《四月六日 来店予定者リスト》
・名前:緒(お)林(はやし)拓(たく)男(お)
・性別:男
・生年月日:一九三六年一月十七日(享年八十三歳)
・職業:鍛冶(かじ)職人
・経緯(けいい):半年前に起きた交通事故の後遺症(こういしょう)により寝たきりに。入院先の病院にて、誤嚥(ごえん)性(せい)肺炎(はいえん)で亡くなる。
・来店予定時刻:十四時四十七分


 喫茶店の窓に映る景色が、数秒ごとに移り変わっている。
 都会の雑踏(ざっとう)、青い山々の稜線(りょうせん)、外国のカラフルな家――まるでスライドショーのようだ。
 未桜はカウンターのそばに立ったまま、飽きずにその光景を眺めていた。
「気になります?」
アサくんが話しかけてきた。こくりと小さく頷く。
窓の外には、雪がちらちらと舞い始めていた。
「どういう仕組みになってるの? お店の中に、プロジェクターは見当たらないけど」
「あれは、物理的に映像を投影しているわけじゃないんです。ここを訪れるお客様の、記憶なんですよ」
「……記憶?」
「はい。人生の中で見た、印象的なシーンです。あ、今は雪が降っていますね。さっきまでは見なかった景色なので、そろそろ、新しいお客様がご来店されるんだと思います」
 まさに、アサくんの言うとおりだった。
 突如、爽(さわ)やかな風が、入り口から吹き込む。
チリンチリン、と扉についた鈴が音を立てた。
「いらっしゃいませ」
「い、いらっしゃいませ!」
 アサくんに倣(なら)い、未桜もぺこりとお辞儀(じぎ)をする。
 下を向いた拍子に、さっき身に着けたばかりの茶色いエプロンが目に入った。
 途端(とたん)に、気が引き締まる。まだ仕事の説明をひととおり受けたばかりの新人だけれど、お客さんから見れば、未桜だって一人の店員だ。
むしろ、十一歳にして勤務歴十年だというアサくんより、十八歳の未桜のほうが、お客さんに頼られてしまうかもしれない。
その予想は当たっていた。入店したおじいさんは、隣に立っているアサくんではなく、未桜をまっすぐに見て言った。
「ここは何なんだ? なぜ死んでまで、喫茶店なんかに来なきゃならねえんだ。俺はこういう、見てくればかり整えた店は嫌いなんだ。性(しょう)に合わん」
 いきなり怒られるなんて、想像もしていなかった。
 口をパクパクと動かしてみるけれど、言葉が出てこない。その間も、おじいさんは、眉間(みけん)に深いしわを寄せてこちらを睨んでいる。
「緒林拓男さまですね。お待ちしておりました! カウンターでもテーブルでも、お好きな席へどうぞ」
 アサくんがするりと一歩前に進み出て、未桜の代わりにおじいさんを案内した。
さっき教えられたとおり――つまり、マニュアルどおりの台詞だ。
来店予定者リストに載っている名前を呼び、丁寧にお迎えする。席は自由に選んでもらう。「一人一人のお名前を口に出すのが、うちのモットーなんです。誰だって、そうやって迎えられたら嬉しいものでしょう?」とせっかくアサくんが説明してくれたのに、まったく実践に移せなかったことが、無性に悔しい。
 緒林は、名前を呼ばれて面食らった顔をした。じろりとアサくんの顔を見て、「まだ子どもじゃねえか。変な店だな」などとぶつくさ言いながら、ゆっくりと移動を始める。
 その間にアサくんは、いったんカウンターの内側に引っ込んだ。お盆に載せたおしぼりと水のグラスを、緒林が腰かけたカウンター席へと運ぶ。そしてもう一度丁重に頭を下げ、手元のリストに目を落とした。
「ご来店ありがとうございます! まず、こちらで把握している情報に間違いがないか、念のため確認させてください。緒林拓男さま、享年八十三歳。誕生日は、昭和十一年一月十七日」
 生まれ年を和暦(われき)で言うあたりに、きめ細かい配慮(はいりょ)が見て取れる。昭和十一年という言葉が幼い少年の口からさらりと出てくるのは、見ていて不思議だった。
 アサくんとは対照的に、緒林は頑固そうで、態度が大きい。鼻をふんと鳴らし、椅子の背に寄りかかった。
「ここは喫茶店だろう? 病院の診察室じゃあるまいし、なんでわざわざ個人情報を訊くんだ。気持ち悪(わり)ぃな」
「申し訳ございません。万が一取り違えが発生しないよう、確認するのがルールになっておりまして」
「さっき、享年、っつったな。俺の死因も把握してんのか? 最後のほうは意識が朦朧(もうろう)としてて、記憶にねえんだよ」
「ええっと……誤嚥性肺炎、と聞いておりますが」
「はっ、いかにも年寄りの病気だな。肺炎でくたばるなんて、若い頃の俺が聞いたらひっくり返るぜ」
 緒林のぶっきらぼうな受け答えに、ドキリとする。
 ここのお客さんは、本当に、たった今人生を終えたばかりの人たちなのだ。
 つらい病気で苦しみ、目を閉じ、ふと気づいた瞬間に、この喫茶店が建つ不思議な世界に飛ばされている――。
「こんなことなら、半年前に死んどきゃよかったんだ。おい、そのへんの事情は聞いてんのか?」
「交通事故に遭(あ)われたんですよね? その後遺症のため寝たきりになり、亡くなるまでの半年間、入院されていた」
「ああ、そうだ、そうだ。夜中に、家の向かいで男の悲鳴が聞こえてよ、何事かと外に飛び出したんだ。叫び声を聞く限り、若者同士の喧嘩(けんか)のようだった。止めにいこうと、道を渡ろうとして――ドカン、よ」
 ドカン、の部分で緒林の声が突然大きくなり、未桜は肩をびくりと震わせた。
「猛スピードで走ってきた無灯自転車と衝突して、脚を複雑骨折。でっかいギプスをつけられて、ずーっとベッドの上で寝たきり生活だ。筋力も体力も見る間になくなり、歩けなくなってよ。しまいにゃ肺炎でお陀仏(だぶつ)だ。あーあ、八十三年も生きてきて、悲しいもんだな。ま、息子たちからはすっかりお荷物扱いだったし、いい頃合いだったか」
 そう言いつつも、緒林は自分の死因に納得がいっていないようだった。「若者の喧嘩くらい、ほっときゃよかったのによ」と自嘲(じちょう)気味に言い、カウンターに拳を叩きつける。
 ――何か、声をかけなければいけない。
 そう思うのに、言葉が浮かばなかった。「それはつらかったですね」? 「きっと息子さんたちも悲しんでいますよ」? お前みたいな若者に何が分かる、と額に筋を立てられるのが関の山ではないか。
「本当にお疲れ様でした! 八十三年の人生、大変なことも、思い出に残ることも、いろいろありましたよね。どうか、ここでゆっくりくつろいで、身体と心を癒してください。緒林さまが来世に“向かう”お手伝いを、誠心誠意、させていただきます」
 アサくんはまったく動じずに、慣れた仕草でメニュー表を開いて差し出した。緒林はドリンクメニューにちらと目をやり、失望した顔をした。
「なんだ、これだけかよ。俺は酒を飲みたかったんだがな」
「すみません、ここは喫茶店ですので……」
「最近は、アルコールを出す喫茶店もあるんじゃなかったか? かふぇばー、とかいう」
 老人に似合わない横文字をたどたどしく口に出した直後、「お、奇妙だな。老眼鏡がないのに読めるぞ。これは死んだ甲斐があった」と嬉しそうに言う。
 第一印象ほど、とっつきにくい人物ではないようだ。半年もの間、病院で孤独な時間を過ごしていたために、心がささくれ立ってしまったのかもしれない。
「では、お飲み物の説明をさせていただきますね」
 緒林の機嫌がよくなったところで、アサくんがすかさず、小さな手でドリンクメニューを指し示した。可愛らしい見た目とは裏腹に、接客の仕方は熟練(じゅくれん)のホテルマンのようだ。
「ここでは、コーヒーや紅茶などを一杯だけ、召し上がることができます。お飲み物には、それぞれ異なる効能があります。こちらの喫茶店を出るとすぐ、緒林さまの新しい人生が始まるわけですが、どのお飲み物を選ぶかによって、“来世の条件”の決め方が変わります。ですので、じっくり選んでくださいね」
「ふうん、“来世の条件”ねえ。そんなものが決められるのか?」
 緒林は懐疑的(かいぎてき)な目でメニューを見ている。