お皿を布巾で拭き終え、足元の棚にしまった頃には、壁の時計は六時を指していた。
 急いで入り口へと向かい、お客様をお出迎えする用意を整える。アサくんが持っている来店予定者リストを見て、プロフィール情報を頭に入れておかなければならないのだ。
 アサくんは、すでに入り口前に待機していた。微動だにせず、扉を見つめている。心なしか、表情が硬く見えるのはなぜだろう。
「リスト、見てもいい?」
 軽い調子で声をかけ、手元の用紙を覗き込んだ。来店時刻の列を指で辿り、次にやってくる予定のお客さんを見つける。
「あ、この人だね! 長篠梨沙さん、生年月日は一九九〇年――って、若っ! まだ二十八歳⁉ 職業はホステスさんで――」
 そこまで読み上げたところで、『経緯』の欄(らん)が目に入った。
 アサくんが全身をこわばらせていた理由を、瞬時に察する。
「死因が、じっ、自殺……」
「未桜さん、お気をつけて。『死因』や『死亡時刻』といった単語は、いささか響きが直接的です。『来店経緯』『来店時刻』と言い換えてください」
「ご、ごめんなさい! 最初に教えてもらったのに……」
 悪気はなかった。びっくりして、叩き込まれたはずのマニュアルが、頭から飛んでしまったのだ。
 そんな未桜に理解を示すように、アサくんが神妙な顔でリストに目を落とした。
「来世喫茶店のお客様はほとんどが高齢者ですが、中にはこういう方もいますからね。でも、自殺というのは、特別珍しい来店経緯ではないんです」
「えっ……そうなの?」
「日本全国の自殺者は、年間約二万人。一日あたりで割ると、五十人から六十人になります。日本の来世喫茶店の数も六十店舗ですから、だいたい一日に一人来るか来ないか、といったところですね」
「そんなに多いんだ……」
 意外だった。たまに中学生や高校生が自殺したというニュースを見るけれど、それほどしょっちゅうというわけではないから、てっきり、めったに起きないことだと思い込んでいた。
 そうではなかった。未桜が生きる国では、一日に六十人近くもの人が、自分自身の手で命を絶っている。
 想像すると、ぞくりとした。アサくんの隣に立ち、身体の前で重ね合わせた手を、ぎゅっと握りしめる。
 扉が開いたのは、その直後だった。
軽やかな鈴の音が、新しいお客さんの来訪を告げる。
「い、いらっしゃいませ! 長篠梨沙さまですよね」
「……そうだけど」
 美しく着飾り、派手な化粧をした女性が、暗い目でこちらを見返してくる。その剣呑(けんのん)な雰囲気に気圧(けお)されながらも、未桜はマニュアルどおり丁寧にお辞儀をし、店内を指し示した。
「長篠さま、お待ちしておりました! どうぞお好きな席にお座りください」
「……どこでもいいの?」
「はいっ! カウンターでも、テーブルでも」
「……ふうん」
 長篠梨沙は店内を見回すと、一番奥の隅にあるテーブルへと歩を進めた。揺らめくキャンドルの火を一瞥(いちべつ)し、ため息を一つついて、どすんと乱暴に腰を下ろす。
 わざわざ、こちらに背を向けて座っている。
なかなか話しかけにくい雰囲気だ。
 カウンターの内側へと戻りながら、そっとアサくんの二の腕をつついてみたけれど、肘をつつき返されてしまった。「いつまでも新人ぶっていないで、早く一人で接客ができるようになってください!」ということだろう。
 ──だからって、こんなに難しそうなお客様を任せなくても……。
 仕方なく、未桜は一人で水のグラスを準備し、お盆に載せた。
息を整え、長篠梨沙が腰かけた奥のテーブル席へと近づいていく。おしぼりと水のグラスを置く間、梨沙は目を上げようともしなかった。
「ご来店、ありがとうございます。まず……えっと、長篠さまのプロフィール情報にお間違いがないか、ご一緒に確認お願いします。お名前が長篠梨沙さま、享年二十八歳、誕生日は、一九九〇年七月五日」
「合ってる」
 梨沙は長い脚を組んだまま、短く答えた。ぶっきらぼうな物言いに怯みそうになりながら、未桜はメニューを差し出した。
「これから、長篠さまが来世に“向かう”ためのお手伝いをさせていただきますね」
「はいはい」
「今日はこの来世喫茶店でゆっくりくつろいで、現世の疲れを癒してください!」
「……くつろぐ? 癒す?」
梨沙がぎょろりとした目でこちらを睨みつけてきた。
「そんな気分になれるわけないでしょ? さっさと出たいから早くして」
「もっ、申し訳ございません!」
 思わず身を縮める。ベテランのアサくんに泣きつきたくなったけれど、ぐっと我慢して言葉を続けた。
「では、お飲み物について、説明しますね。こちらの三つのメニューから、一つだけ、お選びいただけます。それぞれ効能が違うので、どれを飲むかによって、得られる体験も、“来世の条件”の決め方も変わります。ご注意くださいませ。それではまず一つ目、『メモリーブレンド』――」
 来世喫茶店にやってきてから約四時間、何度もアサくんの接客を見て、ようやく覚えた台詞を口に出していく。
 人生で一番大切な思い出を再体験できること。それとほとんど同じ体験が、来世でもできるようになること。これを、「例えば、大切な人にプロポーズされるという思い出を選んだとすると、来世でも両想いの人にプロポーズされることになります」と、ほとんど実例に近い具体例を挙げて説明していく。
 梨沙は未桜の言葉に反応せず、じっとメニューに目を向けていた。こちらの説明に耳を傾けてもらえているのかどうか、だんだんと心配になってくる。
「二つ目は、『相席カフェラテ』です。これを飲むと、現世で話したことがある人の中で、もう一度会いたい人を一人選んで、このテーブルに呼び出すことができます。お相手は、今生きている人でもいいですし、自分より前に亡くなった人でも大丈夫です」
「……会えるの? あいつに?」
 聞こえるか聞こえないかという声で、梨沙が呟いた。「はい、どなたでもお会いできますよ!」とスマイルを作ってみたけれど、梨沙は「ふうん」と腕組みをし、また黙ってしまった。
「それで――この場合の“来世の条件”ですが、呼び出したお相手とじっくり話し合って決めることができます。お二人が合意した、たった一つの条件。それが、『相席カフェラテ』の力によって、来世に反映されるのです」
 例えば、と未桜はまた具体例を出して説明した。「最近不慮(ふりょ)の事故で亡くなった幼馴染を呼び出し、心ゆくまで思い出話をした後、来世でも幼馴染として生まれ変わるという条件を設定する」というものだ。例を挙げるのが一番理解してもらいやすい、というアドバイスをくれたのはアサくんだった。
「そして三つ目の『マスターのカウンセリングティー』ですが、こちらを注文される場合は、カウンター席に移動していただくことになります。このお店のマスターが、長篠さまのご意向やお悩み事を聞き、スタンダードな紅茶からフレーバードティーなど、様々な種類の中からお任せで――」
「カフェラテで」
 梨沙が、愛想のひとかけらもない声で言った。説明モードからすぐに頭を切り替えられず、「はいぃ?」と訊き返す。
「だから、カフェラテで。人を呼び出せるやつ」
「わ、分かりました! 相席カフェラテですね。スイーツもサービスでつけられますが……いかがなさいますか?」
「サービスなの? じゃ、それも」
 呆気(あっけ)なく断られるかと思ったのに、意外な答えが返ってきた。やっぱり、『りんごとヨーグルトのパウンドケーキ』という誘惑だらけの文字に惹かれない女子はいないのだ。一緒にしたら怒られるかもしれないけれど、ちょっとだけ親近感がわく。
 伝票を手に、「ご注文を繰り返させていただきます――」と復唱しようとすると、「ちょっとちょっと」とアサくんの指摘が入った。
「未桜さん! お相手の氏名を伺ってください!」
「あっ!」
 相席カフェラテの注文を承るのが初めてだったため、うっかり忘れてしまった。申し訳なさを前面に出しながら、梨沙に問いかける。
「あのう……こちらに呼び出すお相手の、ご氏名を教えていただけますか?」
「ノブタミチヒコ」
 ぶすっとした顔で、梨沙が言い放った。漢字を尋ね、信、田、道、彦――と、伝票に一文字ずつ書いていく。
「この『信田道彦(のぶたみちひこ)』さんが、今最も会いたいお相手ということでよろしいですか?」
「……うん」
「では、ご注文を繰り返させていただきます」
 今度こそきちんと注文を復唱し、お辞儀をしてその場を離れた。
 後ろからついてきたアサくんに、こそこそと話しかける。
「ねえねえ、私さ、バイト初日にしてはけっこう頑張ったよね? ドリンクの説明、ちゃんとできてたよね?」
「自画自賛は後にしてください! まずはマスターに伝票を!」
 褒めてもらえるかと思ったのに、あっさり叱られてしまう。未桜は「先輩、厳しいなぁ」と口を尖らせながら、カウンター内にいるマスターの元へと向かった。