お店の雰囲気が一変したのは、未桜とアサくんがそれぞれの担当するお客さんのところへドリンクを運び終え、カウンター内で一息つこうとしたときだった。
「だから、何とか言えって言ってんの!」
怒鳴り声が響く。ドリンクを飲もうとしていた他のお客さんが驚きの表情を浮かべ、テーブルに手をついて荒々しく立ち上がった梨沙を振り返った。
「なんでさっきから黙ってんの? あたしはね、もう死んでるんだよ? 最後のチャンスを使って、わざわざあんたを呼び出したんだよ? こっちの貴重な時間を無駄にしないでよ!」
けたたましく叫ぶ梨沙の向かいで、信田は黙って膝を見つめている。二人の間には、ピリピリとした空気が張り詰めていた。
突発的な出来事に弱いアサくんが、「けっ、喧嘩が勃発(ぼっぱつ)したみたいです! どっ、どっ、どうしましょうマスター!」と後ろで指示を仰いでいる。
けれど、未桜はマスターの返事を聞くまで待てなかった。見たところ、これは一刻を争う事態だ。気持ちが昂(たかぶ)っている様子の梨沙をなんとか落ち着かせようと、鉄砲玉のようにカウンターから飛び出し、二人の元に駆けつける。
「長篠さま! いかがなさいましたか?」
「こいつ、ひどいんだよ。あたしが何度も食い下がって質問してるのにさ――」
「あっちで話を聞きます! とりあえずこちらへ! ねっ?」
梨沙の興奮がすぐには収まらないと見て、未桜は彼女の手首をつかみ、従業員用の控え室へと引っ張っていった。バックヤードに続く扉を開け、梨沙の細い身体を半ば無理やり押し込んだところで、マスターに何も断りを入れていなかったことに気づく。
扉から顔を出すと、マスターとアサくんが驚いた顔でこちらを見ていた。「バックヤード、使っていいですよね? ありがとうございます!」と事後(じご)承諾(しょうだく)を取り、梨沙とともに控え室に引っ込む。
振り返ると、長篠梨沙は泣いていた。
唇を噛みしめ、こぼれ落ちる涙を静かに拭っている。
「あの、ちょっと、何があったんですか? 一番会いたい人を呼び出したんじゃなかったんですか?」
レトロな喫茶店の店員らしい、丁寧な言葉遣いを心がけるのも忘れ、未桜は息せき切って尋ねた。
そうやって相手の懐に思い切り飛び込んでいったことが、むしろ梨沙の警戒心を薄れさせたのかもしれない。
梨沙が、品定めでもするように、未桜の頭から爪先へと視線を動かしていく。未桜が直立不動の体勢で突っ立っていると、月のない夜のように暗かった梨沙の表情がふっと緩んだ。
「ありがと。あいつから引き離してくれて。ちょっと気持ちが落ち着いたかも」
素直に感謝されるとは思わず、未桜は幾度(いくど)か瞬きをした。口数が少ない上、いきなり店内で喧嘩を始めるものだから、きつい性格の女性なのかと勘違いしていたけれど、どうもそういうわけではないようだ。
「あのキャンドルさ、綺麗だね」
唐突に、梨沙が店内の方向を指差した。「あっ、ありがとうございます!」と、とっさにお辞儀をする。バイト初日にしてそう言ってもらえるなんて、文句を垂れながらも一つ一つ置いた甲斐があったというものだ。
「あれを見て、思い出したんだよね。あたしが九歳の頃に、テレビでニュースを見たの。二階建てのお屋敷で、アロマキャンドルの火をつけたまま寝てしまったせいで火事が起きて、その部屋で寝ていた二十代の女性が亡くなったっていう」
「えーと……火事、ですか」
残念ながら、そのニュースは記憶にない。梨沙が十歳というと、未桜はまだ生まれるか生まれないかという時期だから、仕方のないことだ。
「たまたま敏感な時期だったのかもしれないけど、そのニュースがやけに印象に残っちゃってさ。全焼した建物の映像が頭にこびりついて、一時期、夜も眠れなくなったんだよね。あたしの部屋も、寝ている間に火事になっちゃったらどうしよう、って。それからずっと、ああいうキャンドルにいいイメージはなかった」
「ごめんなさい! そしたら、長篠さまの席のキャンドルは片づけますね!」
「いやいや、『綺麗だね』ってさっき褒めたじゃん。クレームをつけてるわけじゃないんだよ」
梨沙は呆れたように言い、薄く苦笑した。さっそく店内に向かおうとドアノブに手をかけていた未桜は、恥ずかしさに頬を赤らめながら、じりじりと身体を元の体勢に戻す。こういうときに早とちりしてしまうのは、いつもの悪い癖だ。
「まあそんなわけで、アロマキャンドルなんて、これっぽっちも興味がなかったんだけどさ。三年前のクリスマスに、道彦にプレゼントされたんだよ。香りだとか色だとか、せっかくいろいろ考えて買ってくれただろうに、あたしったら大人げなく拒否っちゃってさ。『部屋の中で火を使うなんて、怖いから嫌だよ』って。自炊や喫煙の習慣もなかったし、そのとき住んでたのがアパートの二階だったから、余計にね」
「そっかぁ……それで、信田さんは何て?」
「びっくりしたんだけどさ、急にあたしのことを抱きしめて、キスしてきたんだよ」
「だっ、だっ、抱きしめて、き、キス――っ⁉」
大人の恋愛に免疫がない未桜は、思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。その反応が可笑しかったのか、梨沙がくくくと笑う。
「で、あたしの耳元で囁いたんだ。『もし火事になっても、俺が梨沙を抱きかかえて、窓から飛び降りてあげるから大丈夫。安心して』って。今思えばずいぶんと気障(きざ)な台詞だけど、あたしの胸には刺さったんだよね。ああそうだ、あたしが十歳の頃に火事をひどく怖がったのは、そうなったときに助けてくれる人が誰もいなかったからだったんだ――って」
「助けてくれる人が……いない?」
「あたしさ、小さい頃から親にほったらかされて育って、誰からも愛情を注がれてこなかったわけ。十七で夜の世界に飛び込んでからも、付き合う相手は遊び目的のいい加減な男ばっかりで。でも、道彦は違うって、そのときに分かったんだ。この人なら、私が危険な目に遭ったときも、全力で守ってくれると思った。その瞬間、あたしのほうも、恋に落ちたんだよね。遊びじゃない、本当の愛ってやつを、初めて知ったの」
梨沙は遠い目をして、そっと微笑んだ。
「あの日、暗くした部屋で、いつまでも光ってたキャンドル……ものすごく綺麗だったなぁ」
「素敵な彼氏さんじゃないですか!」
未桜は心の中で、信田道彦のことを見直した。一見気弱そうだけれど、実は男らしい包容力の持ち主だったようだ。
「まあね」
梨沙も、まんざらでもなさそうな顔をする。それくらい想い合っていた恋人だったからこそ、相席カフェラテを注文し、ここに呼び出すことにしたのだろう。
でも――それくらい大好きな人なのに、どうして喧嘩を?
そして、梨沙はなぜ、頼もしい恋人に頼ることなく、たった一人で自殺を――?
「あはは、不思議でしょ? あたしがなんで自殺なんかして、あの世に来てまで、彼氏と大喧嘩してるのか。ホント、バカみたいだよね。あたしったら、いつも選択を間違えるんだ。相席カフェラテなんか頼まなきゃよかったよ。顔を合わせたらこうなるってこと、分かってたはずなのに――」
それから、梨沙はぽつりぽつりと、自分の生い立ちについて語り始めた。
「だから、何とか言えって言ってんの!」
怒鳴り声が響く。ドリンクを飲もうとしていた他のお客さんが驚きの表情を浮かべ、テーブルに手をついて荒々しく立ち上がった梨沙を振り返った。
「なんでさっきから黙ってんの? あたしはね、もう死んでるんだよ? 最後のチャンスを使って、わざわざあんたを呼び出したんだよ? こっちの貴重な時間を無駄にしないでよ!」
けたたましく叫ぶ梨沙の向かいで、信田は黙って膝を見つめている。二人の間には、ピリピリとした空気が張り詰めていた。
突発的な出来事に弱いアサくんが、「けっ、喧嘩が勃発(ぼっぱつ)したみたいです! どっ、どっ、どうしましょうマスター!」と後ろで指示を仰いでいる。
けれど、未桜はマスターの返事を聞くまで待てなかった。見たところ、これは一刻を争う事態だ。気持ちが昂(たかぶ)っている様子の梨沙をなんとか落ち着かせようと、鉄砲玉のようにカウンターから飛び出し、二人の元に駆けつける。
「長篠さま! いかがなさいましたか?」
「こいつ、ひどいんだよ。あたしが何度も食い下がって質問してるのにさ――」
「あっちで話を聞きます! とりあえずこちらへ! ねっ?」
梨沙の興奮がすぐには収まらないと見て、未桜は彼女の手首をつかみ、従業員用の控え室へと引っ張っていった。バックヤードに続く扉を開け、梨沙の細い身体を半ば無理やり押し込んだところで、マスターに何も断りを入れていなかったことに気づく。
扉から顔を出すと、マスターとアサくんが驚いた顔でこちらを見ていた。「バックヤード、使っていいですよね? ありがとうございます!」と事後(じご)承諾(しょうだく)を取り、梨沙とともに控え室に引っ込む。
振り返ると、長篠梨沙は泣いていた。
唇を噛みしめ、こぼれ落ちる涙を静かに拭っている。
「あの、ちょっと、何があったんですか? 一番会いたい人を呼び出したんじゃなかったんですか?」
レトロな喫茶店の店員らしい、丁寧な言葉遣いを心がけるのも忘れ、未桜は息せき切って尋ねた。
そうやって相手の懐に思い切り飛び込んでいったことが、むしろ梨沙の警戒心を薄れさせたのかもしれない。
梨沙が、品定めでもするように、未桜の頭から爪先へと視線を動かしていく。未桜が直立不動の体勢で突っ立っていると、月のない夜のように暗かった梨沙の表情がふっと緩んだ。
「ありがと。あいつから引き離してくれて。ちょっと気持ちが落ち着いたかも」
素直に感謝されるとは思わず、未桜は幾度(いくど)か瞬きをした。口数が少ない上、いきなり店内で喧嘩を始めるものだから、きつい性格の女性なのかと勘違いしていたけれど、どうもそういうわけではないようだ。
「あのキャンドルさ、綺麗だね」
唐突に、梨沙が店内の方向を指差した。「あっ、ありがとうございます!」と、とっさにお辞儀をする。バイト初日にしてそう言ってもらえるなんて、文句を垂れながらも一つ一つ置いた甲斐があったというものだ。
「あれを見て、思い出したんだよね。あたしが九歳の頃に、テレビでニュースを見たの。二階建てのお屋敷で、アロマキャンドルの火をつけたまま寝てしまったせいで火事が起きて、その部屋で寝ていた二十代の女性が亡くなったっていう」
「えーと……火事、ですか」
残念ながら、そのニュースは記憶にない。梨沙が十歳というと、未桜はまだ生まれるか生まれないかという時期だから、仕方のないことだ。
「たまたま敏感な時期だったのかもしれないけど、そのニュースがやけに印象に残っちゃってさ。全焼した建物の映像が頭にこびりついて、一時期、夜も眠れなくなったんだよね。あたしの部屋も、寝ている間に火事になっちゃったらどうしよう、って。それからずっと、ああいうキャンドルにいいイメージはなかった」
「ごめんなさい! そしたら、長篠さまの席のキャンドルは片づけますね!」
「いやいや、『綺麗だね』ってさっき褒めたじゃん。クレームをつけてるわけじゃないんだよ」
梨沙は呆れたように言い、薄く苦笑した。さっそく店内に向かおうとドアノブに手をかけていた未桜は、恥ずかしさに頬を赤らめながら、じりじりと身体を元の体勢に戻す。こういうときに早とちりしてしまうのは、いつもの悪い癖だ。
「まあそんなわけで、アロマキャンドルなんて、これっぽっちも興味がなかったんだけどさ。三年前のクリスマスに、道彦にプレゼントされたんだよ。香りだとか色だとか、せっかくいろいろ考えて買ってくれただろうに、あたしったら大人げなく拒否っちゃってさ。『部屋の中で火を使うなんて、怖いから嫌だよ』って。自炊や喫煙の習慣もなかったし、そのとき住んでたのがアパートの二階だったから、余計にね」
「そっかぁ……それで、信田さんは何て?」
「びっくりしたんだけどさ、急にあたしのことを抱きしめて、キスしてきたんだよ」
「だっ、だっ、抱きしめて、き、キス――っ⁉」
大人の恋愛に免疫がない未桜は、思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。その反応が可笑しかったのか、梨沙がくくくと笑う。
「で、あたしの耳元で囁いたんだ。『もし火事になっても、俺が梨沙を抱きかかえて、窓から飛び降りてあげるから大丈夫。安心して』って。今思えばずいぶんと気障(きざ)な台詞だけど、あたしの胸には刺さったんだよね。ああそうだ、あたしが十歳の頃に火事をひどく怖がったのは、そうなったときに助けてくれる人が誰もいなかったからだったんだ――って」
「助けてくれる人が……いない?」
「あたしさ、小さい頃から親にほったらかされて育って、誰からも愛情を注がれてこなかったわけ。十七で夜の世界に飛び込んでからも、付き合う相手は遊び目的のいい加減な男ばっかりで。でも、道彦は違うって、そのときに分かったんだ。この人なら、私が危険な目に遭ったときも、全力で守ってくれると思った。その瞬間、あたしのほうも、恋に落ちたんだよね。遊びじゃない、本当の愛ってやつを、初めて知ったの」
梨沙は遠い目をして、そっと微笑んだ。
「あの日、暗くした部屋で、いつまでも光ってたキャンドル……ものすごく綺麗だったなぁ」
「素敵な彼氏さんじゃないですか!」
未桜は心の中で、信田道彦のことを見直した。一見気弱そうだけれど、実は男らしい包容力の持ち主だったようだ。
「まあね」
梨沙も、まんざらでもなさそうな顔をする。それくらい想い合っていた恋人だったからこそ、相席カフェラテを注文し、ここに呼び出すことにしたのだろう。
でも――それくらい大好きな人なのに、どうして喧嘩を?
そして、梨沙はなぜ、頼もしい恋人に頼ることなく、たった一人で自殺を――?
「あはは、不思議でしょ? あたしがなんで自殺なんかして、あの世に来てまで、彼氏と大喧嘩してるのか。ホント、バカみたいだよね。あたしったら、いつも選択を間違えるんだ。相席カフェラテなんか頼まなきゃよかったよ。顔を合わせたらこうなるってこと、分かってたはずなのに――」
それから、梨沙はぽつりぽつりと、自分の生い立ちについて語り始めた。