「奇遇ですね! あのときの警察官が、捜査主任になって再会するなんて」
小夜は感激の余り、左手で強く握手を求めた。
可憐な仕草がさらに彼女を眩しく演出する。うら若き乙女が徳憲へすがるように寄り添う様は、彼の人生で一度も経験したことがなかった。
「あー、俺はあんまり記憶にないんですけども」
「そんな! 思い出して下さいよっ。私、母の訃報を聞いて心細かったんですけど、徳憲さんに見覚えがあったから救われているんですよ?」
小夜が徳憲にしがみ付いた。これは徳憲も面食らった。ワイシャツ一丁の胸板へ、淑女の肩がすっぽりと収まる。双丘の柔らかな感触が、たまらず徳憲を忘我させそうになった。
気が付けば周囲の捜査官や鑑識たちが、何事かと遠巻きに眺めている。
「散れ散れっ! 見世物じゃないぞ」
徳憲は咄嗟に右手で払った。それでも人目を払拭しきれなかったし、部下たちから後ろ指さされる醜態だ。
「徳憲さんは、私にとって王子様も同然ですね」
「え? いや、それは言い過ぎなんじゃ……」
王子という柄ではないが、女性から好意を持たれる状況は満更でもない。
思いがけない遭遇は徳憲を暫時、仕事から意識を遠ざけた。それほどまでに彼女は甘美な匂いを漂わせていたし、きっと彼女は本当に、不安で胸が張り裂けそうだったのだ。
「母の死体……確認しても良いですか?」
「え? ああ、そうでしたね」
小夜に催促されて、徳憲はようやく職務を思い出す。
徳憲が身を引いて歩き出すと、小夜も密着が解かれて名残惜しそうにしていた。今は現場の初動捜査が優先だ。徳憲が先導する途中、小夜はさらに強く左手を繋いでくれた。完全に懐かれている。
どうしたものかと徳憲は苦笑しながら、小夜との過去を記憶から掘り起こした。
思い出した――あれは三年前だ。
徳憲は巡査部長になったばかりで、まだ制服警官だった。交番から実ヶ丘警察署に配属され、交通課として日々、市内をネズミ捕りして回っていた。パトロール中に不審者や騒動を発見した場合、現行犯逮捕で検挙件数を稼いだ。
ある日、歓楽街のラブホテルをパトカーで通過したとき、入口で揉めている男女が視界の端に映った。
助手席に居たもう一人の警官と目配せして、徳憲は車を降りる。
赤ら顔の男女がしきりに口論し、腕や服を掴んで暴れていた。飲酒による乱暴か?
女性はまだ成人したての純朴そうな娘だった。のちにこれが惜田小夜だと知ることになる。
男の方はジャージ姿の無頼漢で、名を鴨志田恒太と言った。
そう――突撃クレーマーだ。思い出した。奴とは過去に一度会っている。
三年前から外見が変わっていない。
鴨志田は、力ずくで小夜をホテルへ連れ戻そうとしていた。徳憲が割って入り、反抗した鴨志田の腕をひねって、体重をかけて路上に押し倒した。
即刻、その場で確保する。
相方の警官が小夜を保護したが、小夜はずっと徳憲だけを凝視していた。迅速かつ鮮やかな捕り物劇に感銘を受けたのだろう。おまけに窮地を救ってくれたのだから、惚れ惚れした様相で見とれるのも当然と言えた。
――その後、ラブホテルの一室から、鴨志田の仲間とおぼしき数名の男女が引っ張り出された。
どうも彼らは、ウェブ動画の交流で知り合って『オフ会』を開いたらしい。
ほぼ男女半々の構成で、カラオケや居酒屋をはしごして騒いだ後、酔った勢いでラブホテルになだれ込んで乱痴気騒ぎ――性的な乱交も含まれる――に及んだらしい。
女性参加者の中には積極的に男性陣を落とそうと色目を使う者も居たが、あいにく小夜は違ったようだ。酔った小夜はいつの間にかホテルに連れ込まれ、さすがに性行為は断って退出した直後、主催者の鴨志田が激昂して追いかけて来たとのことだった。
「ウェブ動画って、出会いの場でもあるんですよ……今回ほど酷いのは珍しくて、誠実な出会いもあるんです」
当時の小夜はそう語った。
「人気配信者ほどファンが殺到します……突撃クレーマーさんも人脈が広いです。私は何となく視聴していただけですけど、親しいファンどうしでメッセージを交換するようになって。身内のグループにも入れてもらえたので、ついオフ会に参加したんです」
オフ会でのトラブルは、テレビなどで警戒するよう報道されている。
無論、全てのオフ会が悪いわけではない。健全な趣味の会、コンパやツアーもある。
だがそれ以上に、犯罪に巻き込まれた報告も少なくない。参加者自身の判断力と自衛力が試されている。
「鴨志田さんは、オフ会ならぬオフパコだったんです」
オフパコ。
男女がお互いセフレ目的・割り切り交際のために会う、というネットスラングだ。当時の徳憲は知らなかったが、警察署に鴨志田を引き渡したとき担当者から聞きかじった。オフ会で腰をパコパコ振って交尾するからオフパコ、だそうだ。
ウェブ社会は男も女も寂しがり屋が多い。じかに触れ合いたい人の需要が噛み合うと、一夜限りの逢瀬を楽しむ飲み会が企画される。
それ以降、鴨志田はしばらく動画配信が低調になったらしい。小夜が事を荒立てたくないとして不起訴にこそ終わったが、逮捕歴はしっかり残った。悪評が拡散し、突撃クレーマーの動画は軒並み低評価となった。
「あれから三年経ってほとぼりが冷め、最近やっと復調した矢先に、今度は死体発見か」
期せずして再会した小夜にも色目を使うなど、ちっとも反省の色が見えない。
徳憲は現実に立ち戻った。301号室に上がった彼は、後ろに小夜がくっ付いていることを確認する。
「そうか……三年前の暴漢と、このアパートで運悪く鉢合わせてしまったから、小夜さんは怯えているんですね」
「はい。最近、私の父母が離婚して、母がこのアパートに転居したんです。だから鴨志田と再会したのは本当に偶然だったんです」
最低最悪な偶然があったものだ。運が悪いなんてレベルではない。
かつてのレイプ未遂者と顔を合わせるなんて、どんなにおぞましいだろう。しかも相手は懲りずに口説こうとする始末。
「私が母の様子を見に来るたびに、隣人の鴨志田に目を付けられていました……」
「あいつ、そんなに暇なのか。一日中、自室にこもっているのか?」
「ユーチューバーですからね……ロケ撮影以外は基本、部屋にこもって動画編集するかネットサーフィンするかのどちらかです」
動画配信者とは得てしてそんなものだ、と小夜は締めくくった。現場百回が身上の徳憲には信じられない生活である。外に出ない日常なんてあり得ない。
いよいよ寝室に立ち入る。
小夜は前方に倒れ伏す母の遺骸を目の当たりにして、小さく悲鳴を上げた。
「母さん!」
飛び付こうとする彼女を、徳憲が手を引いて制止する。さっき繋いだ左手が皮肉にも役立った。
「現場保存のために、接触は避けて下さい」
「ううっ……ひどい」
確かにひどい。惨状だ。被害者はうつ伏せに倒れ込んだ体勢で絶命していた。これでは顔がベッドに埋もれて呼吸もままならず、助けすら呼べまい。
その上で、背中から心臓部まで深々と出刃包丁を突き立てている。馬乗りになって体重をかければ、誰でも根元まで刃を通せるだろう。
包丁が刺しっ放しなままの理由も、心臓に達した凶器を抜いたら返り血が凄まじいことになるため、あえて遺留したと思われる。犯人は用意周到に手口を考えて実行している。
「市販の包丁だな……販売店までは追跡できるだろうが、買った客を特定できるかは疑問だ。出刃包丁を三本まとめて買ったか、あるいはまばらに購入したか……」
「三本ってどういうことですか?」
小夜が徳憲を振り返り、小首を傾げた。
顔色が真っ青だ。殺人現場を見て血の気が引いている。それでも懸命に言葉を紡ごうとする剣幕が、彼女の必死さを表していた。
「実は二件、似たような殺人が市内で起きているんです」小声で囁く徳憲。「いずれも背中から心臓を一突き。凶器は出刃包丁。しかも深夜に自宅前で殺されています。恐らく帰宅と同時に犯人が殺して逃げたんでしょう。不審者の目撃情報もないままです」
「そんなことが……」
「ニュースで観ませんか? 一人目の被害は三〇代前半の男性、二人目は二〇代半ばの女性でした。連続殺人の可能性も出ています」
「あ……それってもしかして」
小夜はポケットからスマホを取り出した。
ブラウザを開いてインターネットに接続する。今は欲しい情報をその場で検索できるから便利だ。動画配信はその最先端。新しい文化ならばこそ、鴨志田のような悪漢も頭角を現しやすい。
「私、この二人を知っています……」
「何だって!」
とんでもない証言が降って湧いた。
小夜はニュースサイトで被害者二名の顔写真をしげしげと見下ろす。
「小夜さん、間違いないですか?」
「はい……」ごくりと息を呑む小夜。「これは……三年前の乱交オフパコに集まったメンバーのうちの二人です!」
小夜の可憐な唇から何度もオフパコという下品な用語が飛び出すことに辟易したが、事実を伝えるためだから仕方ない。
忌まわしき記憶を蒸し返された彼女は、表情が冴えない。徳憲は身につまされそうだ。
「初めはみんなハンドルネームで呼び合っていたんですけど、飲み歩いたりカラオケで歌ったりするうちに、打ち解けた人は本名を交換していました」
その親交をさらに深めようと、酒の勢いでラブホテルになだれ込んだ経緯か。
「小夜さん、大スクープですよ! 接点のなかった被害者に共通点が生まれました!」
徳憲はつい小夜の両肩を揺さぶった。
我知らず肉迫し、驚いた小夜が顔を朱に染める。彼女にしてみれば、憧れの王子様に急接近されたのだから当然だろう。
「実はこの二件、被害者の繋がりが見えなかったんです。双方ともウェブ活動をしていたようなんですが、最近は交流もなかったようですし……」
「三年前にお縄に付いて以来、あのメンバーが関わることはなくなりましたからね」
「そのせいか! 三年前に集まった同じ穴の狢だったんですね!」
パズルのピースが一つ嵌まった。
ミッシングリンクはまだ数多くあれども、地道に潰して行くことが徳憲にとって無上の喜びなのは間違いない。こつこつ捜査する醍醐味でもある。
「け、けど徳憲さん」目をしばたたかせる小夜。「では母は、なぜ殺されたんですか?」
「まだ判りませんが……ひょっとしたら小夜さんを狙おうとして、間違えたとか」
標的を間違えた――なくはない線だ。徳憲は我ながら自賛した。
被害者の共通点が『三年前のオフパコ参加者』ならば、本来狙われるのは小夜だ。彼女が301号室へ通うのを見た犯人が、てっきりそこに住んでいると勘違いした?
犯人は小夜と間違えて、室内に居た母親を殺した――?
「あるいは、隣人の鴨志田を狙ったか」頭をひねる徳憲。「鴨志田も三年前の参加者ですからね。しかし犯人は部屋を間違えて、隣室のお母様を殺したというストーリーです」
捜査本部はまず『ストーリー』と呼ばれる犯罪に至るまでの物語を、順序立てて構築する。それが捜査方針となり、ストーリーに即した証拠を集めて回るのだ。
「……私は、鴨志田が犯人だと思います」
小夜が恐ろしく冷たい声音に豹変した。
たっぷり一オクターブも音程を下げて、怜悧冷徹な私怨を毒吐く。
「かつてオフパコを開いた鴨志田が一番、犯人にふさわしいです。人気が落ちた発端であるオフパコにまつわる人物を消しているんですよ、きっと!」
「だとしたら、なぜ今頃?」
「……私と再会したことが引き金になったから、じゃないですか?」
「あ、なるほど」
「私を見た鴨志田は、三年前の汚点を思い出しました……汚点は消さねばなりません」
ほぼ私怨で述べた小夜だが、それが犯行のきっかけになった可能性はありそうだ。時期的にも符合する。
この娘は、純朴そうで意外と明敏だ。
「私は鴨志田に辟易しました。母を殺した犯人なら、今度こそ牢屋にぶち込みたいです」
*
日が昇る頃、初動捜査は終了した。小夜にも調書を作ると、彼女は左手で署名した。
徳憲はまだ帰宅できない。捜査本部に残って事件を追いかけることにする。
主任としての責任感だ。職務を優先し、プライベートをも犠牲にする。だから検挙件数も随一だったし、人より出世が早かった。
「二人の被害者も、動画配信者だったんだな……ユーチューブだけでなく、ニコニコやインスタまであちこちに唾を付けている」
会議室のパソコンでブラウザを開いた徳憲は、改めて二人の経緯を漁ってみた。
出るわ出るわ、犯罪すれすれの過激な動画で雀の涙ほどの再生数を稼ぐ、あこぎなやり口だ。公序良俗に反する動画は運営から警告されるにも拘わらず、今日を生き残るために目先の閲覧者を釣り上げる。
「男性の名は恨辺芯一、三三歳。夜の街をバイオレンスに徘徊している……カツアゲ、喧嘩、ホームレスいじめなどの過激な撮影が多数。女性の方は惑井懍、二四歳。こっちはストリップショーか? 裸でオナニーする動画まであるじゃないか」
暴力と性欲。
人間の欲望を垂れ流しにした無法地帯がそこにあった。
あからさまに不適切な動画は運営に削除されるが、年齢制限やファン限定動画などで巧妙に規約の抜け道を駆使したり、グレーゾーンの表現でごまかしたり、裏サイトを通じて違法な公開をしたりなど、手口が凝っている。
「ゲーム実況という普通の動画もあるが、それすらも風呂上がりや寝巻きのしどけない格好で遊んでいるのがきわどい。ゲーム実況なんて建前で、目当てはエロ」
同様の手法は、カラオケで歌ってみた動画や、ダンスを真似して踊ってみた動画でも散見される。歌声は娼婦のような喘ぎ声が多分に混じり、振り付けも必要以上に腰を振り、そもそも衣装が薄着だったりと、ひたすら劣情を煽る志向だ。
「ヤリ目のオフパコが絶えないわけだ。配信者には再生数というリターンも見込めるし」
動画配信の実態を目撃して、徳憲はうんざりと嘆息した。
ユーチューバーと言えば、人気者はテレビ進出したり企業CMに抜擢されたりと麒麟児のごとき扱いを受けているが、それはほんの上澄みだ。中堅以下の有象無象は、動画を見てもらうためなら身売りだっていとわない。
(何がそんなに彼らを駆り立てるんだ?)
徳憲は未知の領域に舌を巻いた。
庶民の夢見る一攫千金とは、こんなものだったのか。猫も杓子も動画を垂れ流し、情報過多をもたらした。無駄な欲望ばかり溢れ返り、真に価値のあるものを埋もれさせた。
だから皆、しのぎを削り、躍起になって、目立ったもの勝ちの泥仕合と化す。本来なら息抜きだった動画配信に血道を上げ、過当競争に入れ込むのだ。
(これも一種の集団心理……みんなが熱中するから自分も便乗して嵌まる、気が付くと抜け出せなくなる集団ヒステリーなのか?)
禁断の扉に触れてしまった感さえある。
小夜はどうなのだろう?
あんな虫も殺さぬ可憐な乙女でも、周囲に掻き立てられて動画に嵌まったのか?
もっとも彼女自身は観る専門で、配信はしていなかったようだが――。
「判らん! 俺には庶民の心理が判らん!」
「――主任、悩みごとですか」
そこへ年輩の部下が闖入を遂げた。
パソコンを睨んでいた徳憲は、予期せぬ声に心臓が飛び跳ねそうになる。
「うわあ! ……びっくりさせるな。ノックくらいしろ」
「しましたよ。けど主任がパソコンに集中して、ブツブツ呟いていたんです」
「……それは済まない。それより何の用だ」
「現場の押収物を、鑑識から科捜研に回したので報告です。部屋の備品はもちろん、毛髪や指紋、衣服の繊維質に至るまで、いくつか手がかりになりそうです」
「予断は厳禁だ。凶器も他の二件と同じだと思うが、調べるまでは断言できないぞ」
「いずれにせよ結果待ちです。あ、それと」
部下が顔を寄せた。
「それと何だ?」
「庶民の『心理』が判らないのでしたら、科捜研の心理係を頼ってみてはいかがです?」
「心理係?」
今しがた科捜研の名が出たばかりなので、ついでに提案された。
科捜研とは科学捜査研究所の略で、現代捜査に欠かせない最新鋭の科学分析機材と学者たちが結集した、警察のブレインとも言うべき組織だ。
死体や人体に関する解剖を担当する『法医科』。
化学物質や薬物を分析する『化学科』。
金属や凶器、火災、爆発物などの物理的な要因を究明する『物理科』。
筆跡鑑定や文書偽造を調査する『文書鑑定科』。
――その文書鑑定科には、もう一つ枝分かれした専門部署が付帯的に設置されている。
それが、犯罪心理を研究する『心理係』である。
「心理科じゃなく、係なんだよな」思い当たる徳憲。「心の分析は他の学問と違って、目に見える物証を示せないから、科より格下なのか?」
「目に見える機械なら『嘘発見器』が有名ですけど、誤診が多くて信憑性に欠けますね」
嘘発見器は年々精度を上げているが、必ずしも心理を完璧に読めるわけではなく、飽くまで参考程度にとどまる場合が多い。
「ウェブに蔓延する過激な言動、動画に病み付きになる依存性……まさに現代の闇だ。何がそこまで彼らの心理を駆り立てるのか、心の専門家に意見を募るのも悪くないな」
何なら犯人像を心理分析してもらうのも一興か。
東京の科捜研は、警視庁本部庁舎に隣接する警察総合庁舎の七階に本拠を構えている。各都道府県にある科捜研の総本山だ。
警視庁は徳憲のねぐらだから、隣のビルに顔を出しても怪しまれない。
「科捜研へ鑑定依頼するついでに心理係を尋ねてみよう。収穫があればめっけもんだ」
過度な期待はせず、徳憲は席を立った。
*