でも、未桜は納得していなかった。納得するには、まだまだ説明のつかないことがありすぎる。
 お父さんは、恋人と電話していたのではなく、スマートフォンの音声入力機能を使って、亡くなったお母さんのアカウントにメッセージを送っていた。
 マスターはいち早くこの事実に気づき、相席カフェラテで送信先のお母さんを呼び出すことで、未桜の誤解を解こうとした。
 それは分かったけれど──。
「──どうやって、見抜いたんですか?」
「ヒントは三つあったよ」
 マスターが静かに微笑み、右手の指を三本立てた。
「一つ目は、未桜さんのお父さんをデパートで見かけたときの格好。怪我をしている右手の人差し指に、包帯を分厚く巻いてたよね。あれでは日常の動作に支障が出るはずだ。例えば、スマホの入力なんかは苦労するだろうね。左利きや、両利きでもない限りは」
「お、お父さんは……右利き、です……」
「二つ目は、未桜さんが部屋のドアを開けてお父さんを怒鳴りつけたときの光景。もしお父さんが誰かと電話中だったとしたら、スマートフォンは耳のそばに構えたままになるのが自然だけど、あのときスマートフォンはテーブルの上にあった」
「あっ……確かに!」
「聞こえてきたのはお父さんの声だけだったから、スピーカー機能を利用中だったわけではない。また、イヤホンを接続している様子もなかった。ということは、やっぱり電話はしていない。こちらが見逃しやすいワイヤレスイヤホンを使ってたなら、話は別だけど」
「お父さんは、そんな先進的なものは持ってない……です」
「そして三つ目は、ここ来世喫茶店で未桜さん自身が披露(ひろう)した推理の内容。長篠さまと信田さまが来店したとき、未桜さんは二人にこう言ってたよね。『亡くなった人にいくらメッセージを送っても、既読になることはありません』と」
 ──そうだった。
 どうして気づかなかったのだろう、と額に手を当てる。
 長篠梨沙は、相手がすでに死んでいることを知らずに、半年もの間、信田道彦にメッセージを送り続けていた。
それならば逆に、 “未読スルー”になると分かっていながら、もうこの世にいない相手に一方的な思いを語り続けることもできる。
未桜が盗み聞きしてしまった父の言葉は、すべて、亡くなった母に向けたものだったのだ。──愛の囁きも、近況報告も、娘に関する他愛のない愚痴も。
「不思議だね。さすがの未桜さんも、自分のことになると、観察眼が曇ってしまうのか」
マスターが可笑しそうに口元を緩める。
そんな彼に向かって、未桜は慌てて声を上げた。
「ちょっ……ちょっと待ってください! 音声入力の件は分かりましたけど……デパートで女の人と二人で歩いていた件はどうなるんですか? お化粧品を買ってあげたり、カオリさんって下の名前で呼んだりしてたのは? 家に帰ってきたときに、声の調子がウキウキしてたのは?」
「もう一度、思い返してみてごらん。前提をひっくり返すと、世界は全然違って見えてくるんだよ」
 未桜の詰問にも動じず、マスターがカウンターに目をやった。視線の先には、まだ中身の残っているメモリーブレンドのカップがあった。
 ──前提をひっくり返すというのは……お父さんは、あの女性と恋愛をしているわけじゃない、ってこと?
 先ほど再体験した記憶が、未桜の頭の中を再び駆け抜ける。
 ──あのグロス、実は気になってたんですよぉ。
 ──そう言ってもらえて、俺も嬉しいよ。
 ──ヤエさん、大丈夫ですか?
 ──ったく、カオリさんは強引だなぁ。
「帰宅したとき、未桜さんのお父さんはウキウキしている様子だったんだよね。そして、亡くなったお母さんのアカウントに、音声入力でメッセージを送信した。その中には、『本当はもっといろいろ買ってあげたかった』という言葉があったね。さて、お父さんは、誰(、)に(、)何(、)を(、)買って(、、、)あげたかったん(、、、、、、、)だろう(、、、)?」
 はっと息を呑む。マスターの言うとおりだった。
 もし「買ってあげる」対象が新しい恋人なのだとしたら、亡くなったお母さんにわざわざそのことを報告するはずがない。
と、いうことは──。
「そもそも、未桜さんが初めてデパートの化粧品売り場に足を運んだ日に、広いフロア内でお父さんとばったり会ってしまったこと自体、もし百パーセント偶然だとしたら、なかなか奇跡的な出来事だよね。そこで、こう考えることはできないかな。あの日、未桜さんはお父さんの姿を、見かける(、、、、)べく(、、)して(、、)見かけた(、、、、)。なぜなら、二人は同じ目的を持っていたから──と」
「えっ……お父さんも、あのリップグロスを……?」
 未桜が目を瞬(またた)き、口元を押さえた瞬間だった。
 スマートフォンの画面に目を落としていたお母さんが、未桜が発した単語に反応し、ぱっと顔を上げた。
「例のリップグロス、もうお父さんからもらったの? よかったねぇ」
「な、何の話⁉」
「あら、ごめんなさい。ネタバレになっちゃったかしら」
 お母さんが、しまった、というように舌を出す。トーク画面を遡(さかのぼ)るのに夢中で、未桜とマスターの会話は全然耳に入っていなかったらしい。
「今、お父さんが送ってくれたメッセージに目を通してたんだけどね。未桜にどういうことをしてあげればいいかって、いちいち相談が送られてきてるのよ」
「相……談?」
「最近だと、『未桜がCMでやってたリップグロスとかいうのを欲しそうにしているみたいだ。入学祝いに買ってやりたいけどどこに行けば売ってるんだろう』とか。あとは、『そろそろ未桜が十九歳になるから、成人式に備えて振袖(ふりそで)のパンフレットを取り寄せたほうがいいかな』とか。……もう、おかしな人。二年前に死んだ私が返事できるわけないのにね」
 幸せそうに笑うお母さんの前で、未桜は呼吸を止めていた。
 お父さんは、大学に入学した未桜に、あのリップグロスを贈ろうとしていた。
 家でこそこそと見ていたのは、旅行でも結婚式場でもなく、まだ娘が高校生であるにもかかわらず勇み足で取り寄せてしまった、成人式の振袖のパンフレットだった──。
「親切な職場の事務員さんなんかに、ちゃんと相談してくれてるといいんだけど。確か、佐(さ)藤(とう)さんって言ったかな。三十代くらいの、元エステサロン勤務の方がいたと思うの。佐藤って苗字の方は職場に何人かいるみたいだから、カオリさんだったかミドリさんだったか、下の名前は忘れちゃったけど」
 でもねえ、とお母さんが苦笑する。
「お父さん、家ではあんな感じだけど、意外と引っ込み思案だから。ヤエさん、ヤエさんって後輩たちから慕われてるのに、自分からは上手く話しかけられないみたいなのよね。結婚するときだって、ほとんど私からプロポーズしたようなものだったし。化粧品について女性に相談するのは、至難(しなん)の業(わざ)かしら」
 するり、するりと、絡まっていた糸がほどけていく。
 カオリさんは、化粧品に精通(せいつう)している、職場の事務員さん。
 ヤエさんというのは、職場の後輩みんなに呼ばれている、父の共通のあだ名。
 呆然としている未桜に、マスターが話しかけてきた。
「もう分かったかな? お父さんは、頼りになる職場の同僚に頼んで、デパートで未桜さんの入学祝いを選んでもらってたんだ。下の名前で呼んでいたのは、同じ名字の人が職場に何人もいるから。『あのグロス、気になってたんです』と同僚の女性が発言し、お父さんが『それはよかった』と返していたのは、彼女がついでに自分の分も購入して喜んでいたから」
「じゃあ……帰宅したときにお父さんがウキウキしていたのは……」
「サプライズプレゼントを早く未桜さんに渡したかったから、だろうね」
「『本当はもっといろいろ買ってあげたかった』っていうのは……」
「リップグロス以外の化粧品も一揃い、ということかな。ボーナスが少なくて、それは叶わなかったみたいだけど」
「嘘だよ……お父さん……私、なんてひどいことを!」
 前提をひっくり返すと、世界は全然違って見えてくる。
 マスターの言葉は本当だった。視界が百八十度反転し、疑惑の霧はあっという間に晴れていった。
「ひどいこと? どうしたの未桜、お父さんと喧嘩でもしたの?」
 お母さんが、きょとんとした顔で尋ねてくる。未桜は我に返り、はっと両手で口を押さえた。
「わっ、わわっ、私、お母さんの前でとんでもない話をっ!」
「え? 何のこと? お父さんからのメッセージがなかなか読み終わらなくて、ちっとも聞いてなかったんだけど」
 その返答に、胸を撫で下ろす。「じゃあ大丈夫、大した話じゃないから!」と慌てて誤魔化し、カフェラテをぐいと一口飲んだ。視界の端で、アサくんがクスクスと笑っている。