その日も、北条と亜栖紗は構内の警らを行っていた。
 ただ黙々と歩いているのもかえって目立つため、横に並んで話しながら歩く。大体話す内容は、しょっちゅう構内で迷子になる亜栖紗のために、今いる地点を把握するのに手掛かりになるようなものを北条が教えてくれることが多い。

「これだけ一緒に回れば、もうそろそろ迷子にならないよな……お前」
「す、すみません……」

 本来なら別れてそれぞれ別のルートを警らしたほうが効率はいいのだが、いまだに亜栖紗は一人で警らに出ると構内で迷子になってしばらく分駐所に戻ってこられないでいた。

 毎日家に帰ると構内図とにらめっこして覚えようと努力しているのだが、なぜかこの新宿駅の中にいると方向がわからなくなってしまう。気が付いたら、自分がどこにいるのかわからなくなるのだ。
 とはいえ、そのせいで北条の手を煩わせてしまっているのは確かだった。

「明日こそは、ちゃんと覚えてきます……」

 涙目になって言う亜栖紗に、北条は大きなため息をつく。

「さすがに、一年も二年もここで働いてりゃ否がおうにも覚えるだろうけどな。……そういや柳川さんから聞いたんだけど、お前、ここを希望して来たんだって?」

 その言葉に、亜栖紗はパッと顔を上げて隣を歩く北条を見た。

「はいっ。第一希望でした!」
「でも、なんで……」

 北条が疑問に思うのも当然だ。同期たちはそのほとんどが警察署や交番への配属になった。だから、特に電車マニアでもなかった亜栖紗が鉄道警察隊へ入ることが決まったとき、同期の友人たちにもひどく驚かれてしまった。

 だけど亜栖紗は、ここ鉄道警察隊新宿分駐所で働きたいと思って、警視庁の採用試験を受けたのだ。

 亜栖紗の視線が、すっと前を向く。

「私……大学で初めて、東京に出てきたんです。でも、ほとんど限界集落みたいなど田舎育ちだったから、初めて上京した日に盛大に道に迷ってしまって……」

 複雑な路線図。頻繁に来る様々な行き先の電車。広い構内。足早に行きかう、見たことがないほどたくさんの人、人、人。
 どの電車に乗っていけば目的地へつくのか、そもそもそのホームはどこなのかそれすらわからず。その日、亜栖紗は何時間も構内をさまよいつづけた。そのうち頼りにしていたスマホの電池もなくなってしまう。亜栖紗はディスプレイが黒一色になったスマホを握って途方にくれ、しまいには構内の隅で座り込んでいた。

 積んだと思った。自分はもうこの迷いの森のようなコンクリートジャングルから抜け出せず、ここで力尽きるんだ。そもそもなんで東京なんかに出てきてしまったんだろう。地元にいればこんなことにならなかったのにと、ついには涙が止まらなくなった。
 そんなときだった。

「どうしたんですか?」

 亜栖紗の頭の上から、そんな声がかけられる。
 その優しい声に気づいて泣きはらした顔を上げると、そこには青い制服を着た女性が心配そうに亜栖紗をのぞき込んでいた。なんと答えていいのかわからず声が出せないでいると、

「体調が悪いんですか?」

 彼女はなおも心配そうに聞いてくる。
 泣いて腫れぼったくなった顔が恥ずかしくて、亜栖紗はうつむいたまま首を横に振った。

「道に、迷ってしまって……」

 何とかぼそぼそと伝えると、彼女は「そっかー。ここ、複雑な構造してますもんね」と安堵の表情を浮かべたあと、にこりと微笑みかけてきた。

「それだったら、大丈夫。私に任せてください。ちゃんと、あなたが行きたいホームまで案内してあげますから。行き先はどこですか?」

 亜栖紗がカバンの中に大事に入れていたワンルームマンションの契約書を見せると、そこに書かれた住所から彼女は亜栖紗がどの電車に乗ればいいのかすぐにわかったようだ。そのあと亜栖紗が本来行くべきだったホームまで連れて行ってくれて、どの電車に乗ってどこで降りればいいのか優しく教えてくれた。

 さらに駅を降りたらどう歩けば目的地にたどり着けるのか簡単な地図をメモに描いて渡してくれて、亜栖紗がちゃんと正しい電車に乗ってホームを離れるまでずっと見守ってくれたのだ。
 別れ際、ホームで手を振る彼女の胸には『RP』と書かれた胸章が光っていた。

「あとで調べてわかったんです……あの人は、鉄道警察隊の人だったんだって」

 RP……Rail Policeの文字が入った胸章は鉄道警察隊の証。
 いまは私服だからつけていないが、亜栖紗の制服の胸にも真新しい胸章が光っている。

「それで私もあの人みたいに駅で困っている人の力になりたいって思うようになって」

 亜栖紗は北条を見上げると、にっと笑った。

「ここで働くのが夢だったんです」

 北条は切れ長の目を大きくしてジッと亜栖紗を見てくる。怪訝に思って亜栖紗が「どうしたんです?」と言葉を返すと、北条はハッと我に返って軽く咳ばらいをした。

「な、なるほどな。それなら、早く一人で警らできるようにならないとな」

「う……が、がんばります……。でも、なんでこんなに覚えられないんでしょうね」

 確かに新宿駅の構内は複雑で広いけれど、毎日歩いているし、家では毎晩構内図とにらめっこしているのだ。それなのに、なぜいまだに迷子になるのだろう。自分のダメさ加減が恥ずかしくてしゅんと肩を落とす亜栖紗だったが、

「それはたぶんだが。お前が警ら中は人を見ることに夢中になって、それ以外が見えなくなっているからじゃないか?」

 北条はあっさりとそんなことを言ってくる。図星だった。思い返してみても、迷子になるときはいつも、はっと気が付くと見知らぬ場所にいて、どこをどう歩いてきたのかあいまいになっていた。

「言われてみれば、たしかにそうだったかも……」

「いまは人を見るのに精いっぱいになってて、ほかまで意識が回らないだけだろ」

「そうですね……。どうしても、困っている人はいないかな。怪しい人はいないかなって……そればかりで頭がいっぱいになってしまって。あの、この前見せてもらった動画の『ぶつかりおじさん』も、もしまたこの駅に出没したら絶対に見逃さないぞって、つい意識がそっちばかりに行っていたのかもしれません」

『ぶつかりおじさん』はまだ捕まっていない。いまも、同じ構内を歩いているかもしれないのだ。そう思うと絶対に捕まえてやるぞという強い気持ちと、怖いと思う弱い気持ちが同時に湧いてきて心の中がごちゃまぜになる。

(だめだめ。私は鉄道警察官になったんだから。そんなことで怖気づいてちゃダメ。あの憧れの人みたいに、頼れる鉄道警察官になるんだ!)

 心の中でこっそり自分を鼓舞する亜栖紗だったが、

「この前、構内で被害にあった女性にもあの動画を見せたら、あそこに映っていたスーツの男に間違いないと言っていたよ。ただし、反町」

「は、はいっ」

 亜栖紗の決意も知らず、北条は亜栖紗が肩からさげるトートバッグを指さす。

「もしお前が一人で警らしてるときにホシらしき人物をみつけたら、すぐにそこに入ってる無線で連絡しろ。決して一人で捕まえようなんて思うなよ?」

「でも、逃げられちゃったら……」

「俺たちに連絡入れつつ、気づかれないように後を追え。俺たちもすぐに応援に行くし、他の駅にも連絡入れるから。それに……」

 そこで北条は口ごもる。目が一瞬、悲しげに揺れたように見えたが、その影はすぐに消えて彼はキッときつい目で亜栖紗を睨んだ。

「相手は、弱い相手を平気で狙ってくる卑劣な輩だ。お前の身に何かあったらどうするんだ?」

「だけど、こういう仕事に就く以上、それなりに危険は覚悟してますっ」

 新人だから? 女性だから? 頼りないと思われてる!? たしかに、迷子になってばかりで頼りないのは重々承知だけど、半人前として扱われるのは嫌だった。それでつい、強い口調で言い返してしまったのだが、

「確かに危険に向かわなきゃいけないこともある仕事だが、自分の身を守るのも業務のうちだ。それはベテランも新人も関係ない」

 北条にぴしゃりと言い返されてしまった。
 上司である北条にそう言われてしまうともう、亜栖紗に反論の余地などない。

 きゅっと口を噤むと、いやな沈黙が二人の間に流れた。
 とはいえその間も二人は足を止めることなく、周囲にさりげなく目を配ることを忘れない。いまは警ら中なのだから、言い合いしていても仕事をおざなりにするわけにはいかないのだ。

 十分ほど黙って歩いていたのだが、先に沈黙を破ったのは北条の方だった。

「……俺、大学生の妹がいるんだけどさ」

 突然なぜ家族の話をし始めたのだろう。怪訝に思って北条に視線を向けると、彼は辛そうに目元を歪めて亜栖紗を見た。

「三週間前に、この新宿駅で『ぶつかりおじさん』の被害にあったんだ」
「……え」

 突然の告白に驚いて、亜栖紗は言葉が喉の奥で詰まってしまったかのように口をぱくぱくさせる。北条はなおも話を続けた。

「小柄な妹はぶつかられた勢いで床に倒れこんで、足を骨折した。でも身体のケガだけじゃなくて、精神的にも傷を負ってしまっていてな。外出が怖くて、いまだに人ごみに出ることができない。大学も休学したんだ」

 北条のこぶしが、強く握りこんだせいで白くなっている。

「ふがいないよな。そのとき俺はここで勤務中だったんだ。それなのに、こんな目と鼻の先で妹をそんな目に合わせて、いまだに犯人を検挙すらできていないなんて……」

 悔しさに震える彼の声。

(そっか、だから……)

 ここ新宿分駐所に亜栖紗が任官してから一週間。北条と一緒に行動していて、彼が警らを終えて帰ってくるたびに酷く落胆している様子であることには気づいていた。

(妹さんのためにも、早く犯人を捕まえたかったんだ)

 そう思うと、亜栖紗も俄然『ぶつかりおじさん』を早く捕まえたいという気持ちが強くなる。さっきまで恐怖を覚えていたことも、いまはすっかり吹き飛んでいた。

「一日でも、一時間でも、一秒でも早く! 捕まえましょうね!」

 力いっぱいそう言うと、北条も口角をあげて苦笑を返してくる。でも、そのメガネの奥の目はいつもより柔らかいように思えた。

「ああ、そうだな」
「じゃあ私、ここからは一人で警らに行ってみます!」

 ちょうど構内の端っこまで来ていた。ここから右へ行けば南口。左へ行けば東口へ出る。

「ああ。また迷ったら電話してくれればいいから」
「今度こそ、自力で帰ってみせますからね!」
「期待せずに待ってるよ」

 そう言葉を交わしあうと、二人は別々の方向へと歩いていった。