暗い道を、駅の方向へと戻る。隣を歩く彼女は、先刻からキーホルダーをちゃりちゃり鳴らしていた。
「うちのマンションの人だったかな? 私、自分の階の人とかも知らないから、貴方のことも知らなかったけど…」
「あ…っ、いや、僕は道路挟んで向かいのマンションで…」
彼女の問いに、しどろもどろと答える。最初から不審者だと思われていなかっただけ良かったのだろうか。
「向かい? うちのマンションじゃないの? じゃあなんでうちのマンション見てたの?」
「あー…、いや、その…」
まさか、貴女がベランダにいたのを見つけたので、見てしまいました、とは言えなかった。言葉を濁した佳亮のことをどう思ったのか、彼女はじっと佳亮を見つめて、それから、ああ、とにこりと笑った。…夜の街灯に照らし出される笑みは、僅かな明かりなのにそのきれいな顔を夜の闇に浮かび上がらせていた。
「誰か気になる人でもうちのマンションに居た? でも、女の人は、あんまり夜は窓にも近寄らんじゃないかな」
私は気にしないけど。そう言って彼女が明朗に笑う。
「や、違いますって!」
「じゃあ、なんであんな風に見てたの?」
あんな風に、と言うってことは、少なくともぼんやりと見つめてしまっていたことは認識されてしまっていると言うことだった。…恥ずかしくて顔から火が出そうだった。全く暗闇でよかった。
「あの、いやその、…見たことのあるニット帽の人が居るなあって思て」
「ニット帽…。…私?」
彼女は、びっくりしたように自分の顔を指差した。うん、と返事をするのも恥ずかしくて、佳亮は視線を地面に向けてこくりと頷いた。
「や、その、ちょっと前にそのニット帽、コンビニで見かけてて。…僕の前にレジに並んだの、覚えてないですか?」
「コンビニで…?」
彼女が記憶を辿るような声を漏らしたので、佳亮は更に付け加えた。
「あの、レジで一円玉落としたの、僕、拾ったんやけど…」
「…あ? ……あ、もしかしてちょっと前に、私の後ろで無言の圧かけてた人?」
「あ、いや…、そんな焦らせてもーたかな…。……ごめんなさい」
自覚のある佳亮の返事に、彼女は、いやいやそんなことないけど、と笑った。その音に少し驚いて佳亮が顔を上げると、彼女は佳亮の顔を覗きこんできた。…びっくりする。
「あ、本当だ。あのとき、おっきい目の人だなあって思ったんだ。先刻は道が暗くて分からなかったなあ」
もうコンビニの明るいライトが足元にも届いている。彼女はその明かりで佳亮の顔を確認したようだった。なんだか、印象的な顔だと言われているようで、ますます恥ずかしい。
「…そ、それ言ったら、貴女のほうがきれいな顔で印象的ですよ。全体的によれてたのに、きれいやなあって思いましたもん」
「あはは、よれてたっけ? まあ、残業続きで疲労困憊なのは何処の会社でも同じでしょ」
「まあ、そうですね。僕も初めてお会いした時は、自炊諦めてコンビニ飯でしたから」
佳亮が言うと、彼女は「自炊すんの! すごいね!」と驚いてくれた。佳亮の自炊にプラスの意味で食いついた女性は初めてだった。
「…しますよ。東京は物価も高いし、安月給じゃ毎日外食ともいかないし…。今から買いに行く卵も、明日は絶対ハムエッグって決めたんで」
「へえ、すごいねえ。貴方は上京組なのね。…っと、こんな風に話してるけど、そういえば名前を聞いてなかったわね。私は大瀧薫子。貴方は? 出身は何処なの?」
路上で急に自己紹介が始まってしまって焦る。
「あ、僕は杉山佳亮です。出身は奈良で、こっちに来て五年になります」
彼女、薫子は佳亮の自己紹介に、ふうん、と微笑(わら)った。
「五年のキャリアなら、相当の腕前ね」
薫子の言葉に口ごもる。佳亮の様子がおかしいことに気付いたのか、薫子が、どうしたの、と問いかけてきた。佳亮は努めて明るく言う。
「い…、いやー、僕、料理男子なんですよねー。料理男子って、女の子受け悪いみたいで、よお料理が原因で振られました」
学生の頃、良く持ってきた弁当の内容の違いに驚かれて、自分と比べられると嫌だと言われた。佳亮が料理上手なのは、幼い頃から忙しかった両親に代わって弟妹の食事を作っていたからだ。弟妹に美味しいと言ってもらって満足していた時期は過ぎ、気付けば自炊は佳亮の欠点となっていた。それでも忙しく働く両親を支える為、料理は続けた。就職すれば解放されるかと思ったけど、思わぬ東京での独り暮らしに自炊せざるを得ず、今に至る。
そんな理由など知らない薫子が、そんなことないわよ、と励ましてくれる。
「ありがとうございます、気ぃつこてもろて。でも世間ってそんなもんなんやなーってわかりましたし、いい勉強になりました」
「何言ってるのよ、料理好きは十分アドバンテージよ。特に今は共働き世帯多いんだから、男性が料理してくれたら相手の女性だって嬉しいでしょうに」
薫子の力説も佳亮には届かない。
「田舎だったので、男は外、女は家、みたいな風習が残ってて…。それで育つともう価値観変えられませんよね…」
あはは、と空笑いで会話を収める。薫子はもったいない、とぶつぶつ言っていた。
ぶらぶら歩きながら話していて、コンビニに着いた。佳亮は籠に卵のパックと煮卵のパウチを入れた。
「? 卵に卵?」
薫子が佳亮の籠を見ながら疑問を浮かべる。会計をしてもらった佳亮は袋を別々にしてもらってからコンビニを出ると、煮卵のビニール袋を薫子に差し出した。
「…え…っ?」
驚く薫子に佳亮は笑顔を向けた。
「僕の料理のこと、肯定してくらはってありがとう。ほんのお礼の気持ちです。あの時、お弁当とコーラしか買うてへんかったから、きっと栄養素足りてへんやろうなって思て」
「えっ、えっ。ええ~~!」
驚く薫子が目をまん丸くする。随分涼しげな美人風だと思っていたけど、こういう表情は少し親しみが持てるかもしれない。佳亮は薫子に煮卵のビニール袋を持たせると、帰り道を向いた。慌てる薫子が追ってくる。
「杉山くん、悪いよ、悪いよ。こんなことされちゃうと」
そう言って、薫子は本当に困ったように眉を寄せた。…やっぱり、食が絡むことで自分がすることで良いことなんて何にもないんだな、と思ってしまう。
「…すみません、出過ぎた真似をして。これっきりなので、それは収めてください」
自嘲気味な笑みを浮かべる佳亮を、戸惑った薫子が見ている。それでも駄目なら、
「気持ち悪くて食べられないなら捨ててくれて構いません。僕が、お礼がしたかっただけなので…」
佳亮が言うと、薫子が口を開いた。
「そ、んな…。こんなことされたら、お姉さんお礼したくなっちゃうでしょ! 良いわ、杉山くん。明日はお仕事お休み?」
急に何を言い出すんだろう。確かに今日は金曜日で明日は休みだけど。
「それじゃあ、話は早いわ。貴方、明日、私の家に来なさい。そして料理を作って。私が食べて美味しいと言ってあげるわ」
ええっ、そんなの薫子に負担になるだけではないか。しかも「美味しいと言う」なんて決めつけている。
「大瀧さん、無理しないでください。僕なら卵を受け取っていただけるだけで良いので…」
「卵はもちろんありがたく頂くわ。でも、それとこれとは話が別よ」
別かなあ? 佳亮が首をひねると、薫子はこう言った。
「過去、どんな女の子に手料理を酷評されたのか知らないけど、今の世の中、料理が出来ない女だっていっぱいいるのよ。そう思ったら、料理のできる杉山くんは優秀なの! もっと自信持ってほしい」
ぐっとこぶしを握って薫子が力説する。でも、好きだった女の子に料理ができることを嫌がられた経験は、そう簡単には覆せない。
「兎に角! 明日、私の家に来なさい。そして、私の為に手料理を振舞って」
高い位置から見下ろされると、余計にノーとは言えない。佳亮は俯いて頷いた。