雨の巫女は龍王の初恋に舞う

 しゃらん


 ぬばたまの髪につけられたいくつもの透明な石英が、彼女たちの動きに合わせて硬質な音を響かせた。

 重さを感じさせぬ軽やかな足取りで舞を舞っているのは、若い巫女たち。

 その身を飾る色とりどりの衣は、ひらりふわりと浮いてはゆっくりと落ちていく。さながら、水の中をたゆたう優美な金魚を見ているかのような幻想的な光景だった。


 今年即位した若き皇帝、龍宗の前には、六人の若い娘たちが、そろいの衣装をまとってしなやかに舞っていた。

 十五歳から二十三歳までの六人の娘たちは、雨ごいの舞を舞うことでこの地に雨を呼ぶことのできる雨の巫女だ。 

 古の盟約により、龍宗はこの中から必ず、皇后を選ばなければならない。
 皇帝に即位したばかりの彼の後宮には、皇后どころかまだ一人の妃もいなかった。

 いずれ、宮中の官吏の息のかかった妃たちがこぞって入ってくるだろう。そして以前の皇帝の時のように、寵愛を得るための醜い争いを始めるのだ。

 そんな自分の考えにげんなりとしながら、龍宗は感慨もなく巫女たちの舞を眺めていた。


「陛下、あの手前の娘など、見栄えがよろしくて皇后向きですぞ」

「いや、わしは向こうのきりりとした顔つきの娘が……」

「どうせならおとなしそうな娘の方がよいのではないですか。女は従順な方が扱いやすいですぞ」

「そうじゃのう。それなら、あの左から二番目の娘など静かそうな……」

 好き勝手にひそひそとささやきかける官吏の声を聞き流していた龍宗は、一人の少女に目をとめた。


 それは一番後ろにいた、線の細い少女だった。なぜか龍宗は、その娘から目が離せなくなる。

 優雅に羽扇をはためかせて天を仰ぐ仕草。小さく赤い唇。白い頬。娘がくるりと回れば、絹にも似た滑らかな黒髪が跡を追う。その髪の色と同じく大きく潤んだ瞳。

「あの娘はまだ子供なのであの色をしているのです」

 唐突に言われて、龍宗は言葉を発した年寄りを振り返る。彼は、巫女たちの住まう里を統べる長老だ。


「あの娘とは……」

「一番奥にいる娘です。一人だけ襟の色が違うので、お気になられたのではございませんか? やはり目立ちましょうか」

 言われるまで龍宗はそのことに気づかなかった。確かに彼女は、一人だけ色の濃い襟をしていた。

 どうやらその色が気になって彼女を見ていたと思われたらしい。

 龍宗は長老の勘違いに話を合わせて聞いた。

「あの娘は、なぜ一人だけ色の違う襟なのだ」

「はい、彼女は今、十五歳。十六になって大人となりましたら、襟も大人と同じものになりまする」

 この国では、女性は十六から成人として認められる。十五はまだ子供のうちだ。


「ですから陛下が皇后を選ばれるのでしたら、彼女以外の五人の中から、ということになります。いずれの巫女を選ばれましても、皇后として申し分のない立派な巫女たちにございます」

「ふん……」

 長老の話を聞いている間も、龍宗の目はずっとその娘を追っていた。理由は龍宗自身にもわからない。その娘の伸ばす指先、跳ねる黒髪、小さなつま先。そんなものが、龍宗の視線をとらえて離さなかった。


 一通りの舞が終わると、娘たちはその場に平伏した。長老が声をかける。

「お前たち、顔をあげなさい」

 娘たちが、ゆっくりと顔をあげる。どの顔も緊張にこわばっていた。

 目の前にいるのは夫となるかもしれない男だが、機嫌を損ねればこの場で手打ちになるかもしれない可能性もある。巨大な国を束ねる皇帝は、そうできるだけの権力を持っていた。

 緊張する巫女たちを長老が端から紹介していくが、龍宗は適当に聞いていた。


「璃鈴にございます」

 最後に名を呼ばれたのは、先ほどの一人だけ襟の色の違う娘だった。龍宗は、じ、と璃鈴を見つめる。璃鈴も、その強烈な視線を真正面から受け止めた。それが不躾であることを、世間知らずで育った璃鈴は知らなかった。ただ、その激しさに、惹かれた。

(なにもかもが強烈な人)

 それが、璃鈴が最初に感じた龍宗の印象だ。

 その場にいる官吏を含めた男性の中では格段に若い方だというのに、彼の持つ風格は里の長老に優るとも劣らない。ただ座っているだけなのに、その姿からは威圧する風のようなものすら感じる。第一、龍宗ほどに鍛え上げられた体躯の持ち主を、璃鈴は見たことがなかった。


(そして、綺麗な人)


 龍宗のすべてが、おだやかな里の中で生きてきた璃鈴が初めて目にする激しさを持っていた。それを璃鈴は、美しいと思った。


 龍宗が立ち上がった。あたりが緊張する中、無言で背を向けて、そのままもう振り返ることなくその場をあとにする。周りに座っていた官吏たちも、あわてて席を立ってあとを追った。

「大儀であった。龍宗皇帝もそなたたちの舞を楽しまれたようだ。これからも国のためにつくすように」

 龍宗の後ろにいた若い官吏はそう言うと、自分も龍宗の後を追った。


 璃鈴は、その強烈な意思を持つ煌めいた瞳を、いつまでも忘れることができなかった。
「璃鈴! 何やってるのよ!」


 悲鳴のような声が聞こえて、璃鈴はぎくりと肩をすくめた。

(あらー、見つかっちゃった。でも長老に見つかるよりはましかなー)

 璃鈴は、一回深く呼吸をすると、笑顔で振り返ってぶんぶんと下に向かって手を振った。


「秋華!」

 そそり立つ岸壁の真ん中で手を振る璃鈴に、秋華は悲鳴をあげた。

「あぶない! 手を離さないで!」

「大丈夫よ。すぐ行くわ」

 真っ青になった秋華が駆け寄ってくるのを見ながら、璃鈴は裳を大胆にひらめかせて再び岩肌を降り始める。
 璃鈴がはりついていた岸壁は、里の裏にそびえたつ高い山からつながっていた。

 はらはらしながら見ていた秋華の前で、最後の一尺ほどを璃鈴はひょいと飛び降りた。秋華が小さく悲鳴をあげる。

「気をつけて! けがはない?」

「平気よ、ほらね」

 璃鈴は、あちこちに土のついた手を見せてにっこり笑う。秋華は、ようやく、ほ、と息をついたようだ。


「驚かせないでよ。一体なんであんなところに登っていたの?」

「うん。これ」

 聞かれて、璃鈴は自分の背中に背負っていた布袋をはずす。そこからは、白い花がついた枝が顔をのぞかせていた。璃鈴が壁をおりてくる様子が気が気ではなかったらしく、秋華はその背にあるものには気づいていなかった。

「この花は……梅?」

「ええ。里の梅はまだ蕾が硬いのに、どこからか梅の香りがしていたの。だから探してみたんだけど」

 璃鈴は、今自分が降りてきた断崖を見上げる。改めて見てみれば、秋華が悲鳴をあげた気持ちもわかる気がした。


「どうやらこの上から匂いがこぼれてるみたいだったから、ちょっと登ってみたのよ。壁が切れ込んでいるところがあってね、少しだけひらけた空き地に一本だけ、梅の木があったわ」

「登ってみたってあなた……危ないことはやめてちょうだい。必要なら、下男の誰かにお願いすればいいんだから」

 秋華は眉をひそめたが、璃鈴の持っている梅の花に目を落とすとほんのりと笑みを浮かべた。


「ちゃんと春は近づいているのね」

「ね? 最近は少し機嫌が悪いみたいだけど、天は今でも大地に恵みを届け続けてくれているのよ」

 それ以上秋華に小言を言われたくなかったので、璃鈴は少し言い訳のようにそう言った。


 無茶をしたかな、とは、璃鈴自身も思っている。けれど、何よりも天の恵みを待ちわびているこの里のみんなに、季節が今年もめぐってきた証拠を見せて安心させたかったのだ。

 そんな璃鈴の気持ちを悟った秋華は、一つため息をついて、もうそれ以上文句を言うのをやめた。


「それより、あなたも今日で十六歳でしょ? 大人の仲間入りなんだから、もうちょっと乙女らしくしてちょうだい。ああもう、仕事用の裳とはいえ、泥だらけじゃない。しかもこんなにひっかき傷を作って」

「十六になったからって、私は変わらないわ。昨日も今日も明日になっても、いつだって私は私よ」

 減らず口を叩きながらも、璃鈴は持っていた梅の枝を秋華に渡した。袋に詰められていた割には、その枝はまだかなりの数の花をつけていた。秋華はそれ以上花びらを落とさないように、そ、と預かる。

「今日からは、璃鈴も正式に皇后候補になるのよ。今までの雨の巫女としての務めに加えて、これからは皇帝の妻としての教育も追加されるんだから、いつまでも子供ではいられないわ」

「面倒くさい時期に大人になっちゃったわね、私たち」

 思い切り顔をしかめて言いながら、璃鈴は上衣をまとめておいたひもをほどく。淡い草染めの袖がはらりと広がった。


 二人がいるのは、小さい里だった。里の中心となるのは、大きな神楽を持つ神殿で、璃鈴や秋華を含む数人の巫女がここで暮らしている。他には、世話をする使用人たちの住む長屋が一つと日々の糧を得るための畑があるだけの、穏やかでのんびりとした時間の流れる里だった。


「皇后なんて、英麗とか瑞華とかがなればいいんだわ。美人だし頭もいいし。あ、でも、秋華が皇后になっちゃったら寂しいな。どっちにしても、私には関係ないわよ」

 璃鈴の鼻の頭についた泥を秋華が少し乱暴に払い落とすと、二人は並んで歩き出した。

「心配しなくても、選ばれるならきっとお姉さまたちでしょうね。だいたい陛下だって、璃鈴みたいな子ザルを選ぶほどお目は悪くないと思うわよ?」

 からかうように言った秋華に、璃鈴は頬を膨らませる。


「わかんないわよ? あと数年もすれば、私だって絶世の美女に成長するかもしれないじゃない」

「泥だらけの絶世の美女?」

 目を合わせた二人は、同時に笑い出した。


「さ、そろそろお昼にするわ。今夜は璃鈴の誕生日のお祝いだから少し早めに……あら」

 言葉の途中で秋華が何かに気づいたように視線をあげた。その視線を追って振り向いた璃鈴は、見慣れないきらびやかな馬車やいかめしい馬に乗った軍人たちが里に向かう坂を上がってくるのを目にした。

 この里は深い山の中に隠れるように存在している。背後には人も通れないような岸壁、そして片側は深い谷、その反対側には堅固な大きい門がある。この里へ入るにはその門を通るしかないが、その門に通じる道を、その行列は上がってきていた。


「なにかしら」

 その門を通るのは、通常は決まった人間だけだ。ここは、誰でもが気軽に入れるような里ではない。普段とは違うその様子を見て、秋華は不安げに眉をひそめる。

「わあ、綺麗。ねえねえ、あの馬車、誰が乗っているのかしら。きっと、都の偉い人よ。この里では、あんなきらびやかな馬車、見たことないもの。一体、どんなご用事なのかしら」

 秋華の様子とは対照的に、璃鈴は初めて見るその光景を興味深く見つめた。


 以前、皇帝が来た時にも同じような一行が来たのだろうが、巫女たちは舞の時しか姿を見せてはならないと言われてずっと神殿に籠っていたのだ。だからその時にどんな馬車が来たのかは知らないが、きっと同じようにきらびやかだったに違いにない。璃鈴はそう思った。


 わくわくと胸を躍らせている璃鈴を見て、秋華の不安がわずかにやわらぐ。

 秋華は、身を乗り出して行列を眺める璃鈴の背を押した。

「わからないけれど……戻りましょう。きっと何かあったんだわ」
「璃、璃鈴」

 二人が館に戻ると、なぜか長老があたふたとやってきた。

「どうしたのですか、長老様」

 普段は戒律に厳しく、間違っても廊下を走るような人物ではない。その慌てように、璃鈴と秋華は目を丸くする。


「急いで支度をせよ、璃鈴」

「私? 何の支度ですか?」

 しどろもどろに言う長老を、璃鈴はもの珍しく見ている。おてんばな璃鈴はいつもこの長老に叱られてばかりだが、その長老がこれほどに動揺する様を、璃鈴は見たことがない。


「長老様、まずは落ち着いてくださいませ。一体、何があったのです」

 秋華がしっかりした声で問うと、長老は秋華を見て大きく深呼吸をした。

「ああ……そうだな。落ち着かねばな」

 一度目を閉じて気持ちを落ち着けると、長老はあらためて口を開いた。


「先ほど、都からの御使者が参った」

「では、先ほどの馬車や人は」

「うむ。使者殿のご一行だ」

「どのようなご用のむきなのでしょう」

「それがな」

 長老は、ため息をつきながら言った。

「皇后を迎えに来たのじゃ」

「「え?!」」

 璃鈴と秋華は同時に声をあげた。

「皇后が決まったのですか?」


 彼女たちの住む国、輝加国は、乾燥地帯に広がる大帝国でしばしば日照りの害を受ける。それでも大地が潤い発展してきたのは、神族と呼ばれる古の血を持つ一族のおかげだ。この一族の乙女たちは、天に祈ることで雨を呼ぶことができる。

 そして、彼女たちにはもう一つ大事な役目がある。それは、皇后となり皇帝の血と神族の血を交えることだ。


 輝加国の皇帝となるものは、神族である雨の巫女の中からその皇后を選ぶことが義務付けられている。後宮内には普通の妾妃たちも入ることはできるが、皇后は必ずこの里の娘を選ばなければならない。それは、この国の龍の伝説に基づいている。

 今の皇帝の血筋は、はるか昔、この大陸にいた龍の一族だったと言われている。火を吐いては地を焼き、雨を呼んでは田畑を沈めたその龍に、人々はほとほと手を焼いていた。その中で龍をこらしめたのが神族の巫女で、彼女はその力をもって龍の力を封じ、龍が荒れさせた世界に再び潤いをもたらしたのだ。そして世界に平安が戻った後は、力を封じて人となった龍が二度と暴れないように、巫女はその妻となって側に残った。強い力を持った二人は、この国の最初の礎になり、その後を睦まじく過ごしたと言われている。以来、この国では、再び龍が暴れださないようにとこの婚姻が守られてきた。
 この国の住人なら、誰でも子供のころから聞かされるおとぎ話だ。

 そして昨年、新しい皇帝が即位した。その皇后が今の巫女の中から選ばれるというので、璃鈴を除いた巫女たちには妃としての教育も行われて来た。


 その皇后が選ばれたというのだ。

(ということは、もう皇后教育はしなくていいのね)


 机に向かうことの苦手な璃鈴は、ほ、とすると同時に、少しだけ残念な気もしていた。

 いつか見た皇帝陛下、龍宗の強烈な瞳は、今も璃鈴の胸に焼き付いている。あの瞳を、璃鈴はもう二度と見ることはないのだ。

(皇帝陛下、素敵な方だったけどなあ。ちょっと惜しかったかも)


「ああ、それが……」

 困り果てたような長老も初めてだ。まじまじと見つめてくる璃鈴を、長老もまじまじと見つめ返す。

「皇后にと皇帝が望まれたのは、璃鈴、お前じゃ」

「……は……はっ?!」

 先ほどよりよほど大きい声で璃鈴は叫んだ。

「私? なんで? ですか?」

「本当になあ」

 首をひねる長老に、璃鈴は笑いだしてしまった。

「そんなの、何かの間違いですよ、長老様。だって、私、今日十六歳になったばかりで、まだなんの皇后の教育も受けてないじゃないですか。きっと長老様の耳がもうろく……いえいえ」

 ぎょろり、と璃鈴をにらんだ長老も、普段と変わらない璃鈴の様子に、いつもの調子を取り戻してきたようだった。


「わしもそのように言ったのじゃがな、璃鈴で間違いないと御使者が言っとる。お前、何かしたか?」

「逆に、なにをすれば自分から望んで皇后になど選ばれることができるのですか?」

「なあ」

 二人で首をひねった時だった。

「長老殿」

 三人は顔をあげて、声のした方を一斉に振り返った。


 ひかえめに声をかけてきたのは、若い男だった。官吏の服を着た精悍な青年に、璃鈴は見覚えがあった。昨年、龍宗がこの里に訪れた時に常にその後ろに控えていた青年だ。

 青年は、迷いなく璃鈴の前に進むと膝をついた。

「お迎えに上がりました。璃鈴様」


 目の前で頭を下げる青年に、璃鈴はきょとんとした顔を向ける。

「確かに私が璃鈴ですが……本当に、私なのですか? どなたかとお間違えではないのですか?」

「いいえ。私は確かに、璃鈴という名の巫女を迎えよと、皇帝陛下龍宗様に申し付けられて参りました」

 青年は、そう言いながらも探るような視線を璃鈴にむける。青年に向ける視線はあどけなく、大人になったとは名ばかりの少女である事が見て取れる。


「わが君、龍宗様は、あなたをお望みです」

「理由を、お聞きしてもよろしいでしょうか」

 どうやら勘違いではなさそうだとわかり始めた璃鈴は、首をかしげて聞いた。

「……それは、直接龍宗様にお聞きください」

 ためらいがちに言って、青年は璃鈴から目を逸らした。その態度から璃鈴は、この青年も璃鈴を皇后にすることに疑問を持っていることを感じた。


 その様子を見ながら、長老も口を挟む。

「しかし龍宗様がお望みとはいえ、今日これからとはあまりに」

「婚儀の日程はすでに直近の吉日に決定しております。その日程を考えますと、すぐにでもこちらを発ちたいのです。全ての準備は、こちらで行いますのでご心配なく」

「ですが……昨今、巫女たちの祈りが天に通じにくくなっています。この時期に巫女が減ってしまうのはあまり芳しくないのでは……」

 まだ事の次第を飲み込めていない長老の言葉に、青年は凛とした顔をあげる。


「だからこそ、皇后が必要なのです」

 長老は、は、としたように目を見開いた。

「ああ……そうですな。確かに。皇后としての役割とこの璃鈴の印象があまりにも重ならないために、私も失念しておりました」

(よくわからないけど、なんだか私、けなされたような気がする……)
 納得したような長老にうなずくと、青年は璃鈴に向き直る。

「これは、龍宗様ご本人からの強い要望にございます。どうか、お受けいただきますよう」

 真面目そうなこの青年にそこまで言われれば、璃鈴は自分が皇后として指名されたことが間違いでも何でもなさそうだということをやっと認識する。

 そうとなれば、璃鈴がどう思おうと断ることなど出来はしない。

「わかりました」

「璃鈴……」

 どうしてよいのかわからない体の長老に、璃鈴はにっこりと笑った。


「仕方ありません、長老。なんで私なのかは謎ですが、皇帝がお望みだそうですので、とりあえず都まで行ってまいります。まあ、もし皇帝の勘違いだったら、すぐに叩き返されるでしょうから帰ってきますけれど」

 あっけらかんと言い切った璃鈴の態度に、長老も複雑な表情でうなずく。

「お前の教育はまだこれからだったというのに……不安は尽きねど、お前は聡い子だ。陛下のご指名が間違いでないとすれば、きっと、よい妃になれるだろう。都へ行き、お前のなすべきことをなせ。お前の受けたその誉を、大事にするがよい」

 いつもは猿だの子供だのけなし放題の長老の言葉に、璃鈴は目を丸くする。けれどすぐに笑顔に戻ってうなずいた。

「はい」

「秋華」

 それまで黙って聞いていた秋華に、長老は目を向けた。


「璃鈴の侍女としてお前も都へ行ってくれ」

 秋華は、は、と息を飲んだ。戸惑った間はわずか。深々と頭をさげて小さく、はい、と答えた。その様子を、長老は複雑な思いで見つめる。

「璃鈴と仲の良かったお前にとってはきついことだとわかってはいるが……それでも、璃鈴を支えることができる巫女には、お前が一番適しておる。お前は皇后としての知識は十分に備えておるし、なにより常に冷静で分別がある。どうか、わしが伝えられなかった知識を、璃鈴に伝えてやっておくれ」

 秋華は顔をあげて何かを言いかけたが、結局絞り出すような声でまた、はい、と言っただけだった。


 長老は青年に向き直る。

「使者殿」

 呼ばれた青年は、真摯な表情の長老を見て自分も姿勢を正す。

「本来なら里をあげてのお出迎えをしなければならないところ、このような場所で失礼つかまつる。璃鈴を、よろしくお願いいたします」

「こちらこそ、先ぶれもなしの訪れをお詫びいたします。ですがこれも皇帝のご意向とご理解いただき、どうかお許しください」

 青年は、璃鈴を見た。

「急がせて申し訳ありませんが、このまま我らと宮城へお越しいただきたい」

「はい。では、仕度をしてまいりますので、少しのお時間をいただきます」

 軽く会釈をすると、璃鈴は自分の部屋へと急いだ。

(なんだか、大変な事になっちゃった……)




 ばたん!

 璃鈴が荷物をまとめていると、いきなり部屋の扉が開いた。

「璃鈴! あんたが皇后に選ばれたって本当?!」

 どやどやと入ってきたのは、璃鈴と同じ神族の巫女たちだ。璃鈴は、服をたたんでいた手を止めて彼女たちを振り返った。


「どうやらそうみたい」

 それを聞いて、一番前にいた英麗が目をむいた。

「なんであんたなのよ! 私の方がずっと皇后として相応しいのに」

「あらどうかしら。三十の年増が来たら、さすがに龍宗様もがっかりするのではなくて?」

 後ろから、瑞華が笑う。


「誰が三十よ! 私はまだ二十四よ!?」

 きいきいとがなりたてる英麗を放っておいて、瑞華が言った。
「皇后って、こんなに急に決まるものなのね。もっと何か審査みたいなのがあるのかと思っていたわ」

「そうよね。ほら、覚えてる? 以前、皇帝がいらっしゃったときにみんなで舞を舞ったこと」

 緑蘭が言って、璃鈴がうなずいた。

「ああいうのが繰り返されるのかと思ったけど、あれきりだったわね」

「まさかあの時に璃鈴が見染められたというの?!」

 皇后になりたかったというより自分が選ばれなかったことで憤慨している英麗は、納得できない様子だ。


「本当になんで璃鈴なのかしら。どんな美妃が来るかと思いきや、こんな山猿が来たのでは皇帝だってがっかりするでしょうに」

 緑蘭は美しい顔のわりに言葉に容赦がない。


 現在のこの里には、璃鈴を入れて六人の巫女がいた。皇后になるための教育は厳しく行われていたが、それがなければ巫女としての生活に生きるのんびりとした里なのだ。きつく聞こえる言葉も、気心が知れている仲間だからこその戯言に過ぎない。

 後宮に何人妾妃を入れてもいいが、神族からの妃はたった一人と決まっている。現皇帝の妃が決まったのなら、次の皇帝が妃選びを始めるまでこの里は皇后を育てる役目を失い、以前通りただの雨の巫女の里となる。残された巫女たちは、それぞれ年頃になれば神族の男性と結婚し、また新たな巫女たちを育てていくのだ。それが、神族として代々繋がれる宿業だ。


「一緒に行くのは、秋華ですって?」

 花梨が璃鈴に聞いた。

「ええ。よかったわ、都に行くのが一人ではなくて。秋華が一緒なら、私も心強いもの」

 璃鈴が笑って言うと、なぜか巫女たちは沈黙した。そしてお互いに目配せをしあう。

「まあ、璃鈴がいいならいいけど……」

 歯切れ悪く言った花梨を、璃鈴は不思議そうに見上げた。花梨は何か言いかけて口を閉じ、それから微笑んだ。


「おめでとう、璃鈴。あなたならきっと、いい皇后になれるわ。それと、お誕生日おめでとう」

「花梨……」

「これ、よかったら持っていって。私からのはなむけ」

 そう言って花梨は、きれいに刺繍した手巾を璃鈴に渡した。

「まあ。ありがとう」

「本当は今夜渡すはずだったのよ? 皇后への贈り物にしては粗末かもしれないけれど……私の作った中では、いっとういいものだからね」

「嬉しいわ、花梨。ずっとずっと、大切にする」

「私は、これ」

 緑蘭は、淡い色の半襟を差し出す。それは、大人用の襟だった。


「今日から使えるようにがんばって間に合わせたのよ。皇后になっても使えるから、よかったら持って行って」

「大人の色……憧れていたの。嬉しい。ありがとう」

 明日からは、この色の襟をつけた衣でみんなと舞うはずだった。そうなることに憧れていた。

 そう思うと、急に璃鈴の胸に実感がわく。

 都へ行くこと。今日で、みんなと別れることが。

 つきん、と璃鈴の胸が痛んだ。


「邪魔じゃなかったら持っていきなさいよ」

 そう言って英麗が渡したのは、玻璃と瑠璃を組み合わせた簪だった。璃鈴は驚いて顔をあげる。

「これ、英麗の一番気に入っていたものじゃ……」

「だからよ。皇后となる女が、みすぼらしい装飾品じゃ、里の名が落ちるわ。せいぜい美しく装いなさい」

「じゃあ、これも。私が皇后になる時にさす予定だったんだけど、あんたでもいいわ」

 瑞華は、璃鈴の帯に銀の留め具をさしながら、璃鈴を抱きしめた。