キャンドルが灯った席で、信田道彦はぼんやりと、窓に映った自分を眺めていた。
その後ろに梨沙と未桜が現れたのに気づき、はっとこちらを振り返る。未桜が見守る中、梨沙は信田の向かいに再び腰かけ、テーブルに身を乗り出した。
「ねえ、道彦。レストランを開きたいっていうのは、あたしを騙すための嘘だったんだよね? だったら、何のために金を持ち逃げしたの? ギャンブルでもして借金があった? 他の女に貢ごうと思った? それとも単に豪遊するため?」
宣言どおり、梨沙はなるべく声を抑えようと努力しているようだった。
梨沙がこれほど真剣に尋ねているのに、信田は相変わらず、答える気配を見せなかった。じっと俯き、頑なに口を閉ざしている。
「さっきも言ったけど、もうあたしは死んでるんだってば。道彦が何を話したとしても、自殺しちゃった以上、復讐なんかできっこないし、警察に被害届も出せないの。生まれ変わる前に道彦の口から本当のことを聞きたいだけなんだから、安心してぶっちゃけてよ」
それでも信田は黙りこくっている。彼がどことなく悲しそうな表情をしているのが気になった。
好転しない状況を見かねて、未桜は恐る恐る、横から助け舟を出した。
「あのう、信田さん。ちゃんと話したほうがいいと思いますよ。やむを得ない事情なら、許してもらえると思いますし……ほら、例えば、実は持病があって、多額の治療費が必要だったとか!」
「いや……」
信田はちらりと未桜を見上げ、また目を伏せてしまった。「あのさぁ」と梨沙もあきれ果て、テーブルに頬杖をつく。長期戦を覚悟し始めたようだ。
――この喫茶店にいる間は、“向かう人”だろうと“生ける人”だろうと、眠くなることは一切ないですからね。
アサくんの台詞が耳に蘇り、ぞっとする。梨沙も信田も眠気に襲われることがないのだとしたら、この男女の戦いはいったいいつまで続くのだろう。
相席カフェラテを頼んだ人は、呼び出した相手と話し合った上で、“来世の条件”を一つ決定しなければならない。現時点でまったく心が通じ合っていない様子の二人が、最終段階まで辿りつけるのかどうか、心配になってくる。
「梨沙は……どうやって自殺を?」
無言を貫くかと思われた信田が、蚊の鳴くような声で問いかけた。その質問に、梨沙が眉を吊り上げる。
「首吊りだよ。シンプルにね」
「……そうか」
訊いた信田も何を考えているのか不明だが、梨沙も梨沙だ。首吊り、などという非日常的な言葉を、日常会話の一環(いっかん)のような口調で声に出すなんて、信じられなかった。
――その単語が自分の中でありふれたものになってしまうくらい苦しみ続けた、ということなのかな。
そんなことを思いながら、信田の顔を盗み見る。彼の顔には、悲哀の色が浮かんだままだった。
梨沙が一生懸命貯めたお金を持ち逃げしたのは自分なのに、信田はなぜ、これほど複雑そうな表情をしているのだろう。まさか、梨沙が自殺するとは思わなかったからだろうか。
でも、長いあいだ一緒にいた恋人同士なのだから、それくらい予想がつきそうなものなのに――。
「店員さん、いったん大丈夫だよ。長丁場になりそうだし、こっちで何とかするから」
梨沙がこちらに声をかけてきた。困ったね、とでも言いたげな表情を浮かべている。
自分にできることなら、何とかしてあげたいけれど──何もできない。
仕方なく、未桜はすごすごと退散した。カウンターの内側に戻ると、リストのチェックをしていたアサくんが、興味津々の目を向けてきた。
「いったいどうしたんですか? 持ち逃げとか、被害届とか、不穏な言葉が聞こえてきましたけど……」
「よかったら、僕にも聞かせて」
マスターもそばに寄ってきて、上半身をかがめた。顔と顔との距離が近くなり、未桜は思わずエプロンの胸元をぎゅっと握りしめる。
ドギマギしながら、マスターとアサくんに、事の顛末(てんまつ)を小声で話した。ちょうど、後から来たお客さんも相席カフェラテを注文していたらしく、店内が三組のお客さんの話し声であふれているため、内緒話を聞かれる心配はなかった。
「ああ、やっぱり頼もしいな、未桜さんは。それほど立ち入った事情を、お客様から難なく聞き出すなんて。アルバイトをお願いして正解だ」
マスターが感慨深げに言った。「いやいや、別に誰が聞いても一緒だと思いますけど……」と謙遜すると、「マスターの褒め言葉は貴重ですから、素直に受け取ったほうがいいですよ」とアサくんが羨ましそうにこちらを見上げてきた。
「そもそもマスターは、ここの店員だって、なかなか雇おうとしないんです。人手が多少足りなくても、『心からいいと思える人を採用したいから、枠は常に空けておかないと』とか言って」
「あれ……そうなの?」
「僕にしてみれば、光栄な言葉でもあり、忙しさの元凶でもあるので、心中複雑ですけどね」
「いつも迷惑をかけてすまないね」と、マスターが気まずそうに頭を掻く。
「だから、現世に戻るまでの期間限定とはいえ、マスターが未桜さんのアルバイトを簡単に許したのが意外だったんです。でも、緒林さまの一件に加え、今の話でようやく分かりました。マスターは、未桜さんのすごいところを、会った瞬間に一目で見抜いていたんですね」
「うん、そうだよ」
マスターが、何でもないように、さらりと答えた。
「人を巻き込み、自分も巻き込まれていく力──っていうのかな。未桜さんには、そういう部分があると思ったんだ」
マスターは洞察力の塊だ。人の性格は顔に出ると聞いたことがあるけれど、二言三言会話をしただけで、普通はそこまで分からない。やっぱりマスターには、人ならざる力が備わっているのではないだろうか。
巻き込み、巻き込まれていくという言葉には、未桜自身、心当たりがなくもなかった。例えば今日のお昼に、大学が休みの土曜日にもかかわらず、バイトの面接まで時間をつぶすため、親友の明歩を都内まで付き合わせたのが「巻き込む」。その明歩が行きたがっていた人気パンケーキ店の行列に、むしろ明歩より積極的に並んだのが「巻き込まれる」。
押しの強さ、と表現していたのを、もっと噛み砕いて言うとこうなったのだろう。
けれど、やっぱり、十八歳の乙女としてはちょっぴり複雑だ。
「それって……本当に褒めてます?」
「もちろん。僕は未桜さんのそういうところがすごく好きなんだよ。だからここで働いてもらおうと思ったわけだし」
マスターが唇の端を緩めて言った。その手が伸びてきて、ぽんぽん、と未桜の頭に触れる。
頭のてっぺんが、急激に熱くなった。
好き、という言葉の響きに、卒倒(そっとう)しそうになる。そういう意味じゃないということは分かっている。分かっているのだけれど、あまりにもまっすぐで、勘違いさせるような台詞を口に出さないでほしい。
年下の女の子だからって、未桜を翻弄(ほんろう)するかのような態度を取るのだって、いい加減やめてほしい。──ううん、やっぱり、やめないでほしい。
「ちょっと、二人とも! いつまで見つめ合ってるんですか!」
アサくんの声で、我に返った。慌ててマスターから目を逸らし、膨れているアサくんの、お餅のようなほっぺを見る。
「えっ、ええっと……実際問題、どうしよう? あのままじゃ、長篠さまと信田さん、ずっと喧嘩を続けてしまうんじゃ……」
「相席カフェラテって、たまにこういうことがあるんですよねぇ。一番トラブルが多いドリンクで、二人の話し合いが無事に終わるまでは席が埋まったままになってしまうので、他の系列店ではメニューに載せていないところも多いみたいですよ」
アサくんがあっさり言う。「えええっ」と未桜が絶句すると、マスターも冷静な口調で続けた。
「彼らの自己解決力に任せるか……もしくは、未桜さんがさらに踏み込んでくれたら、道が開けることもあるかもしれないね」
「私が、さらに?」
そんなことを言われても、困ってしまう。梨沙の話はあらかた聞いたし、多少説得したところで、信田が簡単に口を開くとも思えない。
「期待してるよ、未桜さん」
悪戯っぽい口調で言い、マスターが微笑んだ。
その後ろに梨沙と未桜が現れたのに気づき、はっとこちらを振り返る。未桜が見守る中、梨沙は信田の向かいに再び腰かけ、テーブルに身を乗り出した。
「ねえ、道彦。レストランを開きたいっていうのは、あたしを騙すための嘘だったんだよね? だったら、何のために金を持ち逃げしたの? ギャンブルでもして借金があった? 他の女に貢ごうと思った? それとも単に豪遊するため?」
宣言どおり、梨沙はなるべく声を抑えようと努力しているようだった。
梨沙がこれほど真剣に尋ねているのに、信田は相変わらず、答える気配を見せなかった。じっと俯き、頑なに口を閉ざしている。
「さっきも言ったけど、もうあたしは死んでるんだってば。道彦が何を話したとしても、自殺しちゃった以上、復讐なんかできっこないし、警察に被害届も出せないの。生まれ変わる前に道彦の口から本当のことを聞きたいだけなんだから、安心してぶっちゃけてよ」
それでも信田は黙りこくっている。彼がどことなく悲しそうな表情をしているのが気になった。
好転しない状況を見かねて、未桜は恐る恐る、横から助け舟を出した。
「あのう、信田さん。ちゃんと話したほうがいいと思いますよ。やむを得ない事情なら、許してもらえると思いますし……ほら、例えば、実は持病があって、多額の治療費が必要だったとか!」
「いや……」
信田はちらりと未桜を見上げ、また目を伏せてしまった。「あのさぁ」と梨沙もあきれ果て、テーブルに頬杖をつく。長期戦を覚悟し始めたようだ。
――この喫茶店にいる間は、“向かう人”だろうと“生ける人”だろうと、眠くなることは一切ないですからね。
アサくんの台詞が耳に蘇り、ぞっとする。梨沙も信田も眠気に襲われることがないのだとしたら、この男女の戦いはいったいいつまで続くのだろう。
相席カフェラテを頼んだ人は、呼び出した相手と話し合った上で、“来世の条件”を一つ決定しなければならない。現時点でまったく心が通じ合っていない様子の二人が、最終段階まで辿りつけるのかどうか、心配になってくる。
「梨沙は……どうやって自殺を?」
無言を貫くかと思われた信田が、蚊の鳴くような声で問いかけた。その質問に、梨沙が眉を吊り上げる。
「首吊りだよ。シンプルにね」
「……そうか」
訊いた信田も何を考えているのか不明だが、梨沙も梨沙だ。首吊り、などという非日常的な言葉を、日常会話の一環(いっかん)のような口調で声に出すなんて、信じられなかった。
――その単語が自分の中でありふれたものになってしまうくらい苦しみ続けた、ということなのかな。
そんなことを思いながら、信田の顔を盗み見る。彼の顔には、悲哀の色が浮かんだままだった。
梨沙が一生懸命貯めたお金を持ち逃げしたのは自分なのに、信田はなぜ、これほど複雑そうな表情をしているのだろう。まさか、梨沙が自殺するとは思わなかったからだろうか。
でも、長いあいだ一緒にいた恋人同士なのだから、それくらい予想がつきそうなものなのに――。
「店員さん、いったん大丈夫だよ。長丁場になりそうだし、こっちで何とかするから」
梨沙がこちらに声をかけてきた。困ったね、とでも言いたげな表情を浮かべている。
自分にできることなら、何とかしてあげたいけれど──何もできない。
仕方なく、未桜はすごすごと退散した。カウンターの内側に戻ると、リストのチェックをしていたアサくんが、興味津々の目を向けてきた。
「いったいどうしたんですか? 持ち逃げとか、被害届とか、不穏な言葉が聞こえてきましたけど……」
「よかったら、僕にも聞かせて」
マスターもそばに寄ってきて、上半身をかがめた。顔と顔との距離が近くなり、未桜は思わずエプロンの胸元をぎゅっと握りしめる。
ドギマギしながら、マスターとアサくんに、事の顛末(てんまつ)を小声で話した。ちょうど、後から来たお客さんも相席カフェラテを注文していたらしく、店内が三組のお客さんの話し声であふれているため、内緒話を聞かれる心配はなかった。
「ああ、やっぱり頼もしいな、未桜さんは。それほど立ち入った事情を、お客様から難なく聞き出すなんて。アルバイトをお願いして正解だ」
マスターが感慨深げに言った。「いやいや、別に誰が聞いても一緒だと思いますけど……」と謙遜すると、「マスターの褒め言葉は貴重ですから、素直に受け取ったほうがいいですよ」とアサくんが羨ましそうにこちらを見上げてきた。
「そもそもマスターは、ここの店員だって、なかなか雇おうとしないんです。人手が多少足りなくても、『心からいいと思える人を採用したいから、枠は常に空けておかないと』とか言って」
「あれ……そうなの?」
「僕にしてみれば、光栄な言葉でもあり、忙しさの元凶でもあるので、心中複雑ですけどね」
「いつも迷惑をかけてすまないね」と、マスターが気まずそうに頭を掻く。
「だから、現世に戻るまでの期間限定とはいえ、マスターが未桜さんのアルバイトを簡単に許したのが意外だったんです。でも、緒林さまの一件に加え、今の話でようやく分かりました。マスターは、未桜さんのすごいところを、会った瞬間に一目で見抜いていたんですね」
「うん、そうだよ」
マスターが、何でもないように、さらりと答えた。
「人を巻き込み、自分も巻き込まれていく力──っていうのかな。未桜さんには、そういう部分があると思ったんだ」
マスターは洞察力の塊だ。人の性格は顔に出ると聞いたことがあるけれど、二言三言会話をしただけで、普通はそこまで分からない。やっぱりマスターには、人ならざる力が備わっているのではないだろうか。
巻き込み、巻き込まれていくという言葉には、未桜自身、心当たりがなくもなかった。例えば今日のお昼に、大学が休みの土曜日にもかかわらず、バイトの面接まで時間をつぶすため、親友の明歩を都内まで付き合わせたのが「巻き込む」。その明歩が行きたがっていた人気パンケーキ店の行列に、むしろ明歩より積極的に並んだのが「巻き込まれる」。
押しの強さ、と表現していたのを、もっと噛み砕いて言うとこうなったのだろう。
けれど、やっぱり、十八歳の乙女としてはちょっぴり複雑だ。
「それって……本当に褒めてます?」
「もちろん。僕は未桜さんのそういうところがすごく好きなんだよ。だからここで働いてもらおうと思ったわけだし」
マスターが唇の端を緩めて言った。その手が伸びてきて、ぽんぽん、と未桜の頭に触れる。
頭のてっぺんが、急激に熱くなった。
好き、という言葉の響きに、卒倒(そっとう)しそうになる。そういう意味じゃないということは分かっている。分かっているのだけれど、あまりにもまっすぐで、勘違いさせるような台詞を口に出さないでほしい。
年下の女の子だからって、未桜を翻弄(ほんろう)するかのような態度を取るのだって、いい加減やめてほしい。──ううん、やっぱり、やめないでほしい。
「ちょっと、二人とも! いつまで見つめ合ってるんですか!」
アサくんの声で、我に返った。慌ててマスターから目を逸らし、膨れているアサくんの、お餅のようなほっぺを見る。
「えっ、ええっと……実際問題、どうしよう? あのままじゃ、長篠さまと信田さん、ずっと喧嘩を続けてしまうんじゃ……」
「相席カフェラテって、たまにこういうことがあるんですよねぇ。一番トラブルが多いドリンクで、二人の話し合いが無事に終わるまでは席が埋まったままになってしまうので、他の系列店ではメニューに載せていないところも多いみたいですよ」
アサくんがあっさり言う。「えええっ」と未桜が絶句すると、マスターも冷静な口調で続けた。
「彼らの自己解決力に任せるか……もしくは、未桜さんがさらに踏み込んでくれたら、道が開けることもあるかもしれないね」
「私が、さらに?」
そんなことを言われても、困ってしまう。梨沙の話はあらかた聞いたし、多少説得したところで、信田が簡単に口を開くとも思えない。
「期待してるよ、未桜さん」
悪戯っぽい口調で言い、マスターが微笑んだ。