り添って、興味深そうにあたりを見回していた。

 大通りをあちこち散策した後、飛燕は二人を茶屋に誘う。通りに長椅子を出して営業している店で、三人は休むことにした。


「人が多いのですね」

 出されたお茶を飲みながら、璃鈴はため息をついた。歩いたことよりも、人いきれに疲れたようだった。

「皇帝のおわす黎安は、こんなものではありませんよ」

「そうなんですか? もっと人がいるのですか?」

 飛燕は、行き来する人々に視線を送る。その視線にわずかに影が差すが、璃鈴たちは気づかない。


「ここは輝加国でも、端に位置する街です。このあたりでは一番にぎわう街ですが、それでも都に比べれば活気は比べ物になりません」

 ふいに気配を感じた璃鈴が振り返ると、子供が璃鈴の団子に手をだしているところに目が合った。

「……え?」
「こらっ!」

 店の亭主が気づいて怒鳴ると、団子を持ったままあっという間に子供は逃げてしまった。その様子をぽかん、と璃鈴は見送っている。

「ああ、やられてしまいましたね」

 こともなげに飛燕は言って、亭主にもう一皿の団子を追加した。


「今のは……」

「地方では珍しくありません。おおかたあの子供も、腹を空かせていたのでしょう」

 璃鈴は、呆然としたままだ。その様子を、飛燕はそれとなくうかがう。

「あの」

 とまどったように、璃鈴が口を開いた。

「なんでしょう」

「今の子は、病気ではないのですか? あんなにやせていては、身体が……」

「言ったでしょう。珍しくないのです」

 飛燕は、自分の分のお茶を一口飲む。璃鈴の関心が、団子をとられたことではなく子供であったことに少しばかり安堵した。

「巫女であったあなた方も気づいておられるでしょう。ここ数年……特に昨年から今年にかけては、日照りが続いて作物の収穫が芳しくありません」

 その言葉に、璃鈴と秋華は厳しい顔で目を見合わせた。

 飛燕の言う通り、一年ほど前から、巫女たちの祈りが天に通じにくくなっていた。おかげで、去年の夏は干ばつがひどく、ほとんど作物はとれなかった。食べ物が乏しくなった冬をなんとかやり過ごしてまた農作物を作り始める時期になったが、やはり今年も雨は少ない。これでは、今年も作物に期待はできないだろう。

「黎安はなんとかなっておりますが、地方では満足に食料を得ることが難しいのです」

 飛燕の言葉に、璃鈴はあらためて通りに目を向けた。


 人いきれに圧倒されている時には気づかなかったが、道行く人々は、よく見れば誰もかれもが疲れているように見えた。

 食べ物があるということは、璃鈴たちにとっては当たり前のことだった。けれどそれは、恵まれた土地と人為的な守りによって作られていたものだったと、目の前の光景を見て思い知らされる。


「あなたがいた里や黎安のように、最優先に守られる場所がこの国にはあります。ですが、それ以外の場所では、今のように子供は腹を減らし、疲れている大人も多いのですよ。これが、今の輝加国の現状です」

 意図的に淡々と、飛燕は言った。

 そう聞いて、この巫女は何を思うだろうか。


 龍宗が皇帝になって一年。いまだ政情は落ち着かず、龍宗の背負うものは重すぎるほどに重い。

(半分は、龍宗様ご自身の性格のせいですがね)

 朝議の度に官吏ともめ事を起こす龍宗に、飛燕は毎度苦労をさせられる。

 その龍宗が、古の盟約とはいえ、皇后に世間知らずの巫女を迎えなければならない。

 正妃として龍宗を支えることが璃鈴にできるのか。飛燕は、それを確かめたかった。


「そうなんですね。……飛燕様」

「はい」

「これが、これからの私が陛下と共に背負うものなのですね」

 そう言って街に視線を移した璃鈴の表情を見て、飛燕はわずかに目を瞠った。

 璃鈴の目には、ただの同情だけではない凛とした決意とでもいうべき感情が浮かんでいた。

 これから皇后となる自分の背負うものを、璃鈴は正確に把握したのだ。その表情を見て飛燕は、危険を冒して彼女を連れ出したことの目的が達成されたことを知る。

 ここに来るまでの三日間で宿をとった町は、昼でも簡単に外出できるような安全な場所ではなかった。けれど飛燕は、どうしてもこの状況を皇后となる女性に知っていてほしかった。

 神族の娘が村を出ることは、ほとんどない。祈りの巫女として清い心身と血脈を保つために必要な措置だ。ただの巫女ならばそれでよいのだが、国の皇后となるには、そして皇帝の支えとなるためには、それだけでは不十分だ。


 つくづく、自分がくると言ってきかなかった龍宗を置いてきてよかったと飛燕は思う。きっと彼は、彼女にこの現状を見せるようなことはしなかっただろう。

(皇后としてこの娘……悪くない)

 飛燕は、無意識のうちに笑みを浮かべる。そして一気に茶碗を空にすると、立ち上がった。

「さあ、そろそろ夕餉の時間です。私たちも宿に戻りましょう」

「はい」



―――――――



「幼く見えても、皇后様はご自分の責任を簡単に放棄する方ではありません。ましてや、手を伸ばしてきた相手に対して、その手をご自分の方からはらうことなど」

 決意を秘めた璃鈴の横顔を思い出しながら、飛燕は微笑んだ。その様子を見て、龍宗は半眼になる。


「なぜ、それほど璃鈴の性格について詳しいのだ」

「ですから、巫女の里からこちらへ来る間に……」

「やらんぞ」

「はい?」

 龍宗は、手元の書類に視線を落として言った。

「たとえお前でも、璃鈴はやらん」

 それだけ言って仕事を続けている龍宗に、飛燕はきょとんと目を丸くした。そして、ほころぶように、笑った。
 もうすぐ夕餉の刻という頃に、下女の娘が秋華を呼びに来た。

「恐れ入ります。冬梅様が秋華様をお呼びです」

「冬梅様が?」

 璃鈴は秋華と顔を見合わせる。先日、そうやって呼び出された折に、妃嬪が後宮入りしたのだ。冬梅が悪いわけではないことはわかっているのだが、その彼女から呼び出しとなるとなにやら身構えてしまう。

「何でしょう」

「さあ。ちょっと行ってまいります」

「ええ」

 軽く会釈をすると、秋華は下女と部屋を出て行った。


 しばらくすると、またほとほとと誰かが戸を叩く音がする。

「はい。あら」

 璃鈴が開けてみると、今度は璃鈴も見知った世話係の女官だった。名を夏花という、明るくてくるくるとよく働く娘だ。

「あの、これを、秋華様が……」

 うつむいて差し出されたのは、お茶の缶だった。


「これは、お茶?」

「はい。これ、輝加の南方でとれる、希少なお茶なんです。一番茶をぜひ陛下に飲んでいただこうと……」

 うつむき気味の夏花に、璃鈴はふと違和感を抱く。

「夏花、何かあった?」

「え?」

 顔をあげた夏花は、やはり顔色が優れない。


「いえ、何も……」

「そう? どこか具合悪かったりしない?」

「少し、疲れているだけです。大丈夫です」

「そうなの? もし仕事が大変なら、冬梅に言って……」

「いえ! 本当に大丈夫ですから!」

 必死に言う夏花に、璃鈴はあまり無理に言っても逆に夏花を追い詰めそうだとそれ以上聞くのをやめた。


「無理しないでね。そんな時に届けてくれてありがとう。それで、秋華は?」

「さ、さあ。私はこれを皇后様に届けてほしいと言われただけなので……」

 それだけ言うと夏花は、ぺこりと頭をさげて急ぎ足で去っていった。その様子に気をつけて、と言う間もなく、廊下の角で夏花は転びそうになってあわてて姿勢を正す。

 働き者でいい子なのだが、少しあわてんぼうなのが玉に瑕だ。本人もそれをよくわかっていて、璃鈴たちをよく笑わせてくれる。その夏花が疲れている様子だと、璃鈴も心配になる。

(あとで秋華に様子を聞いてみよう)


 扉を閉めた璃鈴は、戸棚にしまう前に夏花の持ってきた缶を開けてみた。まだ若い緑の香りがふわりと立ち上る。

「……龍宗様に、気に入っていただけるといいのだけれど」

 璃鈴は、ふたを戻すと茶器の隣にそれを置いて戸棚を閉めた。

 だが、夕餉の時間を過ぎても、秋華はもどってこなかった。


「どうしたのかしら」

 他の女官に聞いてもわからない、とのことで、璃鈴は気をもんでいた。かた、と扉の開く音に璃鈴が振り向く。

「秋華?」


 だが、そこにいたのは龍宗だった。龍宗も、璃鈴の呼びかけに面食らったようだ。

「龍宗様! す、すみません。つい秋華かと……」

「あの女官は不在か?」

「はい。夕方から姿が見えなくて……」

 長椅子に腰掛ける龍宗に、璃鈴はいつものようにお茶を入れる。


「今日はお早いのですね」

「ああ。件の女官から、今日は話があるから夕餉の後にくるように、と伝言をもらったのだ」

「秋華が、ですか?」

「実際に来たのは他の女官だったから本人ではなかったがな。お前がなにか用があるのかと思ったのだが」

 尋ねた龍宗に、璃鈴は首を振る。

「いいえ、私は何も……もしかしたら、これかもしれません」

 璃鈴は、夏花が持ってきたお茶の缶を見せた。


「秋華が、とても珍しいというお茶を用意してくれたのです。何でも南方の希少なものだとか」

 璃鈴は丁寧にお茶をいれて龍宗の前に茶器を置く。だが龍宗はちらりとそれを見ただけで手を出そうとしない。

 いつもと変わらないその様子を見て、璃鈴はもやもやと心に浮かんでいた疑問がしだいに形作られていくのを感じた。

(やっぱり……)


「それより、他の妃たちの様子はどうだ」

「様子、ですか」

 璃鈴はため息をついた。


 後宮内でも、他の妃たちに会うことはめったにない。ほとんどの時間を彼女たちは、自分たちの部屋に閉じこもっているのだ。たまに談話室や庭で見かけることもあるが、たいていは璃鈴の顔を見ると、声もかけずに離れていってしまう。

 巫女の里も同じように女性ばかりだったが、里とは違うぎすぎすした雰囲気に、璃鈴は少しばかりまいっていた。


「まだ、あまりお話もいたしておりません。もう少し、お互いに分かり合えると良いのですけれど……」

 龍宗の手前そうは言うが、それは必ずしも璃鈴の本音ではなかった。

 あきらかに自分を疎んでいる彼女たちにどういう態度を取ったらいいのか、璃鈴自身もわからない。
「淑妃たちから、茶の誘いなどはないか?」

「いいえ。残念ながら」

 璃鈴は、時々他の妃たちが庭で茶会など開いていることを知っていた。けれど、声を掛けようとすれば、すぐに彼女たちは部屋に戻ってしまう。最近では、妃たちが集まっているのを見てもなるべく姿を見せないようにしていた。


 うなだれる璃鈴を見て、龍宗は独り言のようにつぶやく。

「やはり、そうだろうな」

 淑妃の言っていた璃鈴の様子は、龍宗の知っている璃鈴の姿とは重ならなかった。

「あの、でもいずれきっと、仲良くなることはできると思います。ですから、龍宗様は何も心配しないでくださいましね」

 けなげにもにこりと笑う璃鈴を見て、龍宗は目を細める。


 璃鈴が後宮に来てから数か月になる。その間、淑妃がこぼしたような愚痴めいた苦言を、龍宗は彼女から聞いたことは一度もなかった。

 強引に璃鈴を後宮へと迎えた自覚があった龍宗は、わずかな罪悪感と緊張を持って彼女を迎え入れた。当初は恨み言の一つも聞く覚悟だったが、そんな龍宗の不安など全く無意味だったことを、龍宗は璃鈴との日々で感じ取ることができた。
 璃鈴は、ひたすらに純粋に、龍宗を慕ってくれた。


「龍宗様?」

 自分をみつめてくる無垢な瞳は、今はもう、龍宗にとってなにより安らげる場所を作ってくれている。だから龍宗は、璃鈴が嘘をついているとは思わないし、璃鈴が嘘をついていない以上、違えた話をしているのは淑妃の方だとわかることができる。

 そんな自分に、龍宗は自嘲した。

(なのに、俺はまだ……)


「いや、こっちの話だ。……あの女たちは、俺の子を産むためにこの後宮に入れられた」

「はい」

 璃鈴は、表情をひきしめる。

「どの女たちも、誰かどうか官吏たちと縁戚関係にある。それが、どういうことかわかるか?」

 面白がっている顔で、龍宗は璃鈴を見上げた。

「権力争い……」

「そうだな。その一言につきる」 

 重いため息をついて、龍宗は背を長椅子に預けた。


「俺を籠絡しろ、皇后に負けるな、と言われてここへ来たんだろう。どの女たちも、美貌、知性、どれをとっても国でも有数の素晴らしい女たちだ」

 龍宗は、明貴たちの見事な舞を見た時のことを思い出す。舞も琵琶も、そして玉祥の指の先まで神経を使うような優雅な仕草も、以前の後宮を見たことのある龍宗の知る限りでも極上の女性達だった。

 なのに、龍宗の気を引くことだけにしかその能力を発揮できない場所に追いやられた彼女たちを見て、龍宗はなんと哀れな、と思わずにはいられなかった。その憐れむような笑みを、玉祥は誤解したようだったが。


「場所を違えれば別の幸せが彼女たちにもあるだろうに、せっかくの花の盛りをこんな狭い宮で寵を競わせて……哀れなことだ」

 璃鈴は、わずかに目を丸くする。龍宗がそんな風に思っているとは思わなかった。

「後宮の妃はそのすべてが、ただ一人、皇帝陛下のためだけにある存在です」

 龍宗は顔をあげた。璃鈴が、わずかにまつげを震わせる。


「美貌も知性も、それが国で最高の方のためにささげられるものだからこそ、妃たちは競って自分を磨き上げるのです。皇帝陛下は、それほどに尊い存在なのですよ。そして選ばれた女性が陛下の皇子を産んで……後宮とは、そういう場所です」

「……そうだな。何より、俺が言うことではないな」

 我に返った龍宗は、苦笑する。そして、あまりに他の女性を褒めすぎたことに気づいたが、璃鈴自身はそのことは気にしていないようだった。


 龍宗は璃鈴の手をひいてその瞳をのぞきこむ。

「怒ったか?」

 璃鈴は複雑な表情で口を開いた。

「そんなことはございません。龍宗様の言う通り、他の妃の方々は素晴らしい女性ばかりですもの。龍宗様に喜んでいただけるのでしたら、後宮の妃としてはこの上ない喜びでしょう。でも……」

 口では否定しても、璃鈴は少しばかり機嫌を損ねていた。


「そんな素晴らしい妃様方の中において、私は美しさも知性も持ち合わせておりませんし……龍宗様があの方々の元へとお通いなさいましても文句なんて言えませんし……」

 龍宗に直接文句も言えず横を向いて小さくつぶやき続ける璃鈴を見て、龍宗は笑いをこらえるのが精いっぱいだった。

 自覚がないまま嫉妬している璃鈴に、龍宗は愛しさがつのる。

「本当にお前は、かわいいな。では、作るか?」

「作る?」

「俺の皇子だ。作り方を知らなければ手取り足取り教えてやるぞ」
 いずれは皇帝の子を産むことも、皇后としての璃鈴の義務だ。特に今のように皇太子が存在しないこの国にとって、皇帝の子を産むことは最重要事項に位置する。後宮へきて数か月になるが、璃鈴には自分が身ごもっているという自覚はまだなかった。

 同衾すれば子供ができると思っていたが、龍宗の言い方だと、子を授かる方法というものが何かあるらしい。


「作り方……陛下は知っているのですか?」

 からかったつもりが真面目な目で聞かれて、龍宗は少しばかりひるむ。

「理屈は知っているが、まだ試したことはないな。だから、もしかしたら、お前が満足するようにはできないかもしれない」

「満足……? 私が、ですか? 龍宗様は、満足できるのですか?」 

 龍宗は、璃鈴の頬を人差し指でなぞった。はりのある白い肌が、龍宗の指をひかえめに押し返す。その感触で、ざわりと自分の奥に熱がうごめくのを、龍宗は感じた。


「想像でしかないが、おそらくできるような気がする。お前の身も心も自分のものになったと確信できた時を思うと、今ですら身震いするほど気分が高揚するのだからな」

「私のすべては、とっくに龍宗様のものです。それとも、今以上にもっと、私は龍宗様のものになることができるのですか?」

「やってみれば、きっとわかる」

 話しているうちに、璃鈴は龍宗の目が熱を帯び始めていることに気が付いていた。そういう時はたいてい、龍宗が口づけを求めてくるときだ。この数か月で、璃鈴はそう理解していた。


 龍宗は、璃鈴の頬に触れていた指を滑らせて、そのなめらかな髪の中にさしこむ。小さな頭を片手で包むと、龍宗は、ぐ、と璃鈴の頭を引き寄せた。


 龍宗の熱を受け止めることに、璃鈴も慣れてきていた。初めての時は触れるだけだった口づけも、最近はその時間が長くなってきた。慣れてくれば、離れる時には寂しいとすら思ってしまう。時折唇を甘く噛まれれば、全身が震えて今まで吐いたこともないような甘い吐息が漏れた。早くなる自分の鼓動に息苦しさを感じても、璃鈴はその感覚すらも次第に気持ちいいと感じるようになってきていた。


(龍宗様……)

 近づいて来る龍宗を待ちわびて、いつものように目を閉じようとした時だった。

「璃鈴」

「はい」

「俺は、一つだけお前に嘘をついた」

「え?」

 ぱちりと目を開けると、龍宗が目を細めて璃鈴を見ている。

「俺は……」

「陛下!」


 突然、先ぶれもなく扉がひらかれ大きな声がした。二人が振り向くと、そこにいたのは尚宮の伝雲だった。

「いけません、陛下! そのお茶を飲んでは!」

 あまりの剣幕に、何が起きたのかわからないまま龍宗と璃鈴は、ぽかんとして彼女を見ていた。

「そのお茶には、毒が入っております!」

 伝雲の指さした先には、先ほど璃鈴が入れた茶があった。

「その女は、皇后という立場を利用して龍宗様に害をなそうとしているのです」

 伝雲の後ろから、周尚書が現れる。


「周尚書、何を言っている」

 さすがに龍宗が眉をひそめるが、周は全く気にせず笑う。

「危なかったですな。その女は、功儀国の間者です。雨の巫女とは名ばかり。神族の里からこちらへ来る途中、本物の巫女とすり替わったのです」

「だが、璃鈴は雨を降らせることができたではないか。第一、神族の里へは飛燕が直接迎えに行って連れてきた。すり替わることなど……」

「雨など、待っていれば降るのは当然の事。そして、その来飛燕殿こそ功儀国と通じていたのですよ」

「な……!」
 あまりの突飛な内容に、龍宗はあきれて二の句がつげない。璃鈴もただ茫然とその話を聞く。

 その様子を見て、憎々し気に伝雲が続けた。

「その証拠がその毒のお茶です。陛下の信頼を得てからその命を狙おうなどと……全く、恐ろしい小娘ですわ」

「そんな……このお茶は、秋華が……」

 言いかけたが、その秋華がここにはいない。

「秋華? お前と一緒に来たあの娘ですね。お前は、その娘に罪を押し付けようというのですか?!」

「違……!」

 言いかけて、ふと璃鈴は気づいた。


 ここに秋華がいないのは、偶然なのだろうか。璃鈴の胸に、恐ろしい予感が広がった。


(秋華は、どこ?)

「陛下、こちらへ。その娘は危険です」

 は、と璃鈴は龍宗をみあげるが、龍宗は毅然として周尚書に言い放った。

「璃鈴は、そんなことはしない」

「龍宗様……」

 だが、伝雲はそんな龍宗の様子にも全く引くことなく続けた。


「騙されてはいけません、陛下。この女官が証言いたしましたわ。その秋華と言う侍女に言われて、毒入りのお茶を用意したと。それも、皇后の指示だったのですね」

 璃鈴は、伝雲の後ろに真っ青になって震えている夏花を見つけた。璃鈴と目が合うと、今にも泣きそうな顔で夏花はうつむいてしまう。

 仕組まれたと、璃鈴はすぐに気づいた。確かにあの時の夏花の様子はおかしかった。夏花は、あの時に自分が持っていたものを知っていたのだ。

(夏花……つらかったでしょうに)

 あのとき、もっとそのことについてちゃんと考えてみればよかった、と璃鈴は後悔するが今ではもうどうにもならない。なにより、どうしたらそれを証明できるのかがわからない。


「その女を捕縛せよ」

 周尚書がそう言うと、その背後から衛兵がばらばらと現れた。とっさに璃鈴は、龍宗の腕をつかむ。

「璃鈴に触れるな!」

 龍宗の鋭い声に、衛兵たちはびくりと足を止めた。

 衛兵たちから守るように自分の目に立ちふさがった龍宗を、璃鈴は見上げる。


「龍宗様は、このことを心配しておられたのですね?」

「璃鈴?」

 怪訝な声で、龍宗は璃鈴を振り向いた。

「龍宗様は、後宮では一度も、食べ物も飲み物も口にされたことがございません」

 は、と龍宗は表情をこわばらせた。そんな龍宗を切なそうに見てから、璃鈴は卓に置かれた茶碗に視線を落とした。


「このお茶には、毒が入っているのですか?」

 伝雲は、その言葉を聞いてあざ笑う。

「何を白々しい。それは、お前が一番知っているのではないのですか?」

 璃鈴は、まっすぐに龍宗を見つめた。

「私は、このお茶に何もいれておりません」

 そう言うが早いか、璃鈴は茶器を手にすると、その中にあった茶を一気に飲み干した。

 夏花の悲鳴が響き渡る。

「皇后様!」


「ばかな……璃鈴!!」

「信じてください。私は……龍宗様、を……決して……」

 全てを飲み下すと、途端に胸が焼けるような激しい痛みが襲ってきた。璃鈴の視界が瞬く間に暗くなっていく。遠くで龍宗が呼ぶ声が聞こえた。

(信じて……ください……)

 それだけを考えながら、璃鈴の意識は薄れていった。


  ☆


「……殿、秋華殿!」

 自分が呼ばれていることに気づいて、秋華は、ふと、目をあけた。


「ああ、よかった。ご気分はいかがですか?」

 ほ、としたように微笑んだのは、飛燕だった。

「飛燕、様……? どう……痛っ!」

 自分が横になっていることに気づいた秋華は、言いながら体を起こそうとして、ずきりと痛んだ頭を押さえた。


「無理に起きてはいけません。頭が痛いのですか?」

「少し。……ここは?」

 体を起こした秋華は、その場に座りこむ。秋華の寝ていたのは、冷たいむきだしの土の上だった。薄暗いその場所を、秋華は見回す。
「ここは、古い地下牢です」

 同じようにあたりを見回しながら飛燕が言った。

「地下牢?」

「はい。数年前に新しい地下牢が完成しましたので、今はもう使っていませんが」

 牢と聞いて秋華は、その不気味さのためかそれとも実際に寒かったからか、ふるりと体を震わせた。窓もなく、通路に等間隔に置いてある灯が心もとなく揺れている。雨が続いているせいで、じめじめと湿っぽくひんやりとしていた。


「私が連れられてきたときには、すでにあなたはここに横になっておられました。ここに来る前になにがあったのか、覚えておられますか?」

 飛燕が心配そうに問う。混乱する頭で、秋華は一生懸命今までのことを思い出そうとした。

「ええと……確か、冬梅様に呼ばれていると言われて璃鈴様の部屋を出て、それで……あ」

 後宮の廊下を急いでいる時に、ふいに後ろから誰かに掴まれて顔を覆われた。驚いて暴れる暇もなく、何か甘い匂いがして、それからの記憶がない。


「薬を使われたのですね」

 秋華の話を、飛燕は難しい顔をして聞いていた。そして、失礼、と断ってから秋華の額に手をあてる。

「熱はないですね。けがもないようですし、その頭痛はおそらく薬を使ったせいだと思います。気持ち悪くはないですか?」

「その、さっきからなんだか視界がぐらぐらと揺れているような気がして……気持ち悪い……」

「遠慮せずに私に寄りかかってください」

 そう言って飛燕は秋華の隣に座り、着ていた上着を脱ぐと秋華にかけてくれた。


「ありがとうございます。でも、これでは飛燕様が……」

「私は大丈夫です。これでも鍛えてますのでね。ここは冷えますから、どうぞかけていてください」

 わずかに笑んだ飛燕に、秋華は少しだけ安堵の笑みを浮かべる。飛燕が一緒にいることで、異常な状況にあることの心細さは半減した。


 まだめまいの続いていた秋華は遠慮がちに飛燕に肩を借りると、ぼんやりと上を見上げる。秋華ですら手が届きそうなほど、その天井は低い。飛燕なら立つこともできないだろう。

「なぜ私たちは、こんなところにいるのでしょう?」

 飛燕が、表情を引き締めた。

「皇帝暗殺未遂の罪だそうです」

「ええ?! なぜです?!」

 驚く秋華に余計な混乱をさせまいと、飛燕はことさら落ち着いて言った。


「周尚書がいらっしゃって、私が功儀国と通じていると。おそらくあなたも、同じ罪を着せられたのでしょう」

 その名前を聞いて、さ、と秋華の顔が青ざめた。薄闇の中ではあったが、それを飛燕は見逃さない。

「何か、心当たりがあるのですね?」

 わずかにうつむいて、秋華は自分の手を握りしめた。秋華の葛藤を感じて、飛燕は穏やかに続きを促す。

「よければ、話してください。このままでは、私たちはおそらく死罪になってしまいます」

 は、と顔をあげた秋華は、覚悟を決めるように一度唇を引き締めると、絞り出すような声で言った。


「周尚書は……私に、皇后様のお食事に、毒を混ぜろと……」

「なんですって?!」

「でも!」

 つい叫んでしまった飛燕を、秋華は涙をためた目で見返す。

「私は確かに毒を受け取りましたが、皇后様のお口に入れるようなことは一切しておりません!」

「ああ、いえ。あなたがそのようなことをするとは思っておりません」

 悲痛な声で言った秋華に、飛燕は、なだめるように続けた。


「かいがいしく皇后様のお世話をしているあなたは、心からあの方を大切に思っているのだと見ていてもわかりました。皇后様も、まるで本当の姉のようにあなたを慕っておられた。あなた方の間にある信頼を、私は疑ってはおりません」

「飛燕様……」

 くしゃり、と秋華の顔が歪む。
「ただ、周尚書が直接的な手を使ってきたことに驚いただけです」

 秋華はまたうつむいてしまう。しかし、今までずっと心の中にためてきた思いは、一度その口から出始めるともう止まらなかった。


「初めてその話をされた時は、間違ってもそんなことはできないと断るつもりでした。どんなに脅されても、私の命と引き換えになるとしても、私が璃鈴様を裏切るなどできないと……けれど、私が引き受けなければ、周尚書はきっと他の誰かに同じことをやらせるのだと気づいたのです。少なくとも私が周尚書の言うとおりにしている間は、璃鈴様の身は安全かもしれないと……でも、周尚書と璃鈴様の間を行き来している間も、どうしたらいいのか……誰に相談したらいいのか、わからなくて……私は……」

 話ていいる間もかたかたと震え続けていた秋華の手を、そっと飛燕が握る。


「あなたは強い人だ。その判断は、正しかったと思います。よく、お一人でがんばりましたね」

 思いがけずねぎらわれたことで、秋華の目から我慢できずにぽたぽたと涙が落ちた。

 璃鈴を守るために、周尚書たちの話にのせられたふりをして、必死に彼らをだまし続けてきた。だがそうやって自分を偽り続ける日々は、秋華の神経を常にすり減らしていった。

 今、飛燕の優しい声を聞いて、ずっと誰にも言えずに胸の中に籠めておいた黒いものが緩やかに溶けだしたのだ。


 しばらくの間声もなく涙を落としていた秋華は、しゃくりあげながら一つの可能性を口にする。

「ですが、私がここにいるということは、もしかしたら皇后様にもなにか……」

 その言葉に、飛燕は頷く。

「私も問答無用でここへ入れられました。とにかく一度陛下に……」

 その時、飛燕がふと何かに気づいたように顔をあげた。

「そうはいかない」

 突然、知らない男の声が割り込み、二人は格子に目をやる。薄暗い通路には、複数の影があった。飛燕は、すばやく視線を走らせてその気配を探る。

(全部で……五人、か)


 がちゃりと牢の戸が開いて、そのうちの一人が入ってきた。衛兵の服を着たその男は、にやりと笑う。

「お前たちには、ここで死んでもらう」

 とっさに飛燕は秋華を背にかばった。

「お前は?」

 飛燕の鋭い眼光にひるむことなく、男は続ける。

「知る必要はない」

「周尚書の命令だな」

 それには男は答えずに、すらりと腰の刀を抜いた。飛燕も普段は佩刀しているが、牢に入れられる時に剣は取りあげられてしまっていた。


 罪人と謁見するときには、不必要な暴力を防ぐために必ず二人以上でという決まりがある。だが牢の外の男たちは、その決まりを守るためにそこにいるわけではなさそうだ。

(ここでどれほど騒いでも、誰も気づかないな)


 飛燕は秋華を背にして、牢に入ってきた男を睨む。

「この方は、神族の巫女であるぞ。その巫女に手をあげるか」

「何が雨の巫女、だ。そんなおとぎ話、今どきは子供だって信じないぞ」

 男は、ばかにしたように鼻で笑った。

「皇后にしたって、しょせんただの小娘だろう? そんな女をわざわざ皇后になんか据えているから、この国はだめなんだ。陛下だって、ふさわしい地位の妃を持てば目が覚めるだろうさ」

「お前たちは何も知らない」

 飛燕はあくまで冷静だ。その様子に、目の前の男は逆に苛立って剣を構えなおした。

「おとなしく死にな」


 ぶん、と振り下ろした剣を、飛燕は秋華を背にかばったままよける。だが、満足に立ち上がることもできないせまい牢の中では、思うように動くことができない。


「おいおい、そんな丸腰相手になに遊んでんだ」

「とっとと片付けろよ」

 牢の外にいる男たちが野次を飛ばす。

「うるせえ! こいつ、ちょろちょろと……!」

 仲間にからかわれた男の剣が、目標を変えて飛燕の背後にいた秋華を狙った。

「!」

 とっさに秋華の前に出した飛燕の腕が剣をとめる。同時に、その腕からばっと鮮血が飛んだ。

「飛燕様!」