貧しい母子家庭で、ネグレクトを受けて育った。水商売の仕事をしていた母親は、数年ごとに男を取り換え、半同棲の生活を送っていた。“連れ子”として常に邪魔者扱いを受けていた梨沙は、たびたび母親の恋人に殴られたり、蹴られたりした。そのような経験から、男という生物を、ずっと敵だと思っていた。
高校二年生の秋に、とうとう我慢の限界を迎え、家を飛び出した。母親からは、引きとめの電話の一本もかかってこなかった。高校『中退』という経歴を『卒業』に書き換え、年齢をごまかして夜のお店で働き始めた。
「こんなあたしでも、もっと立派な将来の夢を持ってた時期もあったんだよ。でも、『あんたは無能なんだから』って親に否定された。結局、母親と同じ仕事に就く以外、生きていく方法が思いつかなかったんだよね」
あれも選択ミスだったかもなぁ――と、梨沙は自嘲気味に呟いた。
お店を訪れる男性客をお酒でもてなし、外で食事に行き、男女の関係を持ち、また別れ。そんな行き当たりばったりの生活を送っているうちに、梨沙はいつの間にか二十代半ばになっていた。
ある日、お店の常連だった不動産会社の社長が、親戚の子だと言って、梨沙と同い年の男性を連れてきた。
ホステスが接客する店を訪れたのが初めてだという、真面目そうな青年。
それが、信田道彦だった。
「道彦はね、調理師なんだ。下積み時代は給料が低くて、貯金も全然できないから、目上の人に連れてきてもらわない限り、夜のお店になんて行けなかったんだろうね。そこそこイケメンなのに、あまり女慣れしてなさそうなところに惹かれたんだ」
「運命の出会いじゃないですか! 親戚のおじさん、ナイスプレー!」
「うん。あたしのほうから連絡先を訊いて、何回かデートをした後、付き合おうって言われてさ。さっきもアロマキャンドルの件をちらっと話したけど、初めて人生が心から楽しいと思えたよ。仕事終わりに道彦に会えると思えば何事も頑張れるし、ハグやキスをするだけで生きててよかったって気分になるし」
「信田さんのこと、本当に好きだったんですね」
「だからこそ……どん底に突き落とされたんだよ」
急に、梨沙の声のトーンが一段階低くなった。目には見えないけれど、黒い煙のようなものが、彼女の周りに漂い始めたのが分かる。
自殺した人のオーラだ――と、直感的に思った。
「交際するうちにね、田舎で一軒家レストランを経営するっていう、共通の夢を持つようになったの。キッチン担当が道彦で、ホール担当があたし。田舎で開業すれば、初期費用や家賃も少なくて済むし、あたしも辞めた店の同僚に会わなくて済むでしょ?」
その夢を実現させるために、二人は貯金をすることにした。
とはいえ、修業中の身で薄給(はっきゅう)の信田は、生活に余裕がない。水商売のほうがよっぽど稼げるため、資金のほとんどは梨沙が貯めることとなった。
開業の目途が立ったら結婚しようというのが、信田の口癖だったという。
このあたりから、さすがの未桜も、嫌な予感に襲われ始めた。
梨沙が来店する前に確認した、リストの記載内容を思い出したのだ。『経緯:金銭関係のトラブルを機に心身を病み、半年後に自宅アパートで自殺する』という――。
「これでようやくお店を開ける、ってくらいの貯金ができた頃にね……そのお金を、持ち逃げされたの」
「もっ、持ち逃げ? まさか!」
「開業資金を、道彦名義の口座に入れてたのが運の尽き。全部、あいつに持ってかれたよ。あたしの手元には、一円も残らなかった」
「……そんな!」
「あたしの運命の人は、結婚詐欺師だったってわけ。水商売の女は金を持ってるし、案外遊ぶ暇がなくて浮気もあまりしないから、狙い目だったんだろうね」
気丈に喋る梨沙の目が、再び潤み始めた。
ハンカチを渡したかったけれど、あいにく手元にない。話を聞く以外、何もしてあげられないのが、ひどくもどかしかった。
「ある日突然、会う約束をすっぽかされてさ。メッセージを送っても未読スルー、電話をかけても折り返しなし、口座はすっからかん。一週間くらい経ってから、さすがに心配になって、道彦が借りてるアパートを見にいったんだけど……電気も点いてないし、郵便物やチラシもポストからあふれてて、もう誰も住んでないみたいだった。あたしのアパートに残されたのは、道彦がぎっしり書き溜めたオリジナルのレシピノートだけ。あまりに虚しくて、破り捨ててやったよ。よりによって、丸三年の記念日のことだった」
梨沙は両手を腰に当て、涙を溜めた目を天井へと向けた。
瞬きをした拍子に、小さなガラス玉のような水滴が、ファンデーションで塗り固められた頬を伝う。
「恋人と夢の両方を失ったあたしの絶望感、想像できる?」
「い……いえ……」
「想像できる」なんて、軽々しく言えるわけがなかった。
たった一日のうちに、どれだけの悲しみと、悔しさを味わったのだろう。
分かったような気になることはできる。
でも、たぶん、未桜の中で無理やり作り上げたその感情は、本物には程遠い。
「あのっ……信田さんのご親戚とは、連絡がつかなかったんですか? ほら、お店の常連さんだったっていう、不動産会社の社長の」
「道彦と付き合ってた三年の間に、その店はつぶれたの。名刺もそのときに処分しちゃったし、もう名前もよく覚えてないし、それっきり」
絶句する未桜の前で、梨沙はひらひらと手を振った。「店がなくなるなんて、飲食業界じゃよくあることだよ。あたし、いろいろなお店を転々としてきたんだよね」と、無理に明るさを押し出したような声で言う。
「それで……長篠さまが亡くなるまでに、信田さんとは……」
「二度と会えなかったよ。そりゃそうだよね、結婚詐欺だったんだもん」
「ということは……長篠さまが、その、じっ……自殺したってことを、信田さんは」
「さっきあたしが話して、初めて知ったみたい。さすがにびっくりしてたよ。バカみたいに、口をぽかんと開けてさ。こっちが鬱(うつ)になって、家から一歩も出られなくなったのは、あんたのせいだっての! 今さら何驚いてんだって話」
話しているうちに、怒りが再燃したようだった。梨沙が拳を握りしめ、控え室の扉を睨みつける。
「ああ、またムカついてきた! もう一度、問い詰めてみるよ。このままじゃ、生まれ変わろうにも生まれ変われない」
「えっ、あのっ、長篠さま? 申し訳ないんですけど、喧嘩はもう──」
「大丈夫、分かってるよ。これ以上、お店に迷惑をかけないようにするから。もう一度、あいつと話をさせて」
梨沙の迫力に押され、よく考えずに頷いてしまう。控え室を出て、元のテーブルへと彼女を案内する間、また大変なことになるのではないかと、未桜は終始びくびくしていた。
高校二年生の秋に、とうとう我慢の限界を迎え、家を飛び出した。母親からは、引きとめの電話の一本もかかってこなかった。高校『中退』という経歴を『卒業』に書き換え、年齢をごまかして夜のお店で働き始めた。
「こんなあたしでも、もっと立派な将来の夢を持ってた時期もあったんだよ。でも、『あんたは無能なんだから』って親に否定された。結局、母親と同じ仕事に就く以外、生きていく方法が思いつかなかったんだよね」
あれも選択ミスだったかもなぁ――と、梨沙は自嘲気味に呟いた。
お店を訪れる男性客をお酒でもてなし、外で食事に行き、男女の関係を持ち、また別れ。そんな行き当たりばったりの生活を送っているうちに、梨沙はいつの間にか二十代半ばになっていた。
ある日、お店の常連だった不動産会社の社長が、親戚の子だと言って、梨沙と同い年の男性を連れてきた。
ホステスが接客する店を訪れたのが初めてだという、真面目そうな青年。
それが、信田道彦だった。
「道彦はね、調理師なんだ。下積み時代は給料が低くて、貯金も全然できないから、目上の人に連れてきてもらわない限り、夜のお店になんて行けなかったんだろうね。そこそこイケメンなのに、あまり女慣れしてなさそうなところに惹かれたんだ」
「運命の出会いじゃないですか! 親戚のおじさん、ナイスプレー!」
「うん。あたしのほうから連絡先を訊いて、何回かデートをした後、付き合おうって言われてさ。さっきもアロマキャンドルの件をちらっと話したけど、初めて人生が心から楽しいと思えたよ。仕事終わりに道彦に会えると思えば何事も頑張れるし、ハグやキスをするだけで生きててよかったって気分になるし」
「信田さんのこと、本当に好きだったんですね」
「だからこそ……どん底に突き落とされたんだよ」
急に、梨沙の声のトーンが一段階低くなった。目には見えないけれど、黒い煙のようなものが、彼女の周りに漂い始めたのが分かる。
自殺した人のオーラだ――と、直感的に思った。
「交際するうちにね、田舎で一軒家レストランを経営するっていう、共通の夢を持つようになったの。キッチン担当が道彦で、ホール担当があたし。田舎で開業すれば、初期費用や家賃も少なくて済むし、あたしも辞めた店の同僚に会わなくて済むでしょ?」
その夢を実現させるために、二人は貯金をすることにした。
とはいえ、修業中の身で薄給(はっきゅう)の信田は、生活に余裕がない。水商売のほうがよっぽど稼げるため、資金のほとんどは梨沙が貯めることとなった。
開業の目途が立ったら結婚しようというのが、信田の口癖だったという。
このあたりから、さすがの未桜も、嫌な予感に襲われ始めた。
梨沙が来店する前に確認した、リストの記載内容を思い出したのだ。『経緯:金銭関係のトラブルを機に心身を病み、半年後に自宅アパートで自殺する』という――。
「これでようやくお店を開ける、ってくらいの貯金ができた頃にね……そのお金を、持ち逃げされたの」
「もっ、持ち逃げ? まさか!」
「開業資金を、道彦名義の口座に入れてたのが運の尽き。全部、あいつに持ってかれたよ。あたしの手元には、一円も残らなかった」
「……そんな!」
「あたしの運命の人は、結婚詐欺師だったってわけ。水商売の女は金を持ってるし、案外遊ぶ暇がなくて浮気もあまりしないから、狙い目だったんだろうね」
気丈に喋る梨沙の目が、再び潤み始めた。
ハンカチを渡したかったけれど、あいにく手元にない。話を聞く以外、何もしてあげられないのが、ひどくもどかしかった。
「ある日突然、会う約束をすっぽかされてさ。メッセージを送っても未読スルー、電話をかけても折り返しなし、口座はすっからかん。一週間くらい経ってから、さすがに心配になって、道彦が借りてるアパートを見にいったんだけど……電気も点いてないし、郵便物やチラシもポストからあふれてて、もう誰も住んでないみたいだった。あたしのアパートに残されたのは、道彦がぎっしり書き溜めたオリジナルのレシピノートだけ。あまりに虚しくて、破り捨ててやったよ。よりによって、丸三年の記念日のことだった」
梨沙は両手を腰に当て、涙を溜めた目を天井へと向けた。
瞬きをした拍子に、小さなガラス玉のような水滴が、ファンデーションで塗り固められた頬を伝う。
「恋人と夢の両方を失ったあたしの絶望感、想像できる?」
「い……いえ……」
「想像できる」なんて、軽々しく言えるわけがなかった。
たった一日のうちに、どれだけの悲しみと、悔しさを味わったのだろう。
分かったような気になることはできる。
でも、たぶん、未桜の中で無理やり作り上げたその感情は、本物には程遠い。
「あのっ……信田さんのご親戚とは、連絡がつかなかったんですか? ほら、お店の常連さんだったっていう、不動産会社の社長の」
「道彦と付き合ってた三年の間に、その店はつぶれたの。名刺もそのときに処分しちゃったし、もう名前もよく覚えてないし、それっきり」
絶句する未桜の前で、梨沙はひらひらと手を振った。「店がなくなるなんて、飲食業界じゃよくあることだよ。あたし、いろいろなお店を転々としてきたんだよね」と、無理に明るさを押し出したような声で言う。
「それで……長篠さまが亡くなるまでに、信田さんとは……」
「二度と会えなかったよ。そりゃそうだよね、結婚詐欺だったんだもん」
「ということは……長篠さまが、その、じっ……自殺したってことを、信田さんは」
「さっきあたしが話して、初めて知ったみたい。さすがにびっくりしてたよ。バカみたいに、口をぽかんと開けてさ。こっちが鬱(うつ)になって、家から一歩も出られなくなったのは、あんたのせいだっての! 今さら何驚いてんだって話」
話しているうちに、怒りが再燃したようだった。梨沙が拳を握りしめ、控え室の扉を睨みつける。
「ああ、またムカついてきた! もう一度、問い詰めてみるよ。このままじゃ、生まれ変わろうにも生まれ変われない」
「えっ、あのっ、長篠さま? 申し訳ないんですけど、喧嘩はもう──」
「大丈夫、分かってるよ。これ以上、お店に迷惑をかけないようにするから。もう一度、あいつと話をさせて」
梨沙の迫力に押され、よく考えずに頷いてしまう。控え室を出て、元のテーブルへと彼女を案内する間、また大変なことになるのではないかと、未桜は終始びくびくしていた。