未桜と梨沙のやり取りが聞こえていたのか、マスターはすでにスイーツの準備を終えていた。夕方に焼き上がったばかりのパウンドケーキが、ちょうどいい大きさにカットされて、白いお皿の上に置かれている。いつの間にやら、上にとろりとした生クリームまでかかっているのだから、趣味で行っているサービスとは思えないほど本格的だ。
「さて……どの豆にしようかな」
 コーヒー豆の入った瓶が並べられている棚に近づきながら、マスターがこちらに向かって手を差し出してきた。
 マスターは、どんなカフェラテを淹れるのだろう。
 ドキドキしながら、伝票を手渡す。横顔に見とれていて、手元をよく見ていなかったせいで、指と指が軽く触れあった。
はっとして引っ込めた、その指先が熱を持つ。
「……ん?」
 受け取った伝票を見て、マスターは一瞬、眉根を寄せた。「あ、私の字、読めますか⁉」と焦りつつ尋ねると、「あ、未桜さんの字は綺麗だよ。大丈夫」という返答があった。字が綺麗、とさりげなく言われたことに、天にも昇る心地になる。
「シティロースト……フルシティロースト……うん、シティかな」
 そんなことを言いながら、豆の瓶を次々と開け、手元に集めていく。どこを探しても、これほど複雑に豆をブレンドする喫茶店の店主はいないのではないか――というくらい、少しずつ、丁寧に。
 仮にも昔からカフェ店員に憧れていたから、豆の焙煎具合の話をしているということは分かった。深煎りの豆を数種類選び出したマスターが、今度は大きな銀色のエスプレッソマシンに近づく。
 メモリーブレンドのときと違って、カフェラテを淹れるときは、ミルも電動のものを使うようだった。
「こんなにレトロな喫茶店なのに、豆を挽くところから抽出まで、全部機械なんですね」
 邪魔してはいけないと思いつつ、気分が高揚して話しかけてしまう。マスターは穏やかに笑って、「そもそも、エスプレッソというのは歴史が浅いものだから」と答えた。
「飲まれ始めたのは、わずか百年前──高圧抽出できるマシンが発明されてからのことなんだよ。ミルも、豆を極細挽きにするエスプレッソの場合、電動のものを使ったほうが、粒(りゅう)度(ど)にバラつきがなくなる」
「りゅーど?」
「粒の大きさがよく揃う、ってこと」
 ようやく頭の中に漢字が浮かび、赤面する。
 そんな未桜の前で、マスターは相席カフェラテを淹れる作業を続けた。
不思議なドリンクを生み出す最中は、彼の顔から一切の笑みが消える。その真剣な横顔も、未桜は好きだった。
 ブレンドした豆を、電動ミルで挽く。
 細かくなった粉を、量を慎重に見極めながら、小さな銀色のバスケットに詰める。
 粉の表面をタンパーで平らにならし、指先や掌に軽く力を込めて押し固める。
 ポルタフィルターをマシンに取りつけ、抽出ボタンを押す。
 エスプレッソが、透明なショットグラスへと落ちていく。三十秒ほどかけて出てきた液体は、底の濃い茶色から表面のクリーム色へと、美しい三層のグラデーションになっていた。
その完成度に目を奪われる間もなく、マスターがカップにエスプレッソを流し込み、今度はミルクのスチームを始める。
マスターが、光の宿った目で、泡立つミルクの表面を見つめる。
蒸気とともにマシンから出る、本来うるさいはずの高音も、なぜだか耳に心地いい。
 真っ白な陶器のようにきめ細かいミルクフォームを、マスターがカップに注ぎ始めた。器用な動きでステンレス製のミルクジャグを動かすと、たちまちリーフの形のラテアートが表面に浮かび上がった。
「できあがり。──心を込めて」
 マスターの顔に、ようやく微笑みが戻ってきた。
 うわあ、と声が漏れる。
今目にした、一つ一つの調整や工夫が、相席カフェラテの効果の出方に影響するのだろう。一朝一夕(いっちょういっせき)では到底獲得できない、途方もない技術だ。
「さ、あとはよろしく頼んだ」
 マスターが、カフェラテのカップとパウンドケーキのお皿を、お盆の上に置いてくれた。絶対にひっくり返さないように――と細心の注意を払いながら、角のテーブル席にぽつんと腰かけている長篠梨沙の元へと運んでいく。
「お待たせしました。相席カフェラテと、本日のスイーツです」
 カフェラテ用のソーサーとカップは分厚くて重いため、どうしても手が震えてしまう。不慣れであることが丸見えで、ひどく恥ずかしかったけれど、梨沙は何も言わずに未桜の指先を眺めていた。
「……これを飲めば、道彦がここに来るんだね?」
「あ、そうです! 一口飲むとすぐに現れますので、お好きなタイミングでどうぞ」
 念を押すように尋ねてきた梨沙に向かって、愛想よく頷く。未桜が答え終わるかどうかというタイミングで、梨沙はカフェラテのカップをぐいと引き寄せ、勢いよく口をつけた。


 ごくん、と梨沙の喉が動く。


 次の瞬間、未桜の目の前のテーブル席に座るお客さんは、二名に増えていた。
 色白で気弱そうな、三十代前半くらいの男性が、梨沙の向かいに座っている。
「道彦……」
 ぽかんと口を開いていた梨沙が、声を漏らした。
 信田道彦は、目の前の彼女を見て驚愕(きょうがく)の表情を浮かべ、店内を見回した。窓にくっきりと映った自分たちの姿を凝視し、はっと息を呑む。
 窓の外には、ちょうど夕闇が広がっていた。先ほど未桜が置いたキャンドルの火が、ガラスに映ってちらちらと瞬いている。
「梨沙……梨沙!」
 温かい光に照らされた男女は、奇跡的な再会に心を打たれているように見えた。
 相席カフェラテの力で導かれた二人の感動を邪魔しないよう、「失礼いたします」と頭を下げ、そそくさとカウンター内に戻る。
「未桜さん、やりましたね。合格です! きちんと接客できてましたよ」
 アサくんがこっそり近づいてきて、親指を立てた。その仕草がいちいち可愛らしい。
「わーい、嬉しい! アサくんも、意外と優しいところがあるんだね」
「僕を鬼教師みたいに言わないでくださいよ! 褒めるべきところでは、ちゃんと褒めますって」
 接客担当同士、小声で軽口を叩き合う。そんな中、ふと、マスターの異変に気づいた。
 カウンターの上に片手を置き、睫毛(まつげ)の長い切れ長の目をやや見開いて、遠くを眺めている。
その視線は、角のテーブルで話し始めた信田と梨沙に向けられているようだった。
「マスター、どうかしましたか?」
「あ……いや、何でもないよ」
 話しかけてみたけれど、マスターは気まずそうな顔をして、くるりと後ろを向いてしまった。エスプレッソマシンを拭き始めたマスターの背中を見つめ、じっと考える。
 何かを察したような、そんな表情だった。
 でも――いったい、何を?
「未桜さん、未桜さん! 未桜さんってば!」
 気がつくと、アサくんに怒涛(どとう)の勢いで名前を呼ばれていた。「聞こえてますか? もうすぐ次のお客様がいらっしゃいますよ!」と急かされ、あたふたと入り口に走る。
 夕飯をゆっくり食べられるくらい時間が空いた反動か、二名のお客さんが続けざまに来店した。アサくんが九十五歳のおじいさんを、未桜が七十七歳のおばあさんを接客し、伝票を次々とマスターのところへ持っていく。