夕方の通勤ラッシュの時間帯。

 地味なスーツに身を包んだその男は、人の流れに沿うように新宿駅の連絡通路を歩いていた。自分が歩く通路左側は京王線からJRへ乗り換える人がゆるやかに列をなしている。反対側にはJRから京王線に乗り換える人の流れが続いていた。

 男は自分も通勤客の一人だという顔をしながら、それでもあたりを注意深く物色する。

 今日も職場では散々だった。
 年下の上司には散々なじられ、同僚たちからは馬鹿にされた。
 安月給の癖になんでこんなに嫌な思いまでして働かなきゃならないんだ。ギャンブルで負った消費者金融のローンだって膨らむばかり。将来になんの希望も持てなかった。

(くそっ。なんで俺ばっか損な目にあわなきゃなんねぇんだ。俺が何をしたっていうんだよ)

 それでも毎日会社に行ってちゃんと働いている。それだけでも偉いと自分をほめたいところだ。偉いんだから、当然なにかしら褒美を得たっていい。そうだ。人生には褒美が必要だ。

 だから、ちょっとばかし憂さ晴らししたからといってどうってことないじゃないか。むしろ自分の正当な権利だとすら男は考えていた。
 男は連絡通路を抜け、JR新宿駅の東口へと続く広い通路に出る。

(今日はどれにするか……)

 騒ぎ立てたり、追いかけてきたりしないやつがいい。そう、おとなしそうで、自分よりも弱いやつだ。
 上司はよく、この世は弱肉強食だと説教してくる。だから、お前みたいな弱いやつは会社にいさせてもらえるだけでも感謝しろ、と。
 それなら、自分より弱いやつに憂さ晴らししたっていいわけだ。
 男のゆがんだ認知は、そんな自分勝手な理屈をさも正当なことのように思い込んで疑わなかった。

 すぐ前から歩いてきた中年女性が目に入る。ちょうどいい。
 男はすっと女性に近づくと、力いっぱい肩をぶつけた。女性は悲鳴をあげることもできずに驚いた表情で床に倒れこむ。少しだけ、男の心の中がスッとした。

 でもまだだ。まだ足りない。これっぽっちじゃ足りない。
 次の獲物を探す男の目がとある人影をとらえた。

(……お。ちょうどいいのがいた)

 男の数メートル先から、淡いアイボリーのスーツを着た二十代前半と思しき女性が歩いてくる。人の流れに少し遅れながらこちらへ歩いているのも好感触だ。動きがとろいタイプか、もしくは仕事で疲れ切っているか。
 これなら、騒ぎ立てられることもないだろう。

 男は足早にその女性へと近づいていく。
 女性が派手に倒れこむ情景が目に浮かんで、男の口端に(よこしま)な笑みが浮かんだ。

 すっと吸い寄せられるようにその女性の前へ行くと、跳ね飛ばす勢いで肩をぶつける。いや、ぶつけようとした。
 しかし、その直前。

「みつけました。ぶつかりおじさんですね」

 その女性が確かにそう口にした。
 男は、え? と思ったが、ぶつかろうとして重心を寄せていた右腕をその女性に素早くつかまれた。そのまま想定外の強さでぐいっと引き付けられ、次の瞬間右足を払われた男の体は宙を飛んだ。

 視界がぐるりと反転し、気が付いたときには床に背中を打ち付けていた。
 何が起こったかわからない。しかし、しっかりと男を床に抑え込むその女性はまっすぐな瞳で男を見下ろしてくる。唖然として声すら上げられない男に彼女は言った。

「ね? 痛いでしょう? 怖いでしょう? でも、あなたにぶつかられた人たちは、それ以上の苦痛を味わったんです」

 そこに、ばらばらという複数の走る足音が聞こえてくる。

「大丈夫か!」

 その声に、彼女は元気に答えた。

「はい! 私は大丈夫です!」

 制服姿の警察官たちが男を取り囲む。だが真っ先に話しかけてきたのは背の高い私服のメガネ男だった。

「ちょっと、分駐所まで来ていただけますか」

「な、何をする気だ! こ、こ、こんなの横暴じゃないか! 僕はただちょっとよろけただけなのに!」

 そう言い張る男に、私服の男はメガネの奥から氷のような視線を向けてくる。その冷たさは、男が恐怖のあまり「ひっ」とおびえた声を出すほどだった。

「あなたを探していました。構内で被害の相次いでいた体当たり暴行事件の参考人としてお話を聞かせていただきます」

 有無を言わさぬ口調。
 そこに、さきほど男がぶつかった中年女性も警察官に身体を支えられながらやってきた。彼女は足をケガしているようだったが、男を指さして震えた声で言う。

「この……人です。間違い……ありません……」

 男に、もう逃げ場はなかった。