「さてと、説明はこんなところかな。何か質問はある?」
 マスターの漆黒(しっこく)の瞳が、未桜を捉えた。
 心の奥底まで見透かすような視線に、心臓がぴくんと跳ねる。
なぜかは分からないけれど、マスターの静かで優しい話し声を聞いていると、胸の奥がざわざわと揺れるのだった。そして、灯がともったように温かくなる。
目の前にいるのが、今まで会ったことがないほど顔立ちが整った男性だから、なのか。
もしくは、来世喫茶店という不思議な場所の力なのか。
「あの……さっきから、日本の話しか出てこないのが気になったんですけど……来世では、日本人にしかなれないんですか? 外国人とか、人間以外の生き物になることもあるんですか?」
「おっ、いい質問だね」
マスターがゆっくりと頷き、「基本的に、日本人は日本人に生まれ変わることになってるよ」と柔和(にゅうわ)な口調で答えた。
「とはいえ、“器”の数は決まってるから」
「……うつわ?」
「生物学的な個体のこと。近年、日本は少子高齢化が進んでるよね。亡くなる人数に対して、母親の胎内に宿る“器”――これから生まれてくる胎児の数が、ずっと少ないんだ。だから、一人一人の希望を聞いた上で、外国人や人間以外の生き物に生まれ変わらせる場合は、本部を通じて系列(、、)の(、)来世喫茶店に交渉することになる」
 例えば、とマスターはいくつか例を挙げた。
 アフリカ諸国では、亡くなる人数より“器”のほうがずっと多いため、“向かう人”をいつでも募集している。
 日本と同じような先進国は、どこも出生率が2を下回っているため、他国から“向かう人”を受け入れることはほとんどない。
 ペットに生まれ変わりたいという“向かう人”もそこそこ多いが、特に日本の犬の飼育数は年々減っているため、他の生き物や国を提案する場合も多い。
 ちなみに、“向かう人”とは、来世喫茶店にやってきた死者を指す言葉なのだという。「現実世界に(再び)向かう人」という意味だそうだ。その反対語が、今生きている未桜のことを話すときに使っていた、“生ける人”。
 来世喫茶店の組織図を思い浮かべようとして、めまいに襲われた。「日本」の「人間」だけで六十店舗あるという話なのに、系列のお店まで入れたら、いったいどれだけ膨大な組織になってしまうのだろう。
「それって……つまり、犬の喫茶店とか、猫の喫茶店も、どこかにあるってこと?」
 犬カフェ、猫カフェのような雰囲気のお店をイメージしながら尋ねると、アサくんが噴き出した。
「いえいえいえ、喫茶店の形態をとっているのは人間だけですよ。犬は犬、猫は猫、鳥は鳥、虫は虫で、まったく別の死後の世界があります。犬の喫茶店だなんて……ふふっ」
「ちょっと、バカにしないでよっ!」
 未桜が頬を膨らませると、アサくんは「すみません、すみません」と頭を下げた。必死に笑わないようにしているみたいだけれど、唇の端がぴくぴく震えているのが丸見えだ。
 そのアサくんが手にしている、黒い革の表紙のメニュー表を見つめる。
「でも……みんなが好き勝手な来世を希望したら、大変なことになるんじゃないですか? “器”が足りないのに全員日本人に生まれ変わりたいって言い張ったり、百二十歳まで生きたいって無茶な要求をしたり」
「それもいい質問だね」と、マスターが頷いた。「さっきも言ったけど、ここで決めることができるのは、『来世の大まかな形』なんだ。お客様のすべての希望に応えたいのは山々だけど、オーダーメイド品の注文を受けるようにはいかない」
 マスターがカウンター越しに手を差し出してきた。アサくんが背伸びをして、メニュー表を手渡す。
 その革の表紙を、マスターは綺麗な指の先で軽くつついた。
「来世とは未知で、どうなるかも分からないもの。当然、全部の要望を叶えることはできない。だったら、絶対に外すことのできない、最も大事な“来世の条件”は何なのか。その答えを探す手助けをするのが、僕が日々心を込めて淹れている、これらのドリンクなんだよ」
 再び、メニュー表がカウンターを越えて、未桜のもとへと返ってきた。
 メモリーブレンド。
 相席カフェラテ。
 マスターのカウンセリングティー。
 それらの「特別なドリンク」がどういうものなのか、未桜はまだ知らない。
 けれど、興味がむくむくとわいていた。
 ここにやってくるお客さんたちが、どのドリンクを注文して、どんな来世を選び取っていくのか。
 来世に“向かう人”たちに、マスターやアサくんはどのように接し、どんな手助けをしていくのか。
「ええと、喫茶店の仕事を見学したいんだよね? カウンターの中でも、バックヤードでも、どうぞご自由に。その間、僕は八重樫さんの記憶を消す方法を、急いで調べることにするよ」
「あ、いいです、急がなくて。ゆっくりで」
 未桜が両手を左右に振ると、マスターは怪訝そうな顔をした。
「いや、そういうわけにはいかないよ。八重樫さんは“生ける人”なんだから。アサくんに黄色いチケットを見せられたことは早く忘れて、さっさと現世に戻りたいだろうし――」
「いいえ。すぐに帰りたいだなんて、ちっとも思ってません!」
 思わず大声を出してしまった。
お客さんをびっくりさせてしまったのではないかと、慌てて振り返る。けれど、意外なことに、別々のテーブル席に座っているおじいさんとおばあさんは、ゆったりと目をつむっていた。
「ああ、大丈夫ですよ、お二人はメモリーブレンドを飲んでいるところですから」
アサくんが明るい声で言う。どうして大丈夫なのかは分からないけれど、迷惑がかからなかったならよかった。
 未桜は俯き、頭の中を整理した。
それから顔を上げ、マスターに向かって、まっすぐに告げた。
「しばらく、ここで働かせてください!」
 マスターが無言で目を見開いた。「はっ、働くって、何を言い出すんですか! 僕が許可したのは、ちょっとした見学と体験だけですよっ!」とアサくんが未桜のブラウスの袖を引っ張る。
 未桜はいったんアサくんへと向き直り、ぐっと顔を近づけた。
「だって、私は被害者だよ? 二年後に死ぬことを突然知らされて、絶対に受かりたかったバイトの面接までふいにしたんだよ? これくらいの要望は聞き入れてもらわないと困るよ!」
「そ、そ、そ、そんなこと言われても!」
 アサくんが、助けを求めるような目でマスターを見る。
 未桜はカウンターに両手をつき、マスターの大きな目を見てさらに力説した。
「私、ずっと、喫茶店で働くのに憧れてたんです。ここはすごく小ぢんまりとしてて、レトロで、コーヒーの香りがよくて……私の理想の喫茶店なんです! だから、私の気が済むまで、店員としてここでアルバイトをさせてください。記憶を消す方法を見つけるのは、全然急がなくていいですから!」
 一生懸命、訴えかけた。
 アサくんが、未桜の隣で慌てに慌てている。
 マスターが、こちらの真意を推し量るような目で、未桜を見ている。
「現世のことなら、心配要りません。もともと……その、ちょっと……家には、あんまり帰りたくなかったりする……し」
 これは、ダメ押し。別に家のことがなくたって、もう少し長く、このお店に滞在していたい。
 それくらい、ここが気に入ってしまったのだ。
 お店のレトロな雰囲気も、若いマスターが醸(かも)し出す不思議な魅力も、おっちょこちょいなアサくんの人となりも。
 幼い頃からずっと夢見ていたカフェのバイトをするなら――絶対、ここがいい!
 その思いが伝わったのかもしれない。マスターがふうと息を吐き、「いいよ」と悪戯(いたずら)っぽく笑った。
「店員になりたいなんて、珍しいね。まあ、そういうお客様は初めてじゃないけど……とにかく、気に入ったよ。その押しの強さといい、喫茶店への愛といい、ここで働いてもらうにはぴったりの人材だ。きっと、僕たちとは別のタイプの接客をして、大いに活躍してくれるんじゃないかな」
「え? え? マスター、本気で言ってます?」
 アサくんが目を白黒させる。そんな彼に構わず、マスターはカウンターの中を指差しながら、未桜に向かって言った。
「じゃ、八重樫さん、どうぞこちらへ。ブラウスが汚れたら困るだろうから、エプロンを渡すね。仕事の説明は、アサくん、お願いしていい?」
「ええええっ、本当に雇っちゃうんですか? 現世から連れてきた“生ける人”を?」
 前代未聞ですよぅ、本部に知られたら大変ですぅ――と、アサくんが手足をバタバタとさせている。そんなアサくんとは対照的に、マスターは涼しい顔でくるりと身を翻した。バックヤードに、予備のエプロンを取りにいくようだ。
「ありがとうございます!」
 未桜は意気揚々と、マスターを追いかけた。


 やっと、念願の喫茶店で働ける。
待っていたのだ――この日を!