多くの人が足早に行きかう巨大ターミナル駅。
その構内でいま、一人の若い女性が小さな悲鳴とともに床へと倒れこんだ。
躓いたのでもなければ、めまいを起こしたのでもない。
彼女は突然、背後から強く誰かに突き飛ばされたのだ。
倒れたときに打ち付けた足の痛みをこらえてようやく顔をあげた彼女は、自分を突き飛ばして去っていく背中を恐怖の籠った目で見送るしかできなかった。
すぐに人ごみの中に消えたその背中は、どこにでもいそうなくたびれたスーツの男だった。
新宿駅。
東京都新宿区と渋谷区にまたがって存在するこの駅は、JR東日本、京王電鉄、小田急電鉄、東京メトロ、都営地下鉄が乗り入れる巨大ターミナル駅である。一日の乗降客数は三百五十万人を超え、ギネス世界記録にも認定されているほどだ。
それだけの人が利用するのだから、日々多くのトラブルが発生する。それらのトラブルに対処するために、警視庁鉄道警察隊の新宿分駐所が新宿駅構内に置かれていた。
その入り口上部に金文字で書かれた『新宿分駐所』の文字を、淡いアイボリー色のスーツを着た反町亜栖紗は胸を膨らませて見上げる。
(いよいよ、ここで働くんだ!)
今年の春に警察官として警視庁に採用されたばかりの亜栖紗は、警察学校での研修を終えて、今日からここ新宿分駐所に配属されることになった。
これまでも警察署での職場研修は受けたけれど、あれはあくまで研修として行われるもの。
一人の警察官として職場に配属されるのは初めてなので、いやがおうにも緊張は高まる。しかも、第一希望が通って鉄道警察隊に配属されたのだ。
昨日はうれしさのあまりほとんど寝れなかった。そのせいでここへ来る途中、たまたま座れた座席で寝落ちてしまってうっかり新宿駅で降り損なうところだった。危ない危ない。あそこで寝落ちたまま山手線を周回していたら、初日から大遅刻するところだ。
約束の時間に遅れることなく到着できた安堵感と、ようやく憧れの場所で働けるという嬉しさで心の中は大忙しになっている。それを一つ大きく深呼吸して、気持ちを整えた。
(今日からここで頑張るんだもん。しっかりしなきゃ)
よしっと胸の前で拳を握ると、ドキドキと高鳴る気持ちを抑えて新宿分駐所の入口ドアに手をかける。
そのとき、ちょうど分駐所の中から一人の男性が急いで出てこようとした。中の様子に意識がいっておらず男性の存在に気づかなかった亜栖紗は、危うくぶつかりそうになる。
「きゃ、きゃっ」
スーツ男の胸に顔から突っ込みそうになったところを、寸前で両肩を掴まれて押しとどめられた。
「すみません」
「い、いえ……こちらこそっ」
顔を上げた亜栖紗は、スーツ男と目が合って思わずはっと息をのむ。
身長百五十センチちょっとしかない小柄な亜寿沙を見下ろしていたのは、百八十センチはありそうなすらりとした背丈に涼しい目元をした、端正な顔立ちの男性だった。むしろ何もかも整いすぎていて一瞬CGか人形なんじゃないかと疑いたくなるが、掴まれた腕の力強さは確かに生身の人間のものだ。そのメガネの奥からは切れ長の鋭い視線が、亜栖紗に注がれていた。
しかしそれも一瞬のことで、彼はすぐに亜栖紗の身体を脇に避けるようにしてその横を通り過ぎると、人通りの多い構内を走っていって見えなくなる。
その姿が視界から消えると、亜栖紗はほうっと息をついた。あんな綺麗な顔立ちの人、リアルで見たのは初めてだ。
と、開きっぱなしになっていたドアの奥から、亜栖紗に声がかけられる。
「どのようなご用件でしょうか?」
声のしたほうに目をやると、いつの間にかそこに穏やかな笑みを湛えた中年の警察官が立っていた。慌てて亜栖紗はトートバッグを肩から降ろし、深くお辞儀をする。
「今日からここに配属になりました! 反町亜栖紗です! よろしくお願いいたします!」
その構内でいま、一人の若い女性が小さな悲鳴とともに床へと倒れこんだ。
躓いたのでもなければ、めまいを起こしたのでもない。
彼女は突然、背後から強く誰かに突き飛ばされたのだ。
倒れたときに打ち付けた足の痛みをこらえてようやく顔をあげた彼女は、自分を突き飛ばして去っていく背中を恐怖の籠った目で見送るしかできなかった。
すぐに人ごみの中に消えたその背中は、どこにでもいそうなくたびれたスーツの男だった。
新宿駅。
東京都新宿区と渋谷区にまたがって存在するこの駅は、JR東日本、京王電鉄、小田急電鉄、東京メトロ、都営地下鉄が乗り入れる巨大ターミナル駅である。一日の乗降客数は三百五十万人を超え、ギネス世界記録にも認定されているほどだ。
それだけの人が利用するのだから、日々多くのトラブルが発生する。それらのトラブルに対処するために、警視庁鉄道警察隊の新宿分駐所が新宿駅構内に置かれていた。
その入り口上部に金文字で書かれた『新宿分駐所』の文字を、淡いアイボリー色のスーツを着た反町亜栖紗は胸を膨らませて見上げる。
(いよいよ、ここで働くんだ!)
今年の春に警察官として警視庁に採用されたばかりの亜栖紗は、警察学校での研修を終えて、今日からここ新宿分駐所に配属されることになった。
これまでも警察署での職場研修は受けたけれど、あれはあくまで研修として行われるもの。
一人の警察官として職場に配属されるのは初めてなので、いやがおうにも緊張は高まる。しかも、第一希望が通って鉄道警察隊に配属されたのだ。
昨日はうれしさのあまりほとんど寝れなかった。そのせいでここへ来る途中、たまたま座れた座席で寝落ちてしまってうっかり新宿駅で降り損なうところだった。危ない危ない。あそこで寝落ちたまま山手線を周回していたら、初日から大遅刻するところだ。
約束の時間に遅れることなく到着できた安堵感と、ようやく憧れの場所で働けるという嬉しさで心の中は大忙しになっている。それを一つ大きく深呼吸して、気持ちを整えた。
(今日からここで頑張るんだもん。しっかりしなきゃ)
よしっと胸の前で拳を握ると、ドキドキと高鳴る気持ちを抑えて新宿分駐所の入口ドアに手をかける。
そのとき、ちょうど分駐所の中から一人の男性が急いで出てこようとした。中の様子に意識がいっておらず男性の存在に気づかなかった亜栖紗は、危うくぶつかりそうになる。
「きゃ、きゃっ」
スーツ男の胸に顔から突っ込みそうになったところを、寸前で両肩を掴まれて押しとどめられた。
「すみません」
「い、いえ……こちらこそっ」
顔を上げた亜栖紗は、スーツ男と目が合って思わずはっと息をのむ。
身長百五十センチちょっとしかない小柄な亜寿沙を見下ろしていたのは、百八十センチはありそうなすらりとした背丈に涼しい目元をした、端正な顔立ちの男性だった。むしろ何もかも整いすぎていて一瞬CGか人形なんじゃないかと疑いたくなるが、掴まれた腕の力強さは確かに生身の人間のものだ。そのメガネの奥からは切れ長の鋭い視線が、亜栖紗に注がれていた。
しかしそれも一瞬のことで、彼はすぐに亜栖紗の身体を脇に避けるようにしてその横を通り過ぎると、人通りの多い構内を走っていって見えなくなる。
その姿が視界から消えると、亜栖紗はほうっと息をついた。あんな綺麗な顔立ちの人、リアルで見たのは初めてだ。
と、開きっぱなしになっていたドアの奥から、亜栖紗に声がかけられる。
「どのようなご用件でしょうか?」
声のしたほうに目をやると、いつの間にかそこに穏やかな笑みを湛えた中年の警察官が立っていた。慌てて亜栖紗はトートバッグを肩から降ろし、深くお辞儀をする。
「今日からここに配属になりました! 反町亜栖紗です! よろしくお願いいたします!」