鉄道警察隊には主に警察官の制服を着用して警戒活動を行う『警ら係』と、乗客に紛れている痴漢や窃盗捜査を私服で行う『特務係』とがある。
北条はこの特務係なので、私服のスーツで警らに当たっていたらしい。こういった犯罪の場合、近くに制服を着た警察官がいると犯人が警戒するため、私服での捜査が不可欠なのだという。
亜栖紗の配属先も、この特務係。そのためスーツ姿のまま駅構内の警らを行う北条についていくことになった。制服が着られないのはちょっと寂しいけれど、職務上必要とあれば仕方がない。
二人はまず、さきほど『ぶつかりおじさん』が出たと利用客から報告のあった地点へと向かう。
その途中で北条が胸ポケットに入れていたスマホの画面を亜栖紗に見せてきた。そこには一つの動画が表示されている。
「これは……?」
亜栖紗は背の高い北条を見上げながら問いかける。女性としても小柄な亜栖紗にとって、百八十はあろうかという北条はまるで西新宿にそびえる高層ビルのようだ。ついでに彼は足も長いので普通の速さで歩いているようにみえても、隣でついて歩く亜栖紗は速足になってしまう。
その亜栖紗の問いに、彼は人ごみに視線を向けたまま淡々とした口調で答えた。
「三週間前に、ネットで拡散された動画だ」
動画には込み合う駅の構内が映されていた。流れにあわせて多くの人が歩きながら改札や乗り換えホームに向かっている。
そのとき、一人のスーツ姿の男が妙な動きでふらりと女性に近づいたかと思うと、どんと強くぶつかった。
亜栖紗は、はっと息をのむ。
ぶつかられた女性はよろけながらもなんとかふんばって態勢を直していたが、強く当たった腕が痛むのかもう片方の手でさすっている。
スーツの男はその女性には関心をなくし、再び何かを探すような視線をあたりに向けながら歩き続けていた。
どうやらこの動画は、男の数メートル前を歩いていた人が後ろにスマホを向けてこっそりと撮影したもののようだ。おそらく次々と故意に通行人へぶつかりにいく男を不審に思って隠し撮りしたのだろう。
スーツの男はしばらく構内を歩いたあと、今度は白髪の女性の前に立ちふさがるようにして近寄ると、どんと強く肩をあてるようにしてすぐ脇を通り抜けた。白髪の女性はぶつかられた勢いでよろけ、危うく倒れこみそうになる。それを後ろにいた人が支えて事なきを得ていた。そこで、動画は終わっている。
「この動画がSNSにアップされると瞬く間に拡散され、被害を受けたことがあるという声がうちにも多く寄せられた。前々からこの手の話は分駐所に届いてはいたが、ぶつかる程度のトラブルなら日常茶飯事。一つ一つの案件は怪我人が出るほどでもなかったから、たくさんのトラブルの中に埋没してしまっていたんだ。でも、この動画が世に出たことで、意図的にぶつかることを繰り返す輩が存在することが明らかになった」
それで本格的に捜査することになったのだという。
そうこうしているうちに、二人は今朝ぶつかりおじさんの被害があったという現場に到着する。
そこは、新宿駅南口の改札近くだった。
ここは小田急線からの乗り入れや、改札からの人の出入り、それに加えて七つあるホームへの乗り換え客で一日中ごったがえしているエリアだ。
それぞれの目的地を目指して足早に移動していく利用客たちが、構内を縦横無尽に通り過ぎていく。
このエリアで今朝、乗り換えホームに向かおうとしていたOLや学生にわざとぶつかって突き飛ばしていく通称『ぶつかりおじさん』が出たのだという。
被害の報告があってすぐに北条が現場に向かったのだが、彼が到着した時にはもうそれらしき人物の姿はどこにも見えなくなっていた。
構内の監視カメラの映像は警視庁新宿署に送られて犯人捜査が続けられているのだそうだが、犯人もそのことは承知しているのか、犯行を行ったあとは電車を乗り継いで逃げてしまい、毎回使う路線も降りる駅も違うとのことでまだ犯人の身元特定には至っていなかった。
「犯行現場をおさえて現行犯で捕まえることができれば、それがなによりなんだけどな」
そのために構内の警らは強化されているらしいが、鉄道警察が抱える案件はこれだけではない。そのうえ、『ぶつかりおじさん』が出没するのは新宿駅構内に限らないのだ。調べてみると東京駅や品川駅など多くの客が行きかう駅で同様の事件が続いていることがわかった。
次にホシが出没するのが、ここ新宿なのか。それとも別の駅なのか。それすら予想がつかなかった。
「でも、なんでわざとぶつかってくるんですかね」
北条とともに人ごみを縫うように歩きながら、亜栖紗は尋ねてみる。
「さぁな。憂さ晴らしなんじゃないか。狙われるのは主に女性。……反撃されそうにない自分より力の弱い相手ばかり狙ってるあたり、通り魔と同じだよ。犯人は人間のクズであることに違いはない」
忌々しそうに、北条は語気を強くして言い捨てた。
そんな話をしながらも、二人の視線は注意深く辺りに向けられている。その後別れて構内をパトロールしたが、この日はあの動画の人物らしき男を見かけることはなかった。
警らを終えて分駐所に戻った亜栖紗を、柳川警部は「お疲れさまー。初めての警らはどうだった?」とにこやかに労ってくれる。
実は途中で迷子になってしまって、事前にもらっていた構内地図を頼りになんとか帰ってきたことは口まで出かかったけれど言えなかった。
人ごみの中を歩くのにまだ慣れておらず、たくさんの人に酔ってしまったのか分駐所に戻ったとたんどっと疲れを感じる。
もともと高校まで過ごした町は単線しかない無人駅だった。そんな地元から大学進学のために東京に出てきたときには、この新宿駅を見て『今日は町中の人がここに集まってくる一年に一度のお祭りでもあるの!?』と驚いたほどだった。その驚きは今もあまり変わらない。
三百五十万もの人が毎日行きかうだなんて、そんな駅が存在することがいまだに信じられなかった。
(でも、念願だったこの駅の鉄道警察隊に入れたんだもん。がんばらなきゃ)
こっそりと心の中でこぶしを握る。
せめて迷子にならないように、構内の地図を覚えることから始めなきゃ。そう決意したところで、ガラッと入り口のドアが開く音がした。
そちらに目を向けると、北条が戻ってきたところだった。
「お帰り。北条くん。どうだった?」
柳川警部の言葉に、北条は沈痛な表情でゆるゆると首を横に振る。
「途中で迷子を見つけて、親へ引き渡した以外は……何も」
そう答えると、彼は脇に置かれた事務棚から警ら日誌を取り出して、大きなため息とともに自分のデスクにつく。
なんだか、ひどく気落ちしているようだ。何があったんだろう。気になっていると、柳川警部が彼のそばに近寄って肩をポンポンと軽く叩いた。
「そのうち必ず検挙できる日が来る。それが一日でも早く来るように、我々も力を尽くすしかないよ」
柳川警部の励ましの言葉に、北条は「はい」と大きくうなずくと、デスクに置いた警ら日誌を開いた。
それから一週間。
ぶつかりおじさんは新宿駅には現れず、都内の他の駅からも目撃情報はあがってこなかった。
とはいえ、分駐所には他にも様々な相談事が舞い込んでくる。痴漢に、落とし物、道案内……。それらを上司である北条について一つ一つやり方を学びつつ、一日数回の警らをこなす。そうやって一日は慌ただしく過ぎていった。
北条はこの特務係なので、私服のスーツで警らに当たっていたらしい。こういった犯罪の場合、近くに制服を着た警察官がいると犯人が警戒するため、私服での捜査が不可欠なのだという。
亜栖紗の配属先も、この特務係。そのためスーツ姿のまま駅構内の警らを行う北条についていくことになった。制服が着られないのはちょっと寂しいけれど、職務上必要とあれば仕方がない。
二人はまず、さきほど『ぶつかりおじさん』が出たと利用客から報告のあった地点へと向かう。
その途中で北条が胸ポケットに入れていたスマホの画面を亜栖紗に見せてきた。そこには一つの動画が表示されている。
「これは……?」
亜栖紗は背の高い北条を見上げながら問いかける。女性としても小柄な亜栖紗にとって、百八十はあろうかという北条はまるで西新宿にそびえる高層ビルのようだ。ついでに彼は足も長いので普通の速さで歩いているようにみえても、隣でついて歩く亜栖紗は速足になってしまう。
その亜栖紗の問いに、彼は人ごみに視線を向けたまま淡々とした口調で答えた。
「三週間前に、ネットで拡散された動画だ」
動画には込み合う駅の構内が映されていた。流れにあわせて多くの人が歩きながら改札や乗り換えホームに向かっている。
そのとき、一人のスーツ姿の男が妙な動きでふらりと女性に近づいたかと思うと、どんと強くぶつかった。
亜栖紗は、はっと息をのむ。
ぶつかられた女性はよろけながらもなんとかふんばって態勢を直していたが、強く当たった腕が痛むのかもう片方の手でさすっている。
スーツの男はその女性には関心をなくし、再び何かを探すような視線をあたりに向けながら歩き続けていた。
どうやらこの動画は、男の数メートル前を歩いていた人が後ろにスマホを向けてこっそりと撮影したもののようだ。おそらく次々と故意に通行人へぶつかりにいく男を不審に思って隠し撮りしたのだろう。
スーツの男はしばらく構内を歩いたあと、今度は白髪の女性の前に立ちふさがるようにして近寄ると、どんと強く肩をあてるようにしてすぐ脇を通り抜けた。白髪の女性はぶつかられた勢いでよろけ、危うく倒れこみそうになる。それを後ろにいた人が支えて事なきを得ていた。そこで、動画は終わっている。
「この動画がSNSにアップされると瞬く間に拡散され、被害を受けたことがあるという声がうちにも多く寄せられた。前々からこの手の話は分駐所に届いてはいたが、ぶつかる程度のトラブルなら日常茶飯事。一つ一つの案件は怪我人が出るほどでもなかったから、たくさんのトラブルの中に埋没してしまっていたんだ。でも、この動画が世に出たことで、意図的にぶつかることを繰り返す輩が存在することが明らかになった」
それで本格的に捜査することになったのだという。
そうこうしているうちに、二人は今朝ぶつかりおじさんの被害があったという現場に到着する。
そこは、新宿駅南口の改札近くだった。
ここは小田急線からの乗り入れや、改札からの人の出入り、それに加えて七つあるホームへの乗り換え客で一日中ごったがえしているエリアだ。
それぞれの目的地を目指して足早に移動していく利用客たちが、構内を縦横無尽に通り過ぎていく。
このエリアで今朝、乗り換えホームに向かおうとしていたOLや学生にわざとぶつかって突き飛ばしていく通称『ぶつかりおじさん』が出たのだという。
被害の報告があってすぐに北条が現場に向かったのだが、彼が到着した時にはもうそれらしき人物の姿はどこにも見えなくなっていた。
構内の監視カメラの映像は警視庁新宿署に送られて犯人捜査が続けられているのだそうだが、犯人もそのことは承知しているのか、犯行を行ったあとは電車を乗り継いで逃げてしまい、毎回使う路線も降りる駅も違うとのことでまだ犯人の身元特定には至っていなかった。
「犯行現場をおさえて現行犯で捕まえることができれば、それがなによりなんだけどな」
そのために構内の警らは強化されているらしいが、鉄道警察が抱える案件はこれだけではない。そのうえ、『ぶつかりおじさん』が出没するのは新宿駅構内に限らないのだ。調べてみると東京駅や品川駅など多くの客が行きかう駅で同様の事件が続いていることがわかった。
次にホシが出没するのが、ここ新宿なのか。それとも別の駅なのか。それすら予想がつかなかった。
「でも、なんでわざとぶつかってくるんですかね」
北条とともに人ごみを縫うように歩きながら、亜栖紗は尋ねてみる。
「さぁな。憂さ晴らしなんじゃないか。狙われるのは主に女性。……反撃されそうにない自分より力の弱い相手ばかり狙ってるあたり、通り魔と同じだよ。犯人は人間のクズであることに違いはない」
忌々しそうに、北条は語気を強くして言い捨てた。
そんな話をしながらも、二人の視線は注意深く辺りに向けられている。その後別れて構内をパトロールしたが、この日はあの動画の人物らしき男を見かけることはなかった。
警らを終えて分駐所に戻った亜栖紗を、柳川警部は「お疲れさまー。初めての警らはどうだった?」とにこやかに労ってくれる。
実は途中で迷子になってしまって、事前にもらっていた構内地図を頼りになんとか帰ってきたことは口まで出かかったけれど言えなかった。
人ごみの中を歩くのにまだ慣れておらず、たくさんの人に酔ってしまったのか分駐所に戻ったとたんどっと疲れを感じる。
もともと高校まで過ごした町は単線しかない無人駅だった。そんな地元から大学進学のために東京に出てきたときには、この新宿駅を見て『今日は町中の人がここに集まってくる一年に一度のお祭りでもあるの!?』と驚いたほどだった。その驚きは今もあまり変わらない。
三百五十万もの人が毎日行きかうだなんて、そんな駅が存在することがいまだに信じられなかった。
(でも、念願だったこの駅の鉄道警察隊に入れたんだもん。がんばらなきゃ)
こっそりと心の中でこぶしを握る。
せめて迷子にならないように、構内の地図を覚えることから始めなきゃ。そう決意したところで、ガラッと入り口のドアが開く音がした。
そちらに目を向けると、北条が戻ってきたところだった。
「お帰り。北条くん。どうだった?」
柳川警部の言葉に、北条は沈痛な表情でゆるゆると首を横に振る。
「途中で迷子を見つけて、親へ引き渡した以外は……何も」
そう答えると、彼は脇に置かれた事務棚から警ら日誌を取り出して、大きなため息とともに自分のデスクにつく。
なんだか、ひどく気落ちしているようだ。何があったんだろう。気になっていると、柳川警部が彼のそばに近寄って肩をポンポンと軽く叩いた。
「そのうち必ず検挙できる日が来る。それが一日でも早く来るように、我々も力を尽くすしかないよ」
柳川警部の励ましの言葉に、北条は「はい」と大きくうなずくと、デスクに置いた警ら日誌を開いた。
それから一週間。
ぶつかりおじさんは新宿駅には現れず、都内の他の駅からも目撃情報はあがってこなかった。
とはいえ、分駐所には他にも様々な相談事が舞い込んでくる。痴漢に、落とし物、道案内……。それらを上司である北条について一つ一つやり方を学びつつ、一日数回の警らをこなす。そうやって一日は慌ただしく過ぎていった。