彼が未桜のことを砂羽の生まれ変わりだと確信したのは、アサくんが持っていた来店予定者リストを読み返してからだったという。未桜の生年月日が、小山内砂羽が生まれ変わった時期と一致しているのを見て、自分の直感が正しかったことを知った。
来世喫茶店で働きたいという未桜の希望を受け入れた後も、常に心は揺れ動いていた。
生まれ変わる前の未桜と恋人同士だったことを、本人に伝えるか否か。──否。魂は同じとはいえ、未桜は砂羽だった頃のことを覚えていない。砂羽とは別の人格を持つ未桜に、前世のことをこちらから教えるのは酷であり、来世喫茶店の禁忌(きんき)にも触れる。その重大さは、濃い目のメモリーブレンドを淹れて砂羽に飲ませたこととは比べ物にならない。
いつ、未桜にカウンター席で水を飲ませ、本人も知らない“来世の条件”をクリアさせて現世に返すか。──今、未桜は現世で意識不明の状態にある。看病している父親のためにも、早く帰さなければならない。けれど、まだもう少しだけ、一緒にいたい。二十年近く思いを寄せ続けてきたのだから、数日くらいは許されるのではないか。未桜が自ら帰りたいと言うまでは、無理に背中を押すこともないのではないか。
そもそも、未桜は、砂羽なのか。──いくら考えても、答えは出ない。自分は小山内砂羽という“器”に魅力を感じたのか、それともその奥にある“魂”に惹かれたのか。ただ、一つ言えるのは、自分が再び、同じ魂を持つ八重樫未桜という女の子に、今どうしようもなく恋をしているということだ。
「いくら日本三十号店のお客様に同じ地域出身の人が多いとはいえ、町井さまが相席カフェラテで砂羽を指名したときは、正直焦ったよ」
 マスターが鼻の下を人差し指でこすり、恥ずかしそうに告白した。
「相席カフェラテのダブルブッキングが不可能という話はしたよね? それと同じで、すでにこちらの世界に来ている未桜さんは、相席カフェラテで呼び出せる対象から外れるんだ。あれはあくまで現世から魂を呼び出すドリンクだから。だけど、その理由を未桜さんが見ている前で説明するわけにもいかないし、きっぱり断ろうにも町井さまは砂羽に思い入れがあるようだったし……どうにも頭が混乱してしまって」
「ほほぅ、あのときマスターがいったんバックヤードに引っ込んだのは、気持ちを整理するためだったんですねぇ」
 呆気に取られて口を半開きにしていたアサくんが、我に返ったように背筋を伸ばし、「なるほどなるほど」と腕組みをした。
 ということは──と、未桜はふと気づいた。
「小山内……さん……のメニエール病のこと……マスターは、初めから知ってたんですか?」
 生まれ変わる前の自分を何と呼ぶのが正解か分からず、つっかえつっかえ尋ねる。
 一瞬の間の後、マスターが「うん」とバツが悪そうに頷いた。
「成り行き上、推理したように見せかけたけど……実際はここで、本人の口から聞いたんだ。町井さまのことを大切な友人と思っていたからこそ病気のことを言えなかったというのも、翌朝には自分のほうから仲直りをするつもりで、そのきっかけを作るために町井さまが用意したアロマキャンドルに火をつけたというのも……すべて、砂羽自身が言っていたことだよ」
 あのとき、「──と、僕は信じています」と語ったマスターの口調が、確信に満ちたものだったことを思い出す。
「それなら、私の口から町井さまに真実を伝えてほしいなんて言わないで、最初からマスターが自信を持って話せばよかったのに……」
「僕はね、これは未桜さんが判断すべきことだと思ったんだ」
「……え?」
「死ぬまで隠していた病気のことを、今さら親友の町井さまに言っていいのかどうか。記憶はなくても、未桜さんはかつて小山内砂羽だったわけだからね。本人(、、)に判断を委ねれば、的確な答えを出してくれると思ったんだ。……いやあ、まさか、『自分の手柄のふりをして言うのは卑怯』って、断固拒否されるとは思わなかったけどさ」
 冗談めかして言われ、途端に頬が熱くなる。
──マスターの心の内も知らないで、私ったら、何て偉そうな発言をしちゃったんだろう!
思わず顔を覆うと、マスターの可笑しそうな声が降ってきた。
「でも、未桜さんの正しさに満ちた言葉に背中を押されたのは事実だからね。おかげで、町井さまの心を救うことができたよ。きっと今頃、晴れ晴れとした気持ちで次の人生を歩み出しているはずだ」
「ご、ごめんなさい、私、立場もわきまえず──」
「そういうところが好きなんだって、前にも言わなかった?」
 不意打ちだった。
 一瞬遅れて、周囲にぱっと花が咲いたような喜びと、そこら中に穴を掘って隠れたくなるような恥ずかしさが、未桜を一気に襲う。
「ま、ま、ま、ま、マスター、わっ、私の、そういうところって……」
「相手が誰であっても、進むべき道をきちんと示そうとする、正義感の強さ。相手の懐に飛び込んで、一緒になって悩んだりもがいたりできる、実行力を伴った優しさ。周りを拍子抜けさせてふっと笑わせることのできる、ちょっとばかり鈍感な可愛らしさ。あとは、前世で交わした約束を、無意識下でずっと覚えていてくれた、義理堅さもかな」
 マスターがはにかむ。
未桜のほうも、その顔を正視していられなかった。
 彼の記憶の中で見た、白いワンピース姿の女性──小山内砂羽の、艶のあるセミロングの黒髪を思い出す。
彼女は、別れ際にこう言っていた。
 ──あなたのことは、ずっと忘れないわ。
 そう。
 未桜は、前世で愛した相手のことを、忘れていなかったのだ。
 だから自然と、マスターに恋をした。
 マスターのようにすらすらと言葉にはできないけれど、胸いっぱいに膨らんでいるこの想いは、紛れもなく本物だ。
「ありがとう、未桜さん。君は生まれ変わってもなお、現世と来世の狭間で暮らす僕のことを、忘れないでいてくれたんだね」
「それは、こ、こちらこそ! 私が生まれ変わって、砂羽さんじゃなくなっても、ずっと一途に……って、私の恋心、いつの間にバレてたんですか⁉」
「それはまあ、見ていれば、ね。それに、アサくんがたびたび耳打ちしてくれたから。『未桜さんの気持ちに応えてあげたらどうですか』って」
「あーさーくーん!」
 声に怒気を含ませて振り向くと、アサくんは「きゃあ!」と女の子みたいな悲鳴を上げて飛び退いた。「だって僕、未桜さんに幸せになってほしかったからぁ!」と弁解しながら、あっという間に壁際まで逃げていく。
 まったくもう、と頬を膨らませて、未桜はカウンターに向き直った。
 その途端、背後でアサくんが「あっ!」と大発見をしたような声を上げる。
「わわっ、僕、ものすごいことが分かっちゃったかもしれません!」
「……何?」
「未桜さんって、あそこにあるクッキーの中なら、スノーボールが一番好きって言ってましたよね?」
「うん……そうだけど」
「スノーボールの袋に使われてるリボン、緑がかった水色ですよね?」
「そうだね」
「見てくださいっ! 未桜さんのトレードマークも、ほとんど似た色のリボンじゃないですかっ!」
 アサくんが駆け寄ってきて、小さくて細い指を、未桜のハーフアップの髪につきつけた。
 数秒後、「……それが?」と未桜が返すと、アサくんはじれったそうに「ああもう!」と叫んだ。
「めちゃくちゃ勘が鋭いのに、変なところで鈍感ですねぇ、未桜さんは! 十九年と少し前に、未桜さんが小山内砂羽さんとしてこのお店に来たときにも、スノーボールの袋を持ち帰ったんじゃないですか、ってことです!」
「……スノーボールを?」
「だからこそ、同じ色のリボンに運命を感じたんじゃないですか? もちろん、お母様の形見という理由が一番でしょうけど、きっとここでのマスターとの恋の思い出も、未桜さんの好みに反映されてたんですよ!」
 そう言われて、はっと髪に手をやる。
 確かにこのリボンは、お母さんの形見だ。十二月生まれのお母さんが持っていた、ターコイズ色のヘアアクセサリー。
 けれど、未桜は四月生まれだし、二年前までは髪を結ぶ習慣もなかった。それでも、いくつかあった遺品の中からこのリボンを選んでつけ続けているのは、青や緑といった色がもともと好きだからというのもある。
 昔から、たびたび友達に不思議がられていた。未桜という名前なのだから、ピンク系の色が好きそうなものなのに、と。
 そう言われながらも自分がこの色のリボンを愛用してきたのは、アサくんの言うとおり、生まれ変わる直前に経験した大切な思い出が、何らかの影響を及ぼしていたのかもしれない。
 もう一度、脳内であの映像を再生してみる。
 マスターの記憶の中で、白い石の敷き詰められた小道を歩いていく小山内砂羽は、お土産のクッキーの袋を片手に持っていた。
 そこに巻かれていたリボンは、何色だっただろうか。
「ねえねえマスター、僕の推理、当たってます? 教えてくださいよぉ」
 アサくんの甘えた声で、現実に引き戻された。いつの間にかカウンターの中に戻り、マスターのワイシャツの袖を引っ張っている。マスターは笑って、「さあ、どうだったかな」と未桜に視線を向けた。
 目と目が合った瞬間、ないはずの記憶が蘇ったような気がした。
 スノーボールクッキーの袋を片手に、涙を流すマスターに向かって手を振っている光景が、ちらりと頭の片隅に流れる。