今と昔が生きる町、熱海。
初めて訪れたものにも、どこか懐かしさを覚えさせるその土地には〝人知れず〟佇むとても不思議なお宿があった。
人々が家路につく頃、宿にはひっそりと明かりが灯る。
すると、ほら……。
日々の疲れを癒やしに、〝人ではないもの〟がやってきた。
「いらっしゃいませ、ようこそお越しくださいました」
そこは、現世と常世の狭間にある温泉宿。
忙しい日常を忘れたいと思うのは、〝人〟だけではなく〝もの〟も同じなのだと知っていますか?
「ああ~、疲れた疲れた。熱い温泉に入ったあとは、美味しいものが食べたいのぅ」
全国の付喪神の皆様、今日もお勤めご苦労様です。
働きすぎな自分へのご褒美に、ここ【熱海温泉♨極楽湯屋つくも】へ、息抜きにいらっしゃい──。
一泊目♨嵐を呼ぶ男と、熱海食べ歩きグルメ
「おいしい〜〜っ!」
ツツジの花が見頃を終え、若葉が萌える五月の半ば。
熱海観光の玄関口である『熱海駅前商店街』は、夏前にも関わらず活気に満ち満ちていた。
ノスタルジックな空間には、熱海の土産物や名産品、グルメを楽しめる店が所狭しと建ち並んでいる。
浴衣を着た観光客がそぞろ歩いている様も、いかにも人気の温泉地らしい。
「これこれ、花。そんなに急いで食べずとも、まんじゅうは逃げんぞ」
そんな熱海きっての繁華街に余暇を楽しむためにやってきたのは、現世と常世の狭間にある"付喪神専用の温泉宿"『熱海温泉♨極楽湯屋つくも』の従業員一行だ。
「えへへ、すみません。私、出来たての温泉まんじゅうを食べるのは初めてで感動しちゃって……」
言いながら、光沢のある焦色のまんじゅうをうっとりと見つめるのは、"花"だ。
花は自他ともに認める食いしん坊で、人の身でありながら、今は諸事情により、つくもでつくもの主人の嫁候補兼、仲居として働いている。
「ここで食べ歩きを楽しむといえば、出来たての温泉まんじゅうは絶対に外せないからのぅ」
対して、背中を丸めながらフォッフォッと福笑いをしている老人は、信楽焼たぬきの付喪神、"ぽん太"だ。
ぽん太はときどき今のように人に化け、熱海の町を散策するのが趣味なので、誰よりも熱海に詳しかった。
「これはもう、生きているうちに一度は食べなきゃ損ですね!」
はふっはふっ、と忙しなく口を動かしながら、花は目を爛々と輝かせた。
薄皮に包まれた熱々のまんじゅうの中には、あんこが隙間なくぎっしりと詰まっている。
見た目に反して甘すぎず、あっさりとした味わいの餡は滑らかで、優しい口当たりだった。
「今食べてるこしあんも最高ですけど、さっき食べたつぶあんもおいしかったです!」
「ふむ。よもぎや栗入りもあって、種類も豊富で食べたい味を選べるところもいいらぁ」
ぽん太お馴染みの方言が出た。
慣れっこの花は頷いてから大きな口を開けると、温泉まんじゅうを頬張り、ほっぺが落ちるのを押さえるように頬に手を添えた。
「はぁ〜〜。幸せ……」
「ほんと、花ってなんでもおいしそうに食べるよね」
その様子を横で眺めながら苦笑したのは、包丁の付喪神の"ちょう助"だ。
ちょう助は見た目こそ小学生男子の成りをしているが、実は料理の腕は一流で、つくもの料理長を務める頼れる存在である。
「ちょう助くんが食べてる練り物揚げもおいしそうだね!」
「ああ、うん。串に刺さってるから食べ歩きにもちょうどいいし、やっぱり揚げたてなのもあってめちゃくちゃおいしいよ」
練り物揚げも、温泉まんじゅうと同じく商店街にある店で買ったものだ。
串に刺さった肉厚な一品は、噛めば口の中にジュワッと練り物特有の旨味と磯の香りが広がる。
弾力のある歯ごたえが食欲を掻き立て、噛めば噛むほど素材の味を思う存分楽しむことができた。
「甘いものを食べたあとって、しょっぱいものが食べたくなるよね……」
「花……さっきはしょっぱいものを食べたあとは甘いものが食べたくなるって言って、今、温泉まんじゅうを食べてるんじゃないの?」
「え、えへへ。そうだっけ?」
頬をかきながら顔を逸らした花の食欲は留まることを知らない。
子供の頃に経験した貧乏暮らしのせいで、おいしいものをお腹いっぱい食べられることに人並み以上に幸福を感じてしまうのだ。
(あ……)
と、そのとき、花はふとある人物を視界に捉えて目を留めた。
つくもの主人である、"八雲"だ。
八雲は先程から手焼き煎餅を物色していたのだが、ちょうど商品片手に三人の元へと戻ってくるところだった。
「八雲さん、なんのお煎餅を買ったんですか?」
「醤油煎餅だ。久々に商店街に来たことだし、何も食べずに帰るというのも変だろう」
八雲の言葉と同時に、花の鼻先を醤油の香ばしい香りが掠めた。
温泉まんじゅうや練り物揚げと同じく、煎餅も焼き立てホヤホヤだ。
「いいにおい……」
花がつぶやくと、八雲はおもむろに買ったばかりの煎餅をふたつに割った。
パキリッ!と小気味よい音が鳴り、円形だった煎餅が半月になる。
「ほら」
「え?」
「顔に食べたいって書いてある」
思わず花は、差し出された煎餅と八雲の顔を交互に見た。
そうすれば澄んだ黒目がちの瞳を細めて、八雲が艶っぽく笑う。
さらりと風に流れて目にかかった前髪と、緩く弧を描いた唇がやけに色っぽい。
花は胸の鼓動がトクン!と音を立てたのを聞いて、慌てて顔の前で手を振った。
「い、いえっ! そんなに食べられないです!」
「たった今、しょっぱいものが食べたいと言ってなかったか?」
「う……、た、確かに言いましたけど……。でも、なんというか今は食欲と乙女心の葛藤がすごいというか……」
「乙女心?」
しどろもどろに答えて顔を逸らした花は、自分の食欲旺盛ぶりを今さら恥じた。
そんな花を、八雲は不思議そうに見ている。
「何をわけのわからないことを言って……というか、花。お前、あんこついてる」
「え──」
そして葛藤する花に追い打ちをかけるかのように、不意に八雲の綺麗な指が花の口端を優しく拭った。
一瞬、何が起きたのかわからず呆けた花は、顔を上げると瞬きを忘れて固まった。
対して八雲は、あろうことか、あんこを拭った指を無造作に、自身の口に運んでぺろりと舐めた。
「……やっぱり甘いな」
八雲は甘いものが苦手だ。ただし、甘酒を除いては──などと考える余裕は、今の花にはない。
(い、い、い、今の何……⁉)
花は目を見開き、コケシのように直立して固まった。
反対に、心臓は早鐘を打つように高鳴っている。
きっと今、顔は茹でたタコのように真っ赤だろう。
気を抜いたらピンと手足を伸ばしたまま、後ろにひっくり返ってしまいそうだった。
「……どうした、熱でもあるのか?」
そんな花の挙動を不審に思ったらしい八雲が、きょとんとして首を傾げた。
無自覚とは、なんて罪なことだろう。
八雲は何気なくしたことなのだろうが、やられたほうはたまったものではない。
何故なら八雲は、誰もが見惚れる容姿を持つ色男なのだ。
先ほどから老若男女、特に観光客らしき女性たちがすれ違いざまに目を奪われるほど、八雲はひどく整った顔立ちをしていた。
身長も、優に百八十センチを超えている。
長い手足も、清潔感のある黒髪も……。浮世離れした姿容は、本人にその気がなくとも否が応でも人目を引く。
(改めて、嘘でも自分がこんな人の嫁候補だなんて、信じられない……)
花が八雲の嫁候補兼つくもの仲居となった経緯は複雑だが、今の花の胸のうちはそれ以上に複雑だった。
出会った頃は互いに会話をするのも憚られるほど険悪な関係だったのに。
けれど今、花は八雲に対して少なからず好意に近い感情を抱いている。
「食べないのか?」
「へ……。あっ、い、いえ! いただきます! ありがとうございます!」
花は騒がしい自身の鼓動を誤魔化すように、煎餅を受け取ると間髪入れずに噛み付いた。
(えーい! こうなったらヤケクソだ!)
バリッ!と爽快な音が鳴る。
次の瞬間には甘じょっぱい醤油の風味が口いっぱいに広がって、花は無心無言で、黙々と顎を動かし続けた。
「どうだ?」
「お、おいひいです……! ありがとうございます……!」
「……ふーむ。今の光景は是非、黒桜にも見せてやりたかったのぅ」
そんなふたりのやりとりを見て、ニヤニヤと頬を緩ませたのは、ぽん太だった。
"黒桜"とは、つくもに務める宿帳の付喪神の名で、ぽん太と同じく花を八雲に嫁がせようと画策しているひとりでもある。
「黒桜さんも、俺たちと一緒に来られたら良かったですよね」
「ほんにのぅ。だが、宿を完全に留守にしてしまうのはマズイからのぅ」
ちょう助の言葉に、ぽん太はいつの間に買ったのか、瓶に入ったとろとろのプリンを食べながら相槌を打った。
本日、つくもは宿泊客の急なキャンセルが入り、予約がゼロになったのだ。
そのため、一行は急遽できた空き時間を使って熱海の町に繰り出すことにしたのだが、黒桜だけはつくもに残って留守番をすると申し出てきた。
『予約の電話や万が一に備えて、誰かひとりは宿に残っていないといけませんから』
どうか私のことはお気になさらず、皆さんは熱海観光を楽しんできてください──と続けた黒桜は、いつも通り朗らかな笑みを浮かべていた。
「でも、考えてみたら黒桜さんって、普段から現世に来たりしませんよね。ぽん太さんはしょっちゅう人に化けて、おいしいものを食べに来てるのに」
ちょう助の鋭い指摘に、ぽん太は「そうかのぅ」と答えて曖昧な笑みを浮かべた。
(そう言われてみれば……)
ちょう助の言うとおり、花がつくもに来てから、黒桜が現世へ出掛けたことは一度もない。
花はこれまでそれを不思議に思ったことはなかったが、同じ付喪神のぽん太やちょう助に比べると、黒桜は常に仕事に掛かりきりで現世に興味がある風ではなかった。
(でも、黒桜さんっていつも飄々としてるけど、実は仕事熱心だしつくもには欠かせない存在だよね……)
実際、花は黒桜に何度も仕事上の危機を救われた。
黒桜が抱える膨大な客神データのおかげで、これまで何度も難所を乗り越えることができたのだ。