「兄さん…。兄さんは、私がすることを愚かだと思う?」

薫子の口から出た言葉を、樹は直ぐ否定する。

「まさか。薫子が何事にもまじめで熱心だということは、俺は良く知っているよ。急に料理を習い始めた理由も、あるんだろう?」

反対されると思ったから、父や母には言わなかったが、樹になら話しても良いかと思う。叶わぬ恋でも味方は欲しい。

「……好きな、…ひとが、居るの……」

薫子を見つめる樹のまなざしがやさしい。包むような微笑みにつられて、薫子は言葉を継いでいた。

「とても素敵で、…料理の上手な人なの…。いろいろな料理を食べさせてくれて、本当にやさしい人なの…。恋人が居るんだけど、…気持ちを伝えたくて……」

樹が頷いた。

「それで、オムライスを作って彼にご馳走しようというんだね?」

「…告白したら、家に戻るわ。…あの部屋は、彼に近すぎるから」

想いを告げたら、あの部屋には居られなくなるだろう。何処か別の部屋を探しても良いが、一人暮らしと食事は密接に結びついた問題だ。一人暮らしを続ければ、それだけ佳亮のことを思い出すだろう。だったら、諦める為にも家に帰ったほうが良い。もともと、大学を卒業して今の会社に入るときにあの部屋に移り住んだ。あの時は父の言う嫁入り修行に反抗する気持ちもあって、家を出たかった。今は、反抗する気持ちもしぼんでしまったから、父や母の言うように帰ってきても良いと思う。

「以前寝込んだのも、その人が関係してるのかな?」

あの時は、彼女と比べて料理のひとつも出来ない自分に絶望を感じてしまっていた。こんな風では振り向いてもらえないと、うじうじしていた。でも、諦めることを決めたら気分がすっきりした。佳亮が本当に最初の約束通り、薫子に食事を作ってくれようとしていたから、もうその気持ちだけで十分だと思えたのだ。

「彼が悪いわけじゃないわ。私が一人で落ち込んでいただけ。でも、前向きになれたのも、彼のおかげなのよ」

あの時佳亮が作ってきてくれたお弁当は、本当に薫子の為に詰めてくれたお弁当で、あんなにあたたかいお弁当を食べたことはなかった。学生時代に学校に持って行ったお弁当は勿論平田の愛情がこもっていたが、彼は大瀧に雇われているから薫子にやさしくしてくれるのであって、佳亮が無償の愛情で薫子にやさしくしてくれるのとはわけが違った。

「わかるよ、白樺から聞いた。良い人のようだね」

「そう。とてもいいひと」

幼い頃から薫子の周りでは薫子を大瀧への人脈のつてにしようとする人が多かった。小さい頃はそれが分からずににこにこしていたが、少し大きくなれば、相手がどんな気持ちで自分に接しているかだなんて容易にわかる。利用されるだけの人生が嫌だったから花嫁修業もしなかったし、今の会社に就いてもお飾りの社長が嫌で会社の為に努力は惜しまなかった。

結果、変り者として遠巻きに視線を寄越されていたけど、それで良いと思ってた。そんな中、無償で食事を作ってくれた佳亮は今まで薫子の周りにいた人たちとは全然違っていた。そもそも、自分が何かを得ようと思ってない。そんな人は初めてだったから、びっくりして、感動した。

こういう人の傍に居たい。そう出来たら、とても幸せだろうと思ったのだ。
でも、出来なかった。一人で自立して生活している佳亮に、結局は大瀧に支えられている薫子は相応しくなかった。無言であの部屋から立ち去ることも考えたが、それではあまりにも、この初めての本気の恋が可哀想だ。迷惑と知りつつ告白するのは胸が痛むが、薫子も今の気持ちを割り切るために何らかの区切りが必要だった。

「彼を、…困らせてしまうわね…」

俯いて言う薫子に、そんなことないさ、と樹が言った。

「彼は分かってくれるよ。薫子の気持ちも、告白の理由も」

兄のやさしさに涙が滲んだ。

「そうだと、嬉しいわ…」

オムライスが作れるようになったら、佳亮に告白する。そして、この家に戻ってこよう。

薫子は、心を決めていた……。