雨の巫女は龍王の初恋に舞う

「あ……すまん。更衣中だったとは」

「いえ……す、すみません!」

 あわてて璃鈴は手にした衣で体を隠す。その場に硬直してしまった龍宗も、一瞬の後に我に返ると急いで扉を閉めた。


 扉を閉めても、今見た光景は龍宗の頭から離れなかった。

 一糸まとわぬ白い素肌にはりついた濡れた黒髪。丸みを帯びた腰つき。衣の上からではわからなかった胸のふくらみの大きさ。その先を彩る淡い小さな円環。

 初めて見たその美しさに、龍宗の動悸はかつてないほどに激しくその胸で打ち続けている。


「まあ、陛下」

 お茶を手に戻ってきた秋華は、扉の前にたたずむ龍宗を見つけた。

「どうぞ、中へ」

「いや……その、今は、いい」

 歯切れ悪く言った龍宗に、秋華は璃鈴がまだ着替えが終わっていないことを悟った。珍しく動揺する龍宗の様に、秋華は顔をほころばせる。


「なんだ」

 その様子に気づいた龍宗が、軽く秋華をねめつける。

「いえ、その……失礼しました」

 笑いを含むその口調に軽く咳払いすると、龍宗はぶっきらぼうに言った。

「閨のことは何も知らなくても、羞恥がないわけではないのだな」

 ふてくされたような物言いに、秋華は苦笑する。


「ご不快な思いをなされたでしょうか。何分、璃鈴様はなんの皇后教育もなされないままにこちらにいらしたものですから……」

「そうなのか?」

 驚いたように龍宗は秋華を見る。

「はい。巫女は十六になって皇后の資格を得ると同時に、皇后としての教育を始めるのです。夫婦としての生活もその時に。璃鈴様は十六になられたその日にこちらにまいりましたので、閨のことについては何もご存じないのです」

「なるほど。そうだったのか」

 納得したようなその顔に、秋華は龍宗もまた、璃鈴の態度に戸惑いを感じていたのだと知った。


「ご迷惑をおかけいたしましたようで、申し訳ありません。早速、璃鈴様には教育の続きを……」

「必要ない」

 鋭い語気に、秋華は言葉を止めて龍宗をみつめる。だが咄嗟に否定してしまった自分の言葉に、龍宗自身も驚いているようだった。

「そうでございますか?」

「あ、いや……」

 あどけない璃鈴の無垢な部分がなくなることを残念だと、龍宗は身勝手にも思ってしまったのだ。けれどすぐに、そんな自分を恥じる。 


 皇后には皇后としての大切な役割がある。それには、夫婦の契りは避けて通れない。知ることで璃鈴の恐怖がやわらぐのなら、それはとても大事なことだ。

「少しは、知っていた方がいいのか。もしその方が璃鈴のためになるなら……」

 ぶつぶつと考え始めてしまった龍宗を、秋華は微笑ましく見つめる。


 皇帝なら、神族の娘との契りに特別な意味があることを知らないはずがない。それでも龍宗は、何も知らない璃鈴を無理に散らそうとはしていない。璃鈴が本当に大切にされていることが、秋華にもまるで自分のことのように嬉しかった。

 どうやら結論の出たらしい龍宗が、顔をあげた。


「もうしばらくは、あのままでいい。慣れたら、お前に頼むこともあろう」

「かしこまりました。では、ぜひよきお導きを」

 心から深く頭を下げた秋華は、一人で部屋の中へと入る。璃鈴は、一通り衣を身につけ終わった後だった。
「璃鈴様、陛下が廊下で……」

「え、ええ、もういいわ。入っていただいて」

 璃鈴がぎこちなく言うと、秋華は持っていた茶を璃鈴の前に置く。そうして璃鈴が体を拭いた衣を片付けると、廊下で待っていた龍宗に扉を開けた。


「すまなかった」

「いえ、私こそお見苦しい姿をお見せいたしまして申し訳ありません」

「見苦しいなどと……美しかった」

「え?」

「ん」

 つい、口にしてしまったらしい龍宗が、気まずそうに視線をそらす。璃鈴も火照った顔で、うつむいた。


 二人の様子にいたたまれなくなった秋華は、急いで龍宗に茶を入れると早々に部屋を出ていった。

 沈黙が落ちる。

「よくやったな」 

 龍宗が、本来の目的を思い出して言った。


「……?」

「これで大地も潤うだろう」

 龍宗の視線が窓の外に向かっているのを見て、璃鈴も気づいた。

 外では、激しい音をたてていまだ雨が降り続いていた。


「夕べ、陛下にご指導をいただいたおかげです」

 その言葉に何かを言いかけた龍宗だが、考え直したように口を閉じてしまった。

 また、沈黙が二人の間に落ちる。口を開いたのは、またも龍宗だった。


「今日は、少し時間が取れた。午後は、お前につきあおう」

「よろしいのですか?」

「ああ。飛燕にも、ゆっくりしてこいと言われた。なにかしたいことはあるか?」

 璃鈴は少し考えてから、ぱ、と顔を輝かせた。

「なんでも、よろしいのですか?」

「かまわんぞ」

「では、もう一度一緒に舞っていただけますか?」

 龍宗は目を見開いた。


「だめでしょうか?」

 即答しない龍宗を見て、璃鈴はうなだれる。上目遣いになったその表情は、意図せずに龍宗の気分を高揚させた。

 が、龍宗はそれにいささかの抵抗を感じていたので、わずかに眉を寄せる。


「だめではないが……できればあれは、今はあまりやりたくない」

「なぜ、とお聞きしてもよろしいでしょうか?」

 母親の舞を見ていたから、という秋華の言葉には璃鈴は懐疑的だ。あれは、見ているだけで覚えた、という度合いのものではない。


「そうだな」

 龍宗は、璃鈴に手を伸ばす。

「もう少しお前が、俺に慣れたら話してやってもいい」

「慣れたら?」

「ああ。来い」


 口の端をあげて笑んだ龍宗に、璃鈴は緊張して立ち上がるとその手を取った。そ、と璃鈴を引いた龍宗は、くるりとその体を反転させると自分の膝の上に座らせる。

 予想外の行動に、璃鈴は動揺してその膝から降りようとするが、龍宗はがっちりと後ろから抱きしめて離さない。


「あの! これでは龍宗様が重いのでは……」

「なんの。まるで羽を乗せているみたいだぞ」

 璃鈴は、自分の体に巻きつく硬い腕に、どきどきと胸の鼓動が激しくなるのを感じた。

「こ、こんなことが、舞に必要なのですか?」

「そうだ」

 言いながら、龍宗は璃鈴の白いうなじに唇をつけた。びくり、と璃鈴は体をこわばらせる。


「何を、なさっているのですか?」

「今日は、ずっとこうして添っていよう」

 璃鈴の問いには答えずに、龍宗が言った。璃鈴は、息苦しくなってくらくらとめまいすら感じる。

「龍宗様……」

「なんだ」

「苦しいです……」

「そんなに力は込めていないが」

「いえ、その……うまく息ができなくて、胸が……苦しくて……」

 言われて璃鈴の顔を覗き込んだ龍宗は、真っ赤な顔になったその顔を見て意地悪く笑みを浮かべた。


「これで楽に息ができるほどに慣れたら、いつか教えてやろう」

「そんな日は、来ないと思います」

「なに、一日こうしていたらきっとすぐに平気になるだろう」

「なりません!」

 悲鳴のような声をあげた紅華に、龍宗は声を上げて笑った。


  ☆

 今日もまたしとしとと雨が降っている。璃鈴が雨を降らせてから三日。降り続いた雨は、最初の勢いを弱めていた。

 龍宗もいつも通りに書簡を繰っているが、飛燕はここ数日、彼が時々ぼんやりしていることに気づいていた。

 今日もいつの間にか手が止まっていた龍宗に、飛燕は声をかける。


「心ここにあらずといった様子ですね」

「ん? 何か言ったか?」

 人目のない時の飛燕は、龍宗に気安い。龍宗もまた、飛燕と二人だけの時は宮城にいてもくつろげる時間だ。



「陛下が心奪われているものはなにか、と思いまして」

 ぼんやりとしたまま龍宗がぽつりとつぶやく

「女人の体とは、あれほどに美しいものだったのだな……」

「は?」

 決裁書類をまとめていた飛燕は、手を止めて顔をあげた。

「陛下……?」

「……いや、なんでもない」

 めずらしく気まずそうに、龍宗はあわてて決裁を再開した。その様子に、飛燕は、ふ、と顔を緩める。


「なるほど、のろけですか。まだ結婚して一ヶ月ですから仕方ないですが、あまり皇后様をお疲れさせますな」

「一ヶ月……もうそんなになるか」

 自分も再び書類に目を落としながら飛燕は言った。

「もっと後宮へ通ってもよいのですよ。皇后様が淋しがっておられるのではないですか?」

 龍宗の手がまた止まっているのを見て、飛燕はお茶を入れようと席を立った。


「飛燕」

「はい」

「お前は女を知っているか?」

 思わぬことを聞かれて飛燕が振り向くと、存外真面目な顔で龍宗は窓の外を眺めていた。どうやら、ただからかわれているだけではないらしいとわかって、飛燕は苦笑する。


「いえ。これといって縁がなく」

「縁があっても、俺もまだ女を知らない」

 それを聞いて、飛燕は思わず茶碗を落としそうになる。

「は? ……今、なんと?」

「何度も言わせるな」

「いや、あの……では、陛下は、まだ皇后様とは……?」

 うなずいた龍宗に、飛燕は目つきを鋭くした。


「何故です? 龍の皇帝としての夫婦の役割を、あなたは誰よりもわかっているでしょう? それなら……」

「あれは、まだ俺におびえる」

 わずかに苦悩をにじませた物言いに、飛燕は続けようとした言葉を飲み込む。

「無理やり抱いて、璃鈴の信頼を失いたくはない」

「龍宗様……」

 わざわざ飛燕が言わなくても、本人はよくわかっているらしい。


 それ以上苦言を続けようのなくなった飛燕は、とりあえずお茶の続きを入れることにする。部屋に、飛燕の扱う茶器の音だけが響いた。ぽつぽつと、独り言のように龍宗は続ける。

「皇帝としての務めを果たさなければならないのはわかっている。必要なら、璃鈴の心など関係なく抱けばいい。だが俺は、できればそんなことはしたくない」

 飛燕はいれたばかりの茶を一口飲むと、龍宗の前にことりと置く。やわらかい湯気が二人の間に立ちのぼった。それを見つめる顔は、龍宗にはめずらしく途方に暮れたように見えた。


「どうしたら、あれの心を掴めるだろう」

「短気なあなたが、皇后様のことは待てるのですね」

 言われて初めてそのことに気づいた龍宗が顔をあげる。飛燕はおだやかに笑んだ。

「龍宗様がそれほどに我慢をなされているのは、初めて見ます」

「俺がよほど短気のようではないか」

「その通りでございましょう。あなたは昔から気が短くて、特に政治に参加するようになってからは官吏と衝突するたびに私がどれだけ苦労をしたことか……」

 わざとらしく肩をすくめた飛燕の言葉に、龍宗は手元のお茶を飲んでごまかす。


「それはともかく、璃鈴のことは、まだ急ぐときではない……はずだ」

「そうですね。あなたは短気で乱暴なところもありますが、国政においてそれほど間違ったことはしてはいないと私は思っております」

「俺は一応褒められたと思っていいのか?」

「あなたがそう思うのなら」

「だったら、もう少し素直に褒めたらどうだ」

「龍宗様の口から、素直に、なんて言葉、言われたくありません」

 口の減らない飛燕に、龍宗は苦笑するしかない。だがすぐその顔は、厳しく結ばれた。


「もし俺がこの国を亡ぼすようなことになったら……その時は、お前が俺を切り捨てろ、飛燕。お前には、それを許す」

 一瞬、目を見開いた飛燕は、薄く笑った。
「そうですね。あなたを殺すのは私の役目です。他の誰にも譲りません」

 その答えを聞いて、龍宗は満足そうに笑んだ。
「璃、璃鈴様っ!」

「秋華、どうしたの。そんなにあわてて」

 次の日、璃鈴が朝餉を終えてのんびりしていると、冬梅に呼ばれて出て行った秋華が転げるように部屋に戻ってきた。

「冬梅は、なんのご用事だったの? 今朝からなんだか騒がしかったけれど、その件かしら?」

「実は……」

 秋華の説明に、璃鈴も思わず立ち上がった。


  ☆


 後宮の一画には、大きな談話室がある。大きな窓に囲まれた明るく広い部屋には、妃嬪たちがゆっくりくつろげるような調度が揃えてあった。お茶を飲んだり歓談したりするための場所だ。そう、璃鈴は聞いている。

 璃鈴がその談話室に入ると、そこには三人の艶やかな女性が座っていた。璃鈴が入ってきたことに気づいただろうが、彼女たちはちらりと璃鈴を一瞥しただけで、立ち上がる気配もない。これに憤慨したのは秋華だ。


「あなたたち、皇后のおでましであります。あいさつを」

 気色ばんだ秋華の声にも、彼女たちは態度を崩さない。

「皇后と言っても、形ばかりの立場でしょう?」

 そのうちの一人がけだるげに言った。立ったままその言葉を聞いている璃鈴を、頭から足の先まで、無遠慮に視線を走らせる。


「へえ。思ったより子供じゃない。ねえ、見ればわかるでしょう? 私たちは、身分、美貌、知性、すべてを兼ね備えた選ばれた大人の女性なの。あなたと違って、陛下の身も心も満足させることができるわ。かび臭い因習に従って迎えた子供なんて、おとなしく部屋に籠っていればいいのに」

「そんなことを言うものではないわ、明貴。申し訳ありません、皇后様。彼女は緊張のあまり、こころにもないことを口走っているのです」

 三人の真ん中にいた女性が諌めるが、口調は全く悪いとは思っていないのがありありとわかる。彼女が立ち上がると、渋々と言った感じで両側の二人も立ち上がった。


「はじめてお目にかかります、皇后様。私は周玉祥。この度淑妃としてこの後宮にまいりました。以後、よろしくお願いいたします」

 軽く頭を下げたその挨拶は、貴人に対する礼ではなかった。そしてその間も、値踏みするような視線を璃鈴に投げかけている。

「こちらが徳妃の孟明貴、賢妃の朱素香です。では」

 それだけ言うと、玉祥と名乗った女性は、他の二人を従えるようにして談話室を出て行った。その様子を見れば、どうやら三人は以前よりの知り合いらしかった。


「後宮に新しい妃が入ること、秋華は何か聞いていたの?」

 その後ろ姿を見ながら、困惑したように璃鈴が秋華に問うた。

「いいえ! むしろ、あの冬梅が動揺して私に連絡してきたくらいですから、こちらでは誰も知らなかったのだと思います」

 今日の早朝になって、急に妃が入ることが後宮に通達された。あわてて女官たち総出でそれぞれの宮のあつらえを行わなければならなかったので、朝から後宮はとんでもない大騒ぎだったのだ。


 璃鈴は、複雑な気持ちで秋華に聞いた。

「ねえ、秋華」

「なんでございましょう」

「あの方たちと……私、仲良くなれるかしら」

 妃たちの態度にまだかりかりと腹をたてていた秋華は、思いかげない璃鈴の言葉に目を丸くする。


「仲良く……ですか?」

「ええ」

 言いながら璃鈴は、誰もいなくなった談話室を見渡した。
「ここにたくさんの妃が集まれば、里にいた時のようにまたみんなで楽しく日々を過ごせるかと思っていたの」

 妃のいない後宮は、閑散として寂しかった。女官たちはたくさんいたが、皇后とは立場が違うので、対等に話をすることはできない。だから璃鈴は単純に、ここに妃がいれば、またあの日々が過ごせると思っていたのだ。

 少し寂しそうな璃鈴を見て、秋華は複雑な気分になる。


「璃鈴様。ここは後宮です」

「そうね」

「皇后様の巫女としての職務はともかく、後宮にいらっしゃる妃にとっての一番大切な役割はご存知ですよね?」

「もちろんよ。皇帝の御子を産んで、次代の皇帝を……」

 言いかけて、ふ、と璃々は気づいた。

(そうだ。後宮の妃の役割は……)


「後宮の妃たちは、すべて皇帝陛下のものでございます。これからは皇帝陛下も、璃鈴様だけではなくあの方たちの元へもお通いになることでしょう。今はまだあのお方たち三人だけでございますが、今後さらに大勢の妃がこの後宮にいらせられることになります。ですが、その方たちと璃鈴様が里のみんなのように屈託なく仲良くなれることは……ほぼ、ないと思ってください」

 誰が皇帝の子……皇太子を産むか。後宮では、それが一番の関心事だ。それぞれの妃嬪が寵を競い合うのは、ここではそれがすべてだからに他ならない。


 里とは違うのだ。


 愕然としてしまった璃鈴を見て、秋華は璃鈴の淡い夢を打ち砕いてしまったことを少しだけ悔いたが、それでもこれは璃鈴が正しく理解しなければいけないことだ。先ほどの妃たちの態度から、おそらく璃鈴も感じることができただろう。わかっていても口にしなければいけないことに、秋華は胸を痛めた。

 さすがの璃鈴も、この状況で彼女たちとこれから仲良くなれると思うほどのんきではない。妃たちの態度に気落ちしたのも確かだが、璃鈴はそれとはまた別の事に思い至って、衝撃を受けていた。


(龍宗様は、あの方たちとも、私と同じように笑い合うの……?)

 それは当然の事だと璃鈴も頭ではわかっている。なのに、なぜ胸が痛むのか。璃鈴には、その理由がまだわからなかった。

(龍宗様に会いたい)

 だが、璃鈴が次に龍宗に会えるのは、まだしばらく後のことになった。


  ☆


「遅い!」

 書類を持ってきた官吏を、龍宗が怒鳴りつけた。

「昼までには終わらせろと言ったはずだ!」

「も、申し訳ありません。統計範囲が思ったより広く、人手も足りずに……」

「言い訳はいい。さっさとそれをよこして、次の仕事にかかれ」

「はいっ!」

 若い官吏は早々に書類をそこにいた飛燕に渡すと、逃げるように龍宗の執務室を飛び出していった。それを見て、飛燕はため息をつく。


「あまり怒らないでやってください。戸部では今、来年の予算組みでただでさえ忙しいんですから」

「だからと言って仕事をおろそかにする理由にはならない。刻限を守れないような官吏しかいないなら、人員配置を即刻見直せと、吏部に伝えておけ」

 話している間も、龍宗の手元は休まずに動いている。

「少し休んだらいかがですか。今朝から、どなり通しじゃないですか」

 執務室には龍宗と飛燕の二人しかいない。龍宗が苛立っているのを察して、誰も近づいてこないのだ。
「これだけは今日中に終わらせないと」

 そう言う龍宗の前には、まだ稟議書がうずたかく積まれている。確かにそれは時期的に後まわしにできない案件だと飛燕もわかっている。だが、それぞれの関係部署に仕事を振り分ければ、龍宗がこれほどに忙しくならなくて済むことも知っている。


「少しこちらの仕事を、各部署に担当してもらってはいかがですか。無理をすると、お体を壊します」

 ついでに龍宗の機嫌次第ではまわりにも悪影響を及ぼします、とは、賢明にも飛燕は言わなかった。

「無理とわかっていても、俺が目を通さないものを許可するわけにはいかん」

「もう少し、官吏を信用してください」

「あいつらに任せておいたら、いつまでたっても施策が動かないだろう。やはり俺がやらなければ」

 かたくなに我を張ろうとする龍宗に、飛燕は心配そうな声をかける。


「たまには後宮にでも行ってゆっくりしてください。例の妃嬪たちが入ってからもう一週間にもなりますが、その間まだ一度も後宮に顔を出していないではないですか」

 それを聞いて、龍宗は苦虫をかみつぶしたような顔になる。

「俺に無断で女を入れるなど……」


 妃たちの後宮入りに驚いたのは龍宗も同じだった。いや、璃鈴以上に驚いたかもしれない。

 璃鈴との関係を慎重に進めようと思案しているところに、いきなり妃の後宮入りを聞かされたのだ。

 龍宗に知らせずに段取りを組んで三人の美姫を後宮へ入れたのは、古参の官吏たちだ。彼女たちがそれぞれに官吏たちの血に連なるものと知って龍宗は激怒したが、国のため、と押し切られ、今後は龍宗に無断で妃を後宮へ入れないと確約することでなんとかその場は収まった。

 それでも怒りの収まらない龍宗は、それ以来後宮へと足を向けていない。


「あんな女たちに用はない」

「陛下が顔を見せなければならないのは、皇后様です。今頃やきもきしているのではないですか?」

「なにをだ?」

「陛下が、他の妃のもとにせっせと毎日通っていると」

 いきなり、がたり、と龍宗が立ち上がる。思ってもいなかった飛燕の言葉に、目が丸くなっていた。その様子に、飛燕も驚く。


「おや。気づいていらっしゃらなかったのですか?」

「まさか、璃鈴も俺があの女たちへ通っていると……」

「妃が後宮に入って自分のところにはちらりと顔も見せない。この状況なら、普通はそう思うのではないでしょうか」

 あ然としていた龍宗は、目の前の稟議書を睨むと、ものすごい勢いでそれらを片付け始めた。飛燕は、その様子を見て肩をすくめる


「今回のことは別にしても、これから後宮には妃嬪が増えていくでしょう。もしお気に入られた妃がおられましたら……」

「璃鈴以外はいらん」

 飛燕の言葉をばっさりと切る龍宗に、飛燕は目を丸くした。

「よろしいのですか?」

「俺は、璃鈴さえいればいい」

 束の間、龍宗は筆を止めた。


「……璃鈴は、悲しんでいるだろうか」

 小さなつぶやきに対する答えは、飛燕が言うべきものではなかった。だから飛燕は、肩をすくめて龍宗の硯に新しい墨を足しただけだった。


  ☆
 璃鈴は、寝支度をするといつものようにお茶の用意を始める。いつ来るともしれない龍宗のための茶だ。その姿を、秋華は少し悲しそうに見る。

「璃鈴様、あの、私が用意いたしましょうか?」

 秋華が声をかけると、璃鈴はゆるりと首を振った。

「ううん、いいの。私がやりたいの。夜って、長いのね。手持無沙汰なのよ」

 はんなりと微笑んだその姿に、秋華はわずかに面食らった。


 姿そのものが変わったわけではない。だが、わずかに憂いを帯びたその顔は、あきらかに幼い少女のものではなかった。

「璃鈴様……?」

「どうしたの?」

 ぱちりと瞬いた次の瞬間には、もう普段の璃鈴に戻っていた。

「璃鈴様こそ……あ、いいえ。なんでもありませんわ」

 不思議そうな顔をした璃鈴は、ぽすんと長椅子に腰掛ける。


「ねえ、秋華」

「なんでございましょう」

「お化粧を、教えてくれない?」

 ぼんやりと視線を落としたまま、璃鈴が言った。

「お化粧……ですか?」

「ええ。妃の方々は、みんなきれいにお化粧をしていたわ。私も……お化粧したら、あんな風にきれいになれるかしら」

 後宮に入った三人の妃たちは、性格はともかくそのかんばせは、女の璃鈴でも見惚れるほどに美しかった。


 里にいた時も、英麗や瑞華、他の巫女たちを美しいと思っていた。けれど、後宮の妃たちの美しさは、巫女たちのそれとはだいぶ違うものだった。

 それぞれの顔立ちの美点を最大限に生かした色とりどりの化粧に、しっとりと油を塗りこめてつややかにまとめられた髪の毛。それぞれの衣に焚き染められた独特の大人の香り。その様子を目の当たりにして、色気という言葉の意味を璃鈴は初めて実感した。

(きっと龍宗様だって、妻にするならああいう女性の方がいいに決まってる)

 沈み気味の璃鈴を見つめた秋華は、しばらく考えたあと、鏡台にあった化粧箱を持ってくる。それは璃鈴用にと用意されたものだが、結婚式以来、ほとんど使われたことはなかった。


「璃鈴様は、お化粧などしなくてもおきれいですよ」

 かたり、と卓の上で化粧箱をあけながら秋華が言った。璃鈴は、その言葉に不満そうに口をとがらせる。

「秋華ならきっとそう言ってくれると思っていたわ。でも、それじゃだめなの。私は、龍宗陛下の正妃なのですもの。やっぱり、あの方たちと比べられても……ううん、他の誰と比べられても、遜色のない女性でなければならないわ」

「他の方々と同じになる必要などないと思いますが……」

 秋華は、ぐにぐにと璃鈴の頬に下地を塗っていく。


「でも、陛下のために美しくありたいと思われる璃鈴様は素敵だと思います」

「だって、子供だから龍宗様に釣り合わない、なんて言われたくないもの」

 やはりそのことを気にしていたのかと、秋華は妃たちの言動を思い出していら立ちを覚えた。


「皇后は、後宮で一番の地位なのよ。なのにその私が一番美しくないなんて……龍宗様に、申し訳ないわ……」

 そう言っている璃鈴の瞳が潤み始める。

「璃鈴様、お化粧している間は、泣いてはいけません」

「え? なんで?」

 いくつかあった頬紅から明るい桃色を選んで、秋華は璃鈴の頬に丁寧にはたいていく。


「泣くと、目元や頬につけた化粧が流れてそれはそれは大変なご面相になります。なにより」

 璃鈴の目元に黒い線を引きながら続けた。

「化粧をする時は、璃鈴様が一番美しくなる時です。そういう時は、泣き顔より笑顔の方が絶対に似合いますでしょう?」
 最後に唇に赤い紅を乗せると、秋華は璃鈴に手鏡をもたせた。

「こんな感じではどうでしょう?」

「まあ」

 最後に秋華は、赤い筆で璃鈴の額に花鈿をつける。

「結婚式の時の化粧とは違うのね」

「あの時は儀礼用の化粧を施されたので、通常のものよりもさらにみばえがする派手な化粧だったのです。璃鈴様の普段ですと、これくらいがよろしいのではないでしょうか」

 璃鈴は、鏡の中の自分を、じ、とみている。

「自分で言うのもなんだけど、とてもかわいいと思う。でも……」

 秋華には、璃鈴の言いたいことがわかるような気がした。璃鈴は絶世の美人という顔立ちではないが、だからと言って決して他の妃に見劣りするような見目はしていない。だが、自分自身の美しさを知り尽くしている彼女たちに比べたら、圧倒的に経験値が足りないのだ。

 浮かない顔のままの璃鈴に、秋華は言った。

「璃鈴様には璃鈴様の美しさがあります。人と比べて優越を誇っても、それは本当に璃鈴様の求める美しさではないような気がします」

 璃鈴は、顔をあげて秋華を見つめる。

「目標とするのはよいです。けれど、同じだけを目指していたら、絶対にそれは越えられません。あなたが知らなければいけないのは、化粧の仕方ではなく、璃鈴様自身の持つあなただけのお美しさです」

「秋華……」

 ようやくにこりと微笑んで、璃鈴は言った。

「そうね。そこまで言われるとなんだか面映ゆいけれど、私にだっていいところはあるかもしれないものね」

「はい。私は璃鈴様のかわいらしいお顔が大好きですよ」

「ふふ。秋華ったら、ほめすぎ」

「ある程度の自信を持つのも、美しくなるためには必要なことです」

 そう言われて、璃鈴は他の妃たちを思い出す。

「あの方たちは、自分のことにとても誇らしげだったわ」

「きっとそれだけの努力をなさっている方たちなのでしょう」

「私もがんばらないとね。……本当に、ここに一緒に来てくれたのが秋華でよかった。私一人では、きっとやっていけなかったわ」

 笑いながら言った璃鈴は、ふいに秋華がひどく悲しそうな顔になったことに気づいた。

「秋華……?」

 璃鈴がさらに声を掛けようとしたとき、かたり、と小さい音がした。

 二人が振り向くと、ちょうど龍宗が部屋へと入ってくるところだった。最近はもう先ぶれがないことにも二人は慣れてきた。

「龍宗様!」

 ぱ、と璃鈴が顔をほころばせる。秋華は気をきかせてか、龍宗と入れ違いに部屋を出て行った。秋華の様子が気にはなったが、璃鈴の意識はすぐに、久しぶりに会えた龍宗に向く。

(お化粧していること、何か言ってくれるかしら)

 璃鈴はどきどきしながら龍宗を迎える。龍宗は璃鈴を見てわずかに目を瞠ったが、特段何も言わず部屋へ入ってきた。

 その様子に璃鈴は少しだけ落胆を覚える。

(気づいておられないのかしら。それとも、やっぱり龍宗様の望むような美人じゃないから興味を持ってもらえないのかしら)

 璃鈴の落胆には気づかずに、龍宗はいつも通りの長椅子に腰掛ける。

「息災であったか」

「はい。龍宗様は」

 言いかけて、璃鈴はそれ以上の言葉を飲みこんだ。他の妃のことを、龍宗の口から聞きたくなかった。そう思う一方、龍宗が他の妃とどう過ごしているのか、知りたくてたまらなかった。

 相反する気持ちを、龍宗にどう説明していいのかわからない。
 黙り込んだ璃鈴をいぶかしく思いながら、龍宗は慣れた仕草で背もたれによりかかるとようやく落ち着いたように長く息を吐いた。

「仕事が終わらなくてな……執務室を出たのも久しぶりだ」

「え……お仕事、ですか?」

 では、龍宗はここへ来ない間、他の妃のところへ通っていたわけではないのか。璃鈴はなんとなく安堵すると、無意識のうちに表情を緩める。

 そんな璃鈴の様子を目の端に入れて、龍宗は飛燕の言葉が正しかったことを知った。

(やはり気にしていたのか。無理をしても今日こちらに来てよかった)

「仕事ではなく、何だと思っていたのだ?」

 気持ちに余裕ができた龍宗は、からかうような言葉を口にした。複雑な心境を見透かされて、璃鈴は、か、と頬を染める。

「別に……龍宗様がお忙しいことなど、とうに知っておりましたから」

 むっとしながら、ふい、と顔を逸らした璃鈴を見て、龍宗に軽い嗜虐心が湧いた。めったに見られない璃鈴の拗ねる顔が、たまらなくかわいらしいと思ってしまったのだ。誤解を解かねばと思う一方で、その顔をもう少し見ていたいという意地の悪い欲求が彼を支配した。

「ほう。では俺が来なくても寂しくないのか」

「龍宗様など、いない時の方が多いではありませんか。わたくしは平気です」

「では、明日は別の妃のもとへ通うとしよう」

 それを聞いたとたん、璃鈴の胸に刺すような痛みが走った。

 龍宗が別の妃のもとへ行く。その妃に微笑みかけ、璃鈴と同じように同衾するのだろう。

 その想像は、驚くほどに璃鈴の胸に痛みを与えた。

「か……かまいません」

 震える声は、涙を呼んだ。潤み始めた瞳を見られないように、璃鈴はさらに龍宗から顔を背ける。そ、と袖で涙を拭こうとした璃鈴は、そこに黒い染みがついてしまったことに気づいた。

(そうだ! 今は、化粧を……)

『化粧をしている間は、泣いてはいけません』

 秋華の言葉が頭に響く。

(きっと今、私の顔って大変な事になっている!)

 背を向けた璃鈴を見て、さすがにやりすぎたことに気づいた龍宗は体を起こした。

「璃鈴……」

「来ないでください!」

 動揺した璃鈴は、とっさに心にもない言葉を龍宗に投げつけてしまう。龍宗は、眉をひそめながら言った。

「聞け、璃鈴」

「嫌です! あっちへ行って!」

「な……!」

 璃鈴の態度で、龍宗の頭にも瞬時に血がのぼってしまう。

「聞けと言ってる! 妃たちのことなら、あれは官吏が勝手にやったことで俺は知らなかったんだ!」

 化粧の事に加えて他の妃たちのことまで持ち出された璃鈴は、さらに激しく動揺して完全に冷静さを失ってしまった。

「そ、そんな言い訳しなくたっていいです。ここは龍宗様の後宮なんですから、お好きな妃のところへ行けばいいじゃないですか! それで、私のところに来なくたって……別に……!」

 心に浮かんでいた不安を投げつければ、もう言葉が止まらなくなる。と同時に、我慢していた涙が一気にあふれてきた。

(もうダメ……!)

「だから俺は……!」

「知らない! 龍宗様なんて、大っ嫌い!」

 そう言って璃鈴は、その場に座り込んで大声で泣き始めた。売り言葉に買い言葉で冷静さを失ってしまった龍宗も、派手な音を立てて卓に手をつくと立ち上がった。

「ああ大嫌いで結構! だったら二度と来るもんか!」

 そう言い残して、足音も荒く龍宗は部屋を出て行った。