「空は、青いのよね」

 当たり前のことを、彼女は当たり前ではないように呟いた。

「そうですね」

 僕はその言葉に、肯定を返した。
 実際のところ、彼女の言葉は独白で、誰かに答えなんて求めていないことは分かっていた。
 ただ僕は、彼女と話がしたかったのだ。

「そんなふうに即答してはいけないわ」

 くすりと笑われて、なんだか恥ずかしくなる。
 向けられた彼女の瞳から、なんとなく目をそらしてしまうくらいに。

「だって、空は青いじゃないですか」

 照れ隠しのような語気が、真っ白な床に乱反射した。
 くすくす。彼女が笑って、言葉をこぼす。

「だって、朝の空は赤くて、夜の空は真っ黒なのよ」
「あ」
「それなのに、青だなんて決めてしまったら、ほかの色はどこへ行くの?」
「ごめんなさい」

 慌てて謝ってから、ふと、気付く。

「最初に言い出したのは、あなたじゃないですか」

 ばれたか、と言いたげにぺろりと舌を出す彼女は、僕の瞳に強く焼き付いた。
 それが愛おしいという感情だと叫ぶ胸の鼓動を押し込めて、僕はなるべく冷静に見えるように、ため息を吐いた。

「ごめんなさいね。ただ、そう。私の見えている世界をどう伝えるか、迷ったの」
「見えている、ですか?」
「目が見える人に、私の見えている世界は、どう伝わるのかしらね」

 心に刺さるように、ちくりとする言葉。
 彼女の言葉の意味は、ただそのままのもの。
 生まれつき、彼女の瞳は世界を映さないのだという。
 難病で、いずれ死に至るのだと、そんなことを聞いた。
 僕には難しい病名や症状なんてとても分からない。けれど、彼女の目が見えなくて、そう長く息をしてはいられないのだと言うことは、分かっていた。

 そして彼女のことで、知っている事がもうひとつ。

「小説家でも、言葉が出てこないなんてあるんですか」

 生まれつき病室から出ていない彼女は、小説を書いている。
 僕は彼女の書いた小説を読んだことはないけれど、ある程度の収入はあるそうだ。

 ちょっとした骨折で入院した僕が、偶然彼女と出会ってから、およそ数ヶ月。
 すっかり完治したというのに、僕は病院に通いつめていた。理由は、言うまでもなく。

 じんじんという蝉の声を背景に、彼女は目を細めた。
 夏の日差しがまぶしいのではなく、ただ微笑みとして、瞳が三日月になる。
 その姿を美しいと思っていると、言葉がやってきた。

「小説家だからこそ、かな」
「だからこそ、ですか」
「言葉の意味を知っているから、言葉に出来ない言葉を、どう口にしていいか分からなくて、息が苦しいの」

 僕には、その感覚は分からない。
 僕の目は生まれたときから色鮮やかな景色を見続けていて、見えない中で見えるものなんて、分からない。
 そして小説家でもないから、その感覚も、やはり分からない。

 僕はそのことを、包み隠さず彼女に伝えた。
 光を映さない彼女は、人の表情を読むことができない。誰かが放つ声の揺らぎは、そのまま不安になるのだという。
 だから僕は、彼女と話すときはなるべく嘘をつかないようにしていた。
 恋心をしまうことだけが、彼女への唯一の隠し事だった。

「うん。分からない人に、分かるように伝えられないうちは、きっと私は未熟なのよ」

 屈託なく笑う彼女に、悲壮感はない。
 いつか分かるような言葉が自分から生まれると、まるで根拠もなく信じているような態度だった。

「焦らないんですね」

 その態度に、僕はなんとなく寂しさを感じてしまった。
 胸をぎゅるりと蔦のようななにかが締め付ける。その苦しさから逃れたくて、僕の口は半ば勝手に動いていた。

 だって彼女は人よりも早く死んでしまう。
 なのに、そんなふうに時間があるように言葉を紡ぐなんて、寂しいじゃないか。

 僕を映さない瞳が見開かれたのは、ほんのひとときのこと。
 彼女は僕を映すことなく見据えて、ただ笑った。

「君もなにか、伝えたくて、苦しいのかな」

 心臓を撫でられたような気分だった。

「いいえ、そういうわけでは」
「嘘だよ。だってみんな、そうなんだもの」
「みん、な?」
「みんな、誰かになにかを伝えたくて、伝えながら生きているの。ただそれが、どう言えば伝わるか、どうすれば分かってくれるのか、とても難しいだけなのよ」
「そう、かもしれません」
「うん。誰にでも、自分の心臓の音が、自分が考えていることが、見ている世界が、きちんと伝わるなんてこと、無いから」

 少しだけ寂しそうに落とされた言葉が、蝉の鳴き声に食われていった。
 その音から逃れるようにゆるく首を振って、彼女は言葉を続けていく。

「だから私は、言葉を重ねたいのだと思う。未熟でも構わなくて、届けと言うのだと思う」
「……小説家って、難しいんですね」
「人はみんな、自分の気持ちを誰かにどう伝えようかって、悩むんだよ。他の人より悩んだら、そのときは小説家になっちゃうだけなんじゃないかな」

 その言葉は、うっすらと納得ができるものだった。
 自分の話したことが思うように伝わらなくてもやもやするなんて、きっと誰でも一度は経験している。

 だからこそ、人は誰かと言葉を交わすとき、慎重になる。
 誤解を招けば謝るし、伝わらなければ悲しくなって、怒ったりもする。
 きちんと伝われば楽しくなるし、気持ちが通じ合えば生涯を共にする。
 誰かと繋がることは、きっと伝えることからはじまっているのだ。

「ねえ」
「なんですか」
「私ね、もうすぐお迎えが来るんだって。だから、プレゼント」

 お迎えという言葉の意味は、今更聞くまでもなかった。
 だから僕はそのことに寂しさを感じこそすれ、その気持ちを表に出して、話の腰を折ろうとは思わなかった。
 彼女がそっと枕の下から引き抜いたのは、一冊の真っ白な本。
 受け取ってみればそれは重く、真新しい紙の香りがした。

「無理を言って、一冊だけ刷ってもらった、君のために書いた本。サイン入りだよ」
「いいんですか?」
「うん。君に読んでほしい。そしてこの本を持って、外に出たら、もう来ないでほしいの」

 本当はその言葉には、嫌だと言いたかった。
 けれど僕は彼女の恋人でも、家族でもない。
 来るなと言われれば、僕が言える言葉はひとつだけだ。

「分かりました」

 寂しさを抑えて、僕は病室をあとにした。
 振り返ることもなく、ただ扉を閉めて、家に帰って、本を開いた。
 それが彼女が僕にあてた、最後の言葉だと思ったから。

 それから、何十年と月日が経った。
 僕は彼女が死んだという言葉を聞くことは無かった。家族でも恋人でもないのだから、当然か。
 それでもあの日、彼女はお迎えが来ると言ったのだから、きっとその通りになったのだろうと、そう思う。

「……空が、青いな」

 想い出でちくりと傷んだ胸から逃れるように、僕は窓の外を見た。
 じわじわと蝉の声はうるさくて、やる気をずんずんと削いでいく。

「やる気出ないから、遊んできていい?」
「ダメですよ、それ今日中ですよ」
「うへあ」

 ぴしりと睨みつけてくるのは、僕よりもずっと年若い男性。
 やる気に満ち溢れた、若者らしい瞳が僕を突き刺してきて、なんだか落ち着かない。

「やだーもうやだー遊びたいーめっちゃ遊びたいー」
「ダメです! 今日中でないと困るんですから!」
「うー。がんばります」

 どう考えてもこちらの言い分がダメ人間なので、反論のしようが無かった。
 やれやれ、社会というのは厳しいものだ。
 渋々という感じで仕事に向かったところで、不思議そうな瞳が向けられていることに気付いた。
 なんだろうと思っていると、それを言葉にする前に相手が口を開いてくれた。

「どうして先生は、そんなにもいつもめんどくさいめんどくさいと言いながら、小説家をしてるんですか?」

 その疑問に対する答えは、たったひとつだけだ。
 質問を渡してきた彼の背後に置かれた本棚の片隅。古びて色褪せた白い本を眺めて、僕は、口を開いた。

「目が見えない人に、空の色を教えたいからかな」

 それが出来ない僕は、きっとまだ、未熟者なのだ。