星だけが輝く新月の夜。帝都某所にある軍の施設に、風呂敷で包まれた箱を持ったひとりの男が訪れた。入り口で名を名乗ると、門番が門を開き中へと通した。慣れた様子でその男は施設にある一室へと入っていく。そこは一見すると何に使われているのかわからない洋室だ。中には鏡台がふたつ置かれ、その前には木で組まれ、背もたれに布の張られた細身の椅子が置かれている。その椅子の後ろには、背の低いテーブルがあり上には酒瓶が一本と、銀色に鈍く光るスキットルがふたつ置かれている。
 テーブルの側に置かれたふたり掛けソファに座っていた軍人が、客人に声を掛ける。
「いらっしゃい桐次さん。今回もお世話になります」
 桐次はぺこりと頭を下げてから、軍人ふたりに声を掛ける。
「では早速、潔さんも治さんもそちらの椅子にお掛けください」
 ソファに座っていた潔と治が立ち上がり、上着を脱ぐ。上着をソファの背もたれに引っかけてから鏡台の前に置かれた椅子に座り、着ているシャツのボタンを外して襟元を大きく開けた。
「まずはこちらをお使いください」
 漆塗りの木で出来た箱から取り出した小瓶を桐次から受け取り、潔と治は蓋を開けて中身を手に取った。
 手の平の上にこぼれ落ちたのは、透明でさらりとした油だ。これを顔と首と、その周りにしっかりと塗り込む。
 ふたりがそうしている間に、桐次は持参した白粉と水で水溶き白粉を用意したようだ。
「それじゃあまず、治さんからやりましょうかね」
「おう、頼む」
 目を閉じた治に、桐次が白粉を含ませた刷毛を当てる。まずは首回りから、首を塗ったら額と鼻筋に乗せていき、顔全面を白く塗る。そうしてから、水を含ませて柔らかくし、よく絞った海綿で叩いて白粉を馴染ませていく。いったん白粉が馴染んだ所で、もう一度首回りを白く塗り、また海綿で馴染ませる。そうやって治の肌を塗り終わってから、桐次は潔の肌も同様に塗っていった。
 ふたりの肌が塗り終わり、治の目元に朱を入れ、唇に水で溶いた紅を塗りながら桐次がぼやく。
「白粉はともかくとして、朱と紅くらいは自分で出来るようになってくださいましよ。
形通りに塗るだけでしょう」
 その言葉に、潔が申し訳なさそうに答える。
「そうしたいのはやまやまなのですが、どうしても筆を上手く使えなくて」
「そういうものなんですかねぇ」
 不思議そうに潔の言い分を聞いている様子の桐次は、治の唇に何重にも紅を重ねている。そうしている内に赤かった紅の上に玉虫色の光が乗った。
 ひとまず治の分の化粧が終わると、次は潔が紅と朱を差される。その様子を見ながら、襟元を正している治が口を開く。
「化粧はねぇ、僕達には無理だよ。
やってみたけど名状しがたくなっちまって」
「おやおや、さいですか」
 常日頃筆になれている桐次からしたら、上手く筆を使えない潔や治のことがいまいちわからないのだろう。瞼を閉じ、目尻に朱を乗せられているのを感じながら、潔はひとそれぞれに適材適所なのだなと、そんな事を思う。
 朱を入れるのがおわり、次に紅を差す。桐次が鏡を覗き込みながら紅筆を動かしているのを見て、そのまま鏡の奥を覗き込む。潔と桐次の間から見えるのは、ソファにかけていた上着を着てから、テーブルの上のスキットルに酒瓶から中身を注いでいる治だった。
 その様子が鏡越しに見えたのか、それとも音で聞いているのか、桐次が言う。
「相変わらず、御神酒の扱いが雑ですねぇ」
 スキットルに御神酒を入れるのはいつもの事だ。そんなに雑だろうかと潔が不思議に思っていると、また治の声が聞こえた。
「これくらいで神様は怒りゃしないよ。
あ、いやでも神様によるな。
えーと、うちの神様は怒らない」
「心の広い神様ですことなぁ」
 やりとりをしながら紅を塗っていた桐次の手が引っ込む。鏡で顔を見てみると、潔の唇にも紅が乗り、ほんのりと玉虫色に光っていた。
「桐次さん、ありがとうございます」
 そういって礼をしてから、潔も立ち上がって襟元をなおす。しっかりとなおしたところで、ソファにかけていた上着を着込み、蓋を固く閉めたスキットルを胸のポケットに入れた。
 ふと、傍らで小さな鞄を腰に付けている治に目をやる。鞄の中にはいつも通りに煙管と燐寸と刻み煙草が入っている。それに加えて、細かい何かがざらりと入った巾着袋も詰め込んでいる。
 細かい荷物を用意した治が、反対側の腰に刀を下げる。それを見て、潔はテーブルの下に置いてあった木製の鞄を取りだし、中身を確認する。中には真鍮色のコルネットが収まっている。特に異常はない。
 潔がコルネットのケースをテーブルの下から出している間に、治が壁際にある棚の中から餡子の練り切りが乗った皿を取り出し、桐次に渡してこう言った。
「今夜のお守りだよ。食べて」
 その練り切りはしっとりとした紫色で、五片の花びらを模った桔梗の形をしている。そっと受け取った桐次は、治に礼を言ってからソファに座り、木を削って作られた黒文字でひとくち分ずつ桔梗を切って口に運んでいる。
 その様子を潔と治で見守っていると、食べ終わった桐次が大きな溜息をついてこう言った。
「また、浅草ですかね」
 帽子を手に取って被りながら治が答える。
「その通り」
 潔も帽子を被ろうと手に取ると、桐次がまた溜息をつく。
「困ったものです」
 心底弱ったようにそういう桐次に、潔が声を掛ける。
「これから出ますが、私たちが帰ってくるまでこの施設から出ないようにお願いします」
「はい、わかっていますよ。大人しくしております」
 桐次の返事を確認してから、治に続いて潔も部屋を出る。静かな廊下を歩き、門番に声を掛けて外に出る。街中は暗いけれども、所々を水銀灯の光が照らしていた。
 固い靴音を響かせながら歩いて行く。
 向かう先は、浅草寺だ。