夜遅い時間に、珍しく薫子が帰って来たらしい。樹は屋敷に轟いたエンジン音に気が付いた。今日は紅葉狩りの日だと聞いていたけど、上手くいったのだろうか。多分その報告だと思って、迎えに出ようとしたら、扉をノックする音と同時に薫子が胸に飛び込んできた。

「兄さん…っ」

声が涙声だったのでぎょっとすると、腕に受け止めた薫子はしくしくと泣いている。まさか酷いことでもされたのだろうか。憤りで薫子にどうしたんだ、と尋ねると、薫子は泣いたままで、

「兄さん、…私やっぱり駄目よ」

それだけを言ってしまうと、遂にはわあんと泣き始めた。



薫子を落ち着けるために白樺にホットミルクを持って来させた。空気のように大瀧に仕える白樺は何も言わずに部屋を出て行った。樹は薫子にカップを持たせると、ソファに座った薫子の隣に座った。

鼻を啜りながらホットミルクをひと口飲んだ薫子が大きな息を吐く。樹は薫子の肩を抱いてあやしてやった。樹の体温に薫子の気持ちの高ぶりも収まったようで、ぽつりと、ごめんなさい、と小さな声で呟いた、何も悪いことはないよと包み込むつもりで、俺が薫子のことで困ることがあったか? と問うてやった。やっと薫子に少し笑みが戻る。安心して樹は薫子に聞いた。

「…で、何があったんだ。今日は紅葉狩りだっただろう。まさかあのワンピースが気に入らないとでも言ったのか?」

あのワンピースは樹の見立てだ。大瀧家が良く利用する店で何点か選んだ中で一番似合っていた。申し訳ないが、薫子の本当の美しさを理解できないのなら、薫子から手を引いてもらいたいと思うほどだ。

薫子は首を振った。違うのよ、兄さん、とやはり小さな声だ。

「佳亮くんは似合ってるって言ってくれたわ…。私嬉しくて…、スカートなのを忘れたのよ。……運転しようとしたら、佳亮くんが膝にカーディガンを掛けてくれたの…。…きっと、行儀の悪い女だと思われたわ……」

言って、またしくしくと泣く。薫子の言葉を樹は驚いて聞いた。初めてのデートなら男が運転すべきだろう。そう言うと薫子に彼が車を持っていないことを教えられた。

「そんな頼りないやつなのか?」

車も持たないなんて。樹がそう言うと、普通は良くあることなのよ、と薫子が言った。

「東京は電車網が発達してるし、私の会社の子も電車で通っているわ。佳亮くんはそういう、普通の人なのよ」

そうだったのか。理解が及ばなくて申し訳なかった。そして薫子が泣く理由はそれだけではなかった。

「紅葉はとても綺麗だったわ。人も沢山居て、お昼に佳亮くんの作ってくれたお弁当を広げたの」

二人で弁当を食べていた時に、後ろを通りかかったカップルが驚いたように言った言葉。



「うわあ、あの娘(こ)、男の出したお弁当食べてる」

「おい、女の方がデカいぞ」

「男の方も、なよっちい顔してんね」

割と大きな声で言われた言葉に周りも薫子たちを見た。好奇の目に晒されて居心地が悪いと感じたのは、これが初めてだった。

それに、自分がどう言われようと気にしなかったが、佳亮のことを悪く言われるのは許せなかった。ひと言言おうと立ち上がりかけたところを、佳亮が手を引くことで諫めた。

「…佳亮くん……」

「気にしない方が良いです。…それに、折角宇綺麗に着てくれたワンピースに似合いません」

僕が童顔で頼りないのは本当ですし。

そう言って佳亮は笑った。薫子はこの時ほど胸が痛むことはなかった。




「私が料理上手で背が低かったら、佳亮くんにあんな顔させなかったのかしら…。背なんて高くても低くても同じだと思っていたし、料理なんて出来なくても買えば生きていけると思っていたけど、こんなに辛いことがあるなんて、思わなかったわ……」

そう言って涙を零す。樹は薫子に掛ける言葉がなかった。

薫子の背が高いのは薫子の端正な顔立ちを引き立てる美点だと思っていたし、料理が出来なくても家に戻れば困らない。薫子も外食などで賄っているらしいから、これは樹と同じだろう。

しかし、樹の理解の及ばない所で薫子が傷付いている事態は、何としてでも対処しなければならない。樹は眉間に皴を寄せた。