この少年は、人知を超えた存在。常識で理解できるものではないし、「死ぬ間際(まぎわ)」でなければ、こうして会うこともなかった。
──問題は、二〇一九年四月六日現在、八重樫未桜はまだ「死ぬ間際」でないということだ。
「あっ!」
 大事なことを思い出し、未桜は腕時計を見た。
午後二時二分。顔から血の気が引く。
焦りに焦っている少年に追い打ちをかけるように、未桜は憤慨(ふんがい)して詰め寄った。
「ちょっと、どうしてくれるの! 二時からバイトの面接が入ってたのに、パーになっちゃったじゃない!」
「わっ、そうだったんですか? じゃあ今からでも、急いで行ってきてください。真剣に謝れば、きっと――」
「時間に厳しいことで有名なカフェチェーンなの! 無断遅刻をした学生は、面接さえ受けさせてもらえなくて、即お断りされるんだって。申し込んだときの注意事項にもしっかり書いてあったし……ああもう最悪! 二十一歳で死ぬなんて突然言われなければ、絶対に忘れなかったのに!」
「あ、あの……それは本当に……」
「謝って済む問題じゃないの! 私がお洒落な喫茶店で働くのをどんなに楽しみにしてたか分かる? 受験勉強中もずっとそのことを考えてたし、もっと遡(さかのぼ)れば、物心ついたときには『コーヒー屋さんのお姉さん』になりたいと思ってたんだよ?」
「物心ついた頃ですか……それはものすごく早いですね」
「でしょう? そんな十五年来の夢を、たった今、君に台無しにされたの!」
 自分でも分かっていた。ここまでくると、ただのクレーマーだ。
どうしても喫茶店で働きたいなら、また別のカフェチェーンの面接を受ければいい。
だけど、悔しさがどうしても拭えなかった。理想のお店を一生懸命調べて、ドキドキしながら申し込みをして、店長さんとメールでやりとりをして、面接で何を訊かれてもいいように何度も受け答えの練習をして、明歩に付き合ってもらいつつ三時間も前からお店の近くで待機していた、その努力が無駄になってしまったのだから――。
「分かりました。では、来世喫茶店に、今から来てみませんか?」
「……へっ?」
 少年の思いがけない提案に、間の抜けた声が出る。
 だって、さっきの話を総合すると――来世喫茶店って、死んだ後に行く場所なんじゃなかったっけ?
「ご心配は無用です。来世喫茶店を訪れたからといって、死ぬわけではありません。もともと、“生ける人”も出入りできる場所なんです。とはいっても、生身のままではなく、魂だけをお連れする形になりますが」
 身体をこの世に置いていかなくてはならないという意味では、死者も生者も一緒、ということなのだろう。
「どちらにしろ、八重樫さんの記憶を消せない事象について、マスターに相談しないといけないですし……ついでに、喫茶店の仕事の見学や、ちょっとした体験くらいはさせてあげられると思います。僕はただの下働きなので、マスターの判断次第ですけれど」
 体験、という言葉に胸がときめく。──それはなかなかいいかもしれない。
「ちなみに、バイト代は出ないよね?」
「そ、そうですね……“この世”の喫茶店ではないので、給与をお支払いするのはちょっと難しいかもですが……でも、美味しい賄(まかな)いなら出ますよ!」
 少年はそこでなぜか得意げな顔をした。「君が作るの?」と訊くと、「いえ……あの……マスターです」という恥ずかしそうな答えが返ってきた。
どうやらこの子、しっかりしているようでいて、ちょっぴり天然らしい。
少年の頬は、いっそう赤くなっていた。「で、どうします?」と早口で尋(たず)ねてくる。
未桜の中で、答えはすでに決まっていた。
――こんなの、興味がわかないわけがない。
「来世喫茶店って、変な名前だけど、基本的には普通の喫茶店なんだよね?」
「ええ、そうです。お客様にコーヒーや紅茶をお出しして、くつろいでいただくための場所です」
「じゃ、連れてってもらおうかな。次またバイトを探すにしても、実際のカフェ店員の仕事を学んでおいたほうが、面接で有利になるかもしれないもんね」
 本当は、それだけではなかった。マスターの作る美味しい賄い、という条件にも惹(ひ)かれていた。マスターというのがどんな人か全然知らないし、賄いのメニューも不明だし、さらに言えばさっき明歩と一緒に人気店のパンケーキをたいらげたばかりなのに、お腹がぐーと鳴っている。
 未桜の答えを聞いた少年は、背筋を伸ばし、上着の胸ポケットから銀色のネームプレートを取り出した。
「申し遅れました。来世喫茶店、日本三十号店に勤めている、笹(ささ)子(ご)旭(あさひ)といいます」
「今さら自己紹介?」
「いえ、チケットをお見せして記憶を消すだけだったら名乗る必要はないんですが……こうなった以上、怪しい者ではないことを強調しておこうかなと」
 突然都会のど真ん中にスーツ姿で現れて、黄色いチケットを突きつけながら寿命の説明を始めた時点で十分怪しいよ、なんて言ったら、彼は凹んでしまうだろうか。
「年齢は十一歳ですが、勤続年数はもう十年になります。これ以上のヘマはしないよう努めますので、安心してついてきてください」
「十年って……えっ、一歳のときから?」
「いえ、そういうわけではありませんが」
 では行きましょう、と少年は春の青空を指差した。
 小さな白い手が、未桜の手首に触れる。
 頭上の桜が揺らめいた。


 視界が薄ピンク色に染まる。