「食べないのか?」

「へ……。あっ、い、いえ! いただきます! ありがとうございます!」


 花は騒がしい自身の鼓動を誤魔化すように、煎餅を受け取ると間髪入れずに噛み付いた。


(えーい! こうなったらヤケクソだ!)


 バリッ!と爽快な音が鳴る。

 次の瞬間には甘じょっぱい醤油の風味が口いっぱいに広がって、花は無心無言で、黙々と顎を動かし続けた。


「どうだ?」

「お、おいひいです……! ありがとうございます……!」

「……ふーむ。今の光景は是非、黒桜(くろう)にも見せてやりたかったのぅ」


 そんなふたりのやりとりを見て、ニヤニヤと頬を緩ませたのは、ぽん太だった。

 "黒桜"とは、つくもに務める宿帳の付喪神の名で、ぽん太と同じく花を八雲に嫁がせようと画策しているひとりでもある。


「黒桜さんも、俺たちと一緒に来られたら良かったですよね」

「ほんにのぅ。だが、宿を完全に留守にしてしまうのはマズイからのぅ」


 ちょう助の言葉に、ぽん太はいつの間に買ったのか、瓶に入ったとろとろのプリンを食べながら相槌を打った。

 本日、つくもは宿泊客の急なキャンセルが入り、予約がゼロになったのだ。

 そのため、一行は急遽できた空き時間を使って熱海の町に繰り出すことにしたのだが、黒桜だけはつくもに残って留守番をすると申し出てきた。


『予約の電話や万が一に備えて、誰かひとりは宿に残っていないといけませんから』


 どうか私のことはお気になさらず、皆さんは熱海観光を楽しんできてください──と続けた黒桜は、いつも通り朗らかな笑みを浮かべていた。

 
「でも、考えてみたら黒桜さんって、普段から現世に来たりしませんよね。ぽん太さんはしょっちゅう人に化けて、おいしいものを食べに来てるのに」


 ちょう助の鋭い指摘に、ぽん太は「そうかのぅ」と答えて曖昧な笑みを浮かべた。


(そう言われてみれば……)


 ちょう助の言うとおり、花がつくもに来てから、黒桜が現世へ出掛けたことは一度もない。

 花はこれまでそれを不思議に思ったことはなかったが、同じ付喪神のぽん太やちょう助に比べると、黒桜は常に仕事に掛かりきりで現世に興味がある風ではなかった。


(でも、黒桜さんっていつも飄々としてるけど、実は仕事熱心だしつくもには欠かせない存在だよね……)


 実際、花は黒桜に何度も仕事上の危機を救われた。

 黒桜が抱える膨大な客神(きゃくじん)データのおかげで、これまで何度も難所を乗り越えることができたのだ。